小話:其の五拾《題名は文末に(仮題)》
【節操なく、“意味/価値”を見出す】
《題名は文末に(仮題)》
とある時代の、とある国の、とある寂れた公園に、ひとりの男の姿がありました。頭部にあるべき髪の毛はキレイに剃られており、代わりに『!』の形をした“のり”がひとつ後頭部に貼られてあります。身体に衣服はなく、隠す役割を果たしているのは、乳首のところにそれぞれ貼り付けられたピース・マークのシールと、股間のところにある束ねられた彼岸花だけでした。
男は走っていました。滝のように汗を流し、苦しそうに息を切らせています。多分に肌の露出した身体からは、湯気が立ち上っています。
必死の形相で、男は走っていました。しかし、男の身体は、その場からまったく移動していませんでした。
男は、ルームランナーの上で走っていました。青空の下、心地好いそよ風の流れる公園で。わざわざ“それ”を持ち込んで。
公園という場所なので、もちろん男以外にも多数のヒトの姿がありました。そしてもれなく、その多数のヒトの目は、男を眺めています。
ともすれば、ともしなくても、とても目立つ男は、警察に通報されてもおかしくありません。ですが、そうするヒトの姿はありませんでした。通報するどころか、感慨深そうな表情をしているヒトの姿があります。
ルームランナーの前に、スケッチブックが置かれてありました。そこには、太い文字で大きくわかりやすく、“題名【 】”と書かれてありました。
空が青色から黄昏色に変貌する頃になると、眺めるヒトの姿が徐々に減ってゆきました。そして街灯に灯りがともる頃には、眺めるヒトの姿はなくなっていました。けれど男は、まだ走っていました。
――翌日。
男の姿は、昨日と寸文の狂いなく同じ場所にありました。身なりも、まったく同じです。――それもそのはず。この男は、昨日から休みなく走り続けているのです。
そのことを知った眺めるヒトのひとりが、ルームランナーの前にあるスケッチブックの前に空のお菓子の缶を置きました。そしてお財布をひっくり返し、ありったけの小銭をそのお菓子の缶に入れました。
――翌日。
男の姿は、昨日と寸文の狂いなく同じ場所にありました。身なりも、まったく同じです。――それもそのはず。この男は、昨日から休みなく走り続けているのです。
そのことを聞きつけたマスコミが、男を取材しに訪れました。そして「あなたは、なぜ走っているのですか?」と問いました。
男は黙して走り続けます。
「争いをやめない者たちへの抗議ですか?」
男は黙して走り続けます。
「平和への訴えですか?」
男は黙して走り続けます。
「貧しい子どもたちへの寄付金を集めるチャリティー・パフォーマンスですか?」
男は黙して走り続けます。
男は、その日のトップ・ニュースに取り上げられました。
――翌日。
男の姿は、昨日と寸文の狂いなく同じ場所にありました。身なりも、まったく同じです。――それもそのはず。この男は、昨日から休みなく走り続けているのです。
そのことを聞きつけた知識人たちが、こぞって意を述べました。男のやっていることの意味や価値を、各々好き勝手に、さもそれが唯一無二の正解であるかのようにマスメディアを通じてうそぶきました。
流行に影響されやすい鋭敏なヒトたちが、知識人が意を述べるようなスゴイ人物を一目見ようと公園に殺到しました。
それに比例して、スケッチブックの前に置かれたお菓子の缶に投入されるお金が増えてゆきました。ついには缶から溢れてしまい、見かねた誰かが新たにいっと缶を設置しました。
しかし男は目の前で増えて溢れるお金に一切の興味を示さず、ただその場で走り続けます。
――翌日。
男の姿は、昨日と寸文の狂いなく同じ場所にありました。身なりも、まったく同じです。――それもそのはず。この男は、昨日から休みなく走り続けているのです。
そのことを聞きつけた感化されやすいヒトたちが、男の真似事をやりだしました。崇高な“なにか”を魂で感じたんだ、と感化されたヒトのひとりが神妙な顔をして、マスコミの取材に返答していました。
知識人たちは、新たな宗教の誕生を目の当たりにしていると述べました。
男はどんどん有名になってゆきました。それに比例して、生たまごを投げつけたりという、男のやっていることを否定する意も出てきました。
しかし男は生たまごで身体が汚れたことになど一切の関心を示さず、ただその場で走り続けます。
――翌日。
男の姿は、昨日と寸文の狂いなく同じ場所にありました。身なりも、まったく同じです。――それもそのはず。この男は、昨日から休みなく走り続けているのです。
そのことを聞きつけた男を知るヒトたちが、真偽を確かめるように訪れました。そして走っている男がまぎれもなく自分の知っている男だと確信を得て認識すると、各々とても驚いたふうを顔面を使って表現します。
男を知るヒトたちであると知ったマスコミが、彼ら彼女らに喰い付きました。男はいったい何者であるのか。男はどうして走っているのか。いまの男を見て、どう思うか。
数多くのカメラや好奇の目を向けられた男を知る彼ら彼女らは、まるで有名芸能人になったかのような高揚感に囚われました。振る舞いまで、どこかそれっぽく高慢です。男がスゴイことをやる大変優秀な人物であると以前から見抜いていた、と口をそろえてかたり、さも自分がそんな男と同等の人物であるかのように言葉の裏で主張します。
しかし男は好き勝手に言葉を吐く彼ら彼女らになど一切の意識を向けず、ただその場で走り続けます。
――翌日。
男の姿は、昨日と寸文の狂いなく同じ場所にありました。身なりも、まったく同じです。――それもそのはず。この男は、昨日から休みなく走り続けているのです。
そのことを聞きつけた近所の子どもたちが、学校帰りの途中、見物に訪れました。保護者や学校からは、公園の走る男・見物禁止令なるモノが発せられているのですが、それで子どもの好奇心を抑制することはできないようです。
有名な芸術作品を鑑賞するような顔をしている大人たちの間から、子どもたちは話題の公園の走る男を見やりました。――そして、
「マジかよ……」
子どもたちはいちように落胆したふうに、
「……ぜんぜん、おもしろくないね」
感想を述べました。それから周囲の大人たちの顔を見やって、走る男を見やって、
「くだらない……」
じつにきっぱりと批評します。
それを聞いた周囲の大人たちは、いちように自分より下の“わかってない”存在を見やるような目で子どもたちを見やりました。
それを聞いたルームランナーの上で走る男は、その場で走り続けた脚を、止めました。
あまりにも不意の出来事だったので、数泊遅れてざわめきが起こりました。一部の大人たちは単純に驚き、一部の大人たちは責めるような視線を子どもたちに向けました。
ついに走るのを止めた男は、周囲の反応に一切の感慨を示さず、けれど歓喜するヒトの笑みを満面に浮かべて、
「ありがとー!」
感謝の言葉を大きく発しながら、批評した子どもに抱きつきます。
抱きつかれた子どもは、心の底からイヤそうな顔をして、拘束から逃れようともがきます。
ハゲ頭の後頭部に『!』の形をした“のり”が貼られ、乳首のところにそれぞれ貼り付けられたピース・マークのシールと、股間のところにある束ねられた彼岸花だけという、ほぼ全裸の姿をした男が。滝のように汗を流し、苦しそうに息を切らせ、多分に肌の露出した身体から湯気を立ち上らせている男が。イヤがる子どもに抱きついている絵図らが、そこにありました。
大人たちはどうするでもなくその光景を眺め、抱きつかれた子どもと共にこの場に来た子どものひとりが慌てたふうに携帯電話を取り出して“しかるべきところ”へ電話しました。
権力の象徴の制服に身を包んだ方々が、権力の象徴たる彩色のされた自動車を駆り、子どもからの通報を受けて、迅速に参上しました。
数多くのヒトの目があるので、とりあえず詳しい話は“しかるべきところ”でということになり、走っていた男は、権力の象徴たる彩色のされた自動車に押し込まれました。その間も、それ以後も、男は歓喜したままでした。
男に感化されて真似事をやっていたヒトたちが、まるで信仰の対象を失ったヒトのような表情を浮かべて、男を乗せた自動車の去りゆく後姿を眺めていました。
奇妙な熱気と賑やかさのあった公園内に、妙な静けさが生じました。
男が走っていたルームランナーの前に置かれていたスケッチブックが、不意と倒れました。
スケッチブックの前に置かれていたお金の溢れている缶が、倒れてきたスケッチブックに、不意と小突かれました。
不意と衝撃を受けたお金の溢れている缶から、お金がこぼれました。
妙な静けさのある公園内に、お金の落ちる音が明瞭に響き渡りました。
公園内にある数多くの耳に、その音は明瞭に響き渡りました。
公園内にある数多くの目が、無抵抗主義者のごとく置かれてある溢れるお金を見やりました。
公園内にある数多くの利巧な獣の目が、愛想笑いを浮かべて、互いの間合いをはかります。
* * *
とある時代の、とある国の、とある街の、とある人通りの少ない路地裏に、ひとりの男の姿がありました。愛想の悪い顔をして、身には上下揃いの黒のジャージを着ています。いまは、コンビニで缶ビールを買った帰路の途中です。
男の進路を作為的にさえぎるように、“なにか”が落ちてきました。男は「チッ、あぶねぇーなっ! クソ!」と黄昏色の空に向かって悪態と吐き、それからなにが落ちてきたのか気になって、道ばたにある“なにか”をよくよく目を凝らして見やります。
そこには、一冊の黒いノートがありました。外装が真っ黒という以外は、いわゆる大学ノートのそれと同じです。
男は、空から黒いノートが落ちてきた不自然さに、深い疑念を懐きました。――が、考えたところでなにがわかるわけではないので、とりあえずその黒いノートを手にとってみます。当然のように、ページを開きます。表紙の裏面も真っ黒で、そこには白色で文字が書かれてありました。
顔を思い浮かべながら名前を記入すると、その人物の命を奪うことのできる、あの有名な黒いノートか、これは。――と、男は直感的に思いましたが、白色で書かれてあることをよくよく読んでみると、まったくそうではないことがわかりました。
これは、“誰か”の願いをひとつだけ叶えるノートです。叶えられる願いは、このノートの使用者につき、ひとつだけです。願いは、どんなことでも可能です。下記、このノートの使用方法。願いを叶える対象となる人物の氏名・年齢・生年月日を記入してください。その人物の身に起こってほしい願いを記入してください。このノートを使用する、あなたの氏名・年齢・生年月日を記入してください。このノートを使用する本人照明として、あなたの血判を押してください。このノートの使用方法は以上です。
そんなことが、そこには書かれてありました。
「は、そりゃあいい」
男は、まったく信じていませんでしたが、お遊び的に黒いノートを持ち帰ることにしました。
――そして。
帰宅した男は、まずなにより優先して買ってきた缶ビールに口をつけました。それから冷蔵庫をあさり、きゅうりの浅漬けとキムチというなかなかよろしい感じのお供を酒の席に迎え入れます。ビールを嗜む勢いが、ぐぐっと増します。
六本目を飲み干して、なんとなく愉快な気分になってきた男は、
「ん? なんだこのノート?」
ふと気まぐれ的に、ほっぽられてあった黒いノートに意識を向けました。どうやら、自分で拾ってきたことは、すっかり忘れてしまっているようです。
男は愉快な気分に先導された好奇心から、黒いノートを手にしました。当然のように、ページを開きます。
「んー? なになにぃ? 願いを叶えるだあ? ずいぶんとまた気前のいいことぬかしてくれるなあ、おい!」
酔っ払いのノリで言いながら、男はボールペンを取り出して、黒いノートに必要事項を記入してゆきます。
「ああん? 血判だあ? おもしれぇこと要求してくるなあ、おい!」
愉快な気分によって冷静な判断力が低下しているのか、男は台所から包丁を持ってくると、なんの迷いもなく親指の腹を浅く切りました。当たり前のように出血します。
「ほらよっ」
と掛け声を発しながら、男は出血した親指を、ぐいと必要事項を記入し終えた黒いノートに押し付けました。そして血によってべたりと紙面に密着した親指を離すと、そこには指紋の形がよくわかる血色の印がありました。
「…………」
男は客人の来訪を歓迎するヒトのように“それ”を待ちましたが、
「………………………………なんにも起こらねえじゃねえかこのクソが!」
結局、男が願った“それ”が起こることはありませんでした。男は悪態を吐いて黒いノートをぶん投げると、それと一緒に意識までぶん投げてしまったらしく、電池の切れたおもちゃのようにそのままガックリと寝てしまいました。いびきが室内に轟き、来るべき静寂の訪れを阻害します。
――翌日。
扉と一体化した郵便ポストに“なにか”か投函された音と、バイクの去りゆくエンジン音に、男は起床をうながされました。薄く目を開くと、カーテンの隙間から射す朝の光に目を焼かれ、
「――っ!」
反射的に手をやって影を作り、
「クソ、もう朝か……」
どうにもスッキリしない目覚めに苛立ちつつ、あくびを噛み殺して、だるい身体を叱咤し、起き上がります。そして朝の習慣として、緩慢な動きで新聞を取りに向かいます。
新聞を持って戻る途中、男は台所に立ち寄って水を二杯ぐびぐびと飲んでのどを潤しました。
戻り、腰を下して。男は新聞を広げました。不景気な顔をして、不景気な言葉の躍る紙面を見やります。
「――ん?」
あるページを開き、男の思考が一時停止しました。
「…………どゆこと?」
そこには、この国で一等賞金が最高額の“くじ”が一枚、潰した米粒で貼り付けられてありました。その“くじ”の横には、この国で発行されている“くじ”の当選情報が書かれてあります。
「……まさか、な」
謙虚さのような理性で否定しつつ、男は貼られてある“くじ”と当選情報を見比べました。まったく根拠のない期待に由来する下品な笑みが、その顔に滲み出ています。
「おっと……」
その瞬間、男の思考が完全に停止しました。
そこにある“くじ”と、
そこにある当選情報が、
完全に一致していました。
一等のところで。
その瞬間から、男の生活は一変しました。
男は成功者がステータスとして住む一等地にある高級高層マンションに居を移し、ブランド物の衣服に身を包み、実用性のない豪華な腕時計をして、希少で高級な酒を水道の水がごとく胃に流し込み、豪華で高価な食事をコンビニ食品がごとく胃に詰め込み、そして知り合いのヒトたちにお金のある贅沢な苦悩をとうとうと語って聞かせました。
――そして時は流動し、一ヶ月後。
男が大型の最新テレビで映画を鑑賞していると、インターフォンが鳴りました。懐が潤っているヒトが多く住むマンションなので、外部の者がエントランスホールに入るためには、住人に許諾を貰って扉を開けてもらわなければならず、エレベーターも許諾がないと使用できない仕様なのです。
「ん? 誰だ?」
男は懐が潤っているヒトの余裕ある寛容な態度でテレビのリモコンを操作し、画面を分割に切り替えました。右には無音で映画が流れ、左には黒いスーツ姿の男が映し出されます。テレビとインターフォンが接続されており、テレビのリモコンにマイクが内蔵されてあるので、座り心地のよい高級ソファーから重い腰を上げることなく呼び出しに応じることができるのです。
「はい、はい、どちら様ですか?」
「あ、どうもー。わたくし――」
画面の中の黒スーツは、
「あなた様から、契約に対するしかるべき“返済”を受け取りに参った者ですー」
よく訓練された営業スマイルを浮かべて、述べました。道化師じみた仄暗い得体の知れなさが画面から滲み、伝わってきます。
「契約? 返済? なんのことだ。そんな憶え、こっちには一切ないぞ」
「おやおやー、まさかしらばっくれて踏み倒すおつもりですか?」
「踏み倒すもなにも、憶えがないと言ってるだろう!」
男は不快感を隠すことなく言ってから、はたと状況を見抜いたヒトの表情になり、
「いや、なるほどなるほど。この悪徳業者め、因縁をつけて金を奪い取ろうというこんたんだな!」
ズバリ指摘しました。
――が、指を向けたテレビ画面の左に黒スーツの姿はなく。
「まったく、ずいぶんとまた失礼なことを言ってくれますねー」
音声は、テレビのスピーカーからではなく、
「わたくしは、正当に交わされた契約に対する“返済”を受け取りに参ったというのに」
男の左耳のすぐ隣から聞こえてきました。
「なっ!」
突然の理解し難い事態に、男は冷や水を浴びせられたような怖気を感じて、
「なななぜっ!」
けれど腰が抜けてしまい、高級ソファーの上から動けず、
「どどどうしてここにっ!」
気力を決死総動員して、そう言葉を投げつけるのがやっとでした。
「ですから、先ほどから申しておりますとおり」
黒スーツは忍耐力のあるヒトの営業スマイルを浮かべて、
「わたくしは、正当に交わされた契約に対する“返済”を受け取りに参ったのです」
高級ソファーに座して動けない男の両肩に、そっと手を置きます。
「ひいっ! だ、だからさっきから言ってるだろう、こっちにそんな憶えないんだ」
男は身をすくませながらも、こんなことに至る記憶が本当にないことを訴えました。
「ひ、人違いじゃないのか?」
「いいえ、確実にあなた様です」
黒スーツは言い聞かせる柔らかい口調で言い、それから手品のような一瞬さで、すっと男の目の前に一冊の黒いノートを出現させます。
「これに、見憶えがございますでしょう?」
「こんなの――」
男は、脳みそではまったく心当たりのない“ドキリ”を、
「どこにでも売っている、ただの、そうただの、ノートじゃないか」
胸の内で“ドキリ”と懐きながらも、
「これが」
口先に限って、強気にチャレンジャー精神を発揮しました。
「これが、なんだと言うんだぁ」
発音は内心に忠実で、尻つぼみにか細く消えてゆきましたが。
黒スーツは余裕あるヒトの営業スマイルを浮かべたまま、
「では――」
と、黒いノートを開いて、
「こちらは、記憶にございますでしょう?」
突きつけるように、文字の書き込まれたページを男の視界に置きます。
「だからっ」
男は反射的に“知らぬ”と言おうとして、
「――っ! …………これは、……まさか」
しかし視界に置かれてある“それ”には、どうしようもなく、憶えがありました。
「おお! 思い出していただけましたか」
黒スーツは、やっと話を進められることに「ほっ」と微笑を浮かべてから、
「――では」
と、事務的な作業を処理するヒトの顔になります。
「ここに書かれてあります、あなた様のあなた様に対する“いまより金持ちになる”という願いは叶えさせていただきましたので、契約の取り決めに基づきまして、“いまより金持ちになる”という願いと相応の“返済”を、お納めください」
「――は? ちょっと待て待て待て」
「はい? なんでございましょう?」
「確かに、確かにあの黒いノートに“いまより金持ちになる”と書いた。そこは潔く認めよう。――だが、だがしかし、だ! あの黒いノートの使用方法に、“返済”なんて言葉、一文字も書いてなかっただろ! これは明らかにそっちの不正請求だ!」
男は一変して勝利を確信したヒトの表情になり、そう言い切りました。
「いいえ」
黒スーツは、想定の範囲内の事態を冷静に処理する熟練者の営業スマイルを浮かべて、
「“返済”に関することも、しっかりと記載させていただいております」
黒いノートの裏表紙の裏面を開いて、男に提示します。そこには、表紙の裏面と同様に、白色で文字が書かれてありました。
「こんなの、気づくわけないだろ! 不正だ! 不当だ!」
男は保身するヒトの勢いで抗議しました。
「――と、申されましても。とくに小さな文字を使用しているわけでもなく、黒地に白字という読みやすい配色でありますし、こちらと致しましては、課せられた責務はきちんと果たしております。不正だ、不当だ、と責められるゆわれはございません」
黒スーツは、冷気の滲む不動さで言葉を返し、
「そもそも、一度交わされた契約は、いかなる理由があろうとも、一切の例外なく破棄することができません。これは一方的なモノではなく、お互いに“そう”なのです」
余地も猶予も容赦もないという、いまここに横たわる揺るぎない事実を淡々と告げました。
「……………………参考までに」
男は迷路からの脱出路を模索するネズミのような慎重さで、口から言葉を発しました。
「これはあくまでも参考までに、だ。決して承知したわけではないぞ。いいな」
「はい。参考までに、ですね」
「そうだ。参考までに、だ。――で、訊くが、その願いと相応の“返済”というのは、いったいどういうモノなんだ? なにを“返済”しろと要求しているんだ?」
男も多少は鋭さのある脳みそを持ち合わせていたので、“金持ち”にした相手から“金”を要求することはないだろうと考え至っており、そしてだからこそ、いったい“なに”を“返済”として求められているのか、想像できない怖気を感じていました。
「願いと相応の“モノ”である、としかお答えすることができません」
黒スーツは、苦慮するヒトの表情をして言いました。
その曖昧さに、
「なんなんだよ!」
男は“形容し難いモノ”が足元からヌラヌラと這い上がってくるような不安を覚え、
「なんだよ、おい! ハッキリしろよ!」
追い詰められたネズミがネコを噛むような勢いで、
「臓器かっ? え、臓器なのか? 臓器が目当てなのか?」
と、大量の唾液と共に、言葉を口から吐き出しました。
黒スーツは首を横に振り、上品な静かさで“その可能性”を否定します。
「まさか――」
男は息をのみ、
「“いのち”か?」
ウソ偽りを渇望するヒトの眼をして、訊きました。
黒スーツは、アメリカン・コメディーを見て義務的に笑うヒトのように乾いた音声を口から出しました。
男は、不安そうに唾液を嚥下します。
「いただけるのでしたら――」
と黒スーツが口にした瞬間、男はこの世の終末を悟った賢者の顔をしてうつむきました。
「いただきたいところですが、“相応の”という決まりに忠実であることが、こちらの誇るべき流儀ですから、――おや? どうされたのですか? 熱心に床を凝視なさって」
「へ? あ、いや……」
「“いのち”と“あんなモノ”が相応であるわけがないじゃないですかー。これであなた様の“いのち”を“返済”としていただいてしまったら、あまりにも過請求で、わたくしが同志に粛清されてしまいますよー」
黒スーツは、親しいヒトのくだらない冗談に応じる砕けた姿勢で述べました。
「じゃあ! じゃあなんだってんだ!」
男は苦悩することに胸の内が参ってしまった悲痛さの滲む音声で、
「なにを“返済”しろって言うんだよぉ」
赦しを請うふうに言葉を吐き出しました。
「んー、ですから、“相応の”としか言い表しようがないのですよー。決まった“カタチ/名称”があるモノとは限りませんので」
という黒スーツの言葉に、男は悲愴な表情をします。
「百聞は一見にしかずと申しますし――」
黒スーツが、“やっと”というふうな少々の疲労と少々の喜びがある顔で発言し、
「では、さくっといってみましょうか」
パチン、と指を鳴らしました。
「――へ?」
部屋の電灯を消すように、
――世界が暗転しました。
男が肌に感じていた辺りの空気感が豹変しました。嗅覚にくるモノも、自室の“それ”とはまったく異なります。
暗転から、急速に光が再来しました。
「――っ!」
男の“視覚/脳みそ”が“眼のくらみ/思考の停止”から復帰し、“いまそこにある風景/いまここにある現状”をざっくりと把握するまでには、しばしの時を消費しました。
「…………どゆこと?」
そこには、まったく見憶えのない公園の風景がありました。他者の姿は、いまのところ見あたりません。
「あなた様には――」
黒スーツはその表情に一切の驚きの色なく、冷然と当然のことのように“これから男がおこなわなければならないこと/返済”について説明します。
いまから“返済”としての“おこない”として、この公園でなぜかルームランナーの上で走らなければならないこと。そして七日以内に、“金持ちになる”という願いに対する“返済”としてのその“おこない”の“本性”を誰かに言い当ててもらわなければならないこと。もし仮に言い当ててもらえなかった場合、期限を一日過ぎる毎に寿命の半分が利子として徴収されてしまうこと。“返済”が終了するまでは、肉体が疲労を訴えることはなく、食欲・睡眠欲・性欲・排泄衝動とも無縁でいられること。――などなど。
男は戸惑いながらも話を聞き、そしてその話の流れから、今現在の自分の身なりに初めて意識が向きました。さきほどまで確かに着ていたブランド物の衣服がまったく見あたらず、いま確かに見えるのは、なぜだかよくよく見えすぎている自らの肌色と、なぜだか胸部にある円形の黄色がふたつと、なぜだか股間にある彼岸花の色だけです。
「……………………どゆこと?」
到底、理解できぬが起こり、男の脳みそは焼き切れようとしていました。
「お、おお前はいったい何者なんだよぉ」
現状の元凶であろう黒スーツに対して、男は底知れぬ怖気を覚えました。
「自分が何者であるのか――。果たしてその問いに正しく答えられる存在はあるのでしょか?」
黒スーツは、男の混乱具合を正しく認識していましたが、わざわざ“それ”を解消するための助け舟を出すということはせず、
「ああ、それから――」
と、ただ事務的な口調で述べます。
「あなた様がこれからおこなう“返済”に関しましては、一切の例外なく他言禁止でございますから、ご留意くださいませ。禁を破った場合に関しましては、まことに心苦しいところではございますが、あなた様の“生命/いのち”の保証が一切なくなります」
「――え、え?」
男は混乱したまま、けれど身体が“そうしなければならぬ”と勝手に動いてルームランナーの上に乗りました。そして男の脳みそを無視して、男の手は勝手にルームランナーを起動させ、男の脚は勝手に走り始めます。
黒スーツは“ようやく”といったふうにひと息、吐いてから、つかの間の達成感を味わう表情を浮かべます。
――思い出したふうに、黒スーツはパチンと指を鳴らして手品的にペンとスケッチブックを出現させました。ページを開き、流れる動作で“なにか”を書き込みます。そして“それ”を、男が走るルームランナーの前に置きます。
「んー、これはなかなか」
黒スーツは少し距離を作って遠目から“走る男”を見やり、言いました。
* * *
とある時代の、とある国の、とある寂れた公園に、“なにか”に熱狂する人々の群れる姿がありました。そしてその脇に、なぜかルームランナーがぽつりと置かれてありました。
「不法投棄はいけないことだから、そういたしかたなく、“これ”は私が処理しましょう」
誰に対するモノなのか定まりのない言葉を発しながら、誰かが“それ”を持ち去りました。
――しばしの時を経て。
公園からヒトの影が消え去りました。もうこの場に居る“価値/意味”はないと吐き捨てるように、缶やペットボトルや吸い殻やスケッチブックなどのゴミがちらほら置き土産されてあります。
いままで通りの“寂れ”を取り戻した公園に、どこからともなくヒトの影のような存在が現れました。黒いスーツを着たヒトのような姿をしています。
黒スーツは、足元にあったスケッチブックを拾い上げました。それには、“題名【 】”と書かれてありました。パチン、と指を鳴らして手品的にペンを出現させます。流れる動作で“なにか”を書き込みます。そして書き終えると、そのスケッチブックをゴミ箱へ捨てました。
* * *
とある時代の、とある国の、とある寂れた公園のゴミ箱に、スケッチブックが捨てられてありました。
題名【くだらない】
――と書かれたスケッチブックが、
捨てられてありました。