小話:其の四拾五《吾輩と脇役のお話(仮題)》
【ウソの世界は親切で優しい】
《吾輩と脇役のお話(仮題)》
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これは吾輩のお話である。しかし同時に、まごうことなき“彼”のお話でもある。
このお話の主役は、いっさいの揺るぎなく吾輩である。このお話における“彼”の役回りは、いわゆる脇役だ。いちおう名前はあったから、名前持ちの脇役、という脇役の中においては比較的目立つ役回りを演じていたことになるだろうか。
繰り返しになってしまうことをご容赦願いたいのだが、これは、吾輩が主役のお話である。とても長いお話だ。その長さたるや、主役を演じている吾輩自身、しばしば嫌気がさして幻想的空想世界へ逃避したくなるほどである。……いま、とてもどうでもよいところで偽りを語ってしまった。申し訳ない。お詫びして訂正させていただく。“逃避したくなるほど”ではなく、“逃避するほど”が事実に即した文言である。――閑話休題。これは長いお話だ。読者諸賢の中には、いまこの一文を長いと感じて嫌気がさしているヒトもあろうかと察するところであるが、それとは比べ物にならぬ長さであることを、その卓越した明晰たる脳みそでご想像ご推察いただきたい。そして願わくば、吾輩がしばしば幻想的空想世界へ逃避するに至るいかんともし難い心情をお察しいただきたい。
あるいはこれも、そんな幻想的空想世界への逃避と同義的な行為なのかもしれない。気分転換。または気まぐれ。
若干前後してしまって申し訳ないが、これというのは、今現在進行しているこの文字の羅列のことである。吾輩のお話の中から、“彼”に関する部分を抽出してみようという試みだ。
本来ならば、名前持ちといえども脇役である“彼”にスポットライトが当てられることは、まあ、ない。それに嫌気がさすほど長い吾輩のお話であるが、その中における“彼”の登場期間は、初期の頃に限定されており、極々短い。――短いが、確かに登場したこともまた、揺るぎない事実である。
前置きが長くなってきたので、端的に述べよう。つまるところ、幻想的空想世界へ逃避するように、思い出を嗜んでみようということだ。
ここで冒頭の一文を持ってこよう。いいかげんしつこい、というお気持ちは重々お察しするところであるが、そこをどうにか、煮干しなどでカルシウムを摂取するなどして堪えていただきたい。
これは吾輩のお話である。しかし同時に、まごうことなき“彼”のお話でもある。
願わくば、読者諸賢には寛容寛大な御心でお付き合いいただきたい。
* * *
吾輩は小中高一貫の私学で勉学に勤しんでおり、“彼”の存在を知ったは中等部一年の頃であったと記憶している。“彼”は転校生であった。
吾輩が“彼”に対して懐いた最初の印象は、“気に食わぬ”、であった。“彼”はなかなか整った面をしており、制服のない私服登校である我が学び舎であったから、その衣装センスの良さだって望まずともよく知れた。そんな良くできた“彼”であったから、自己紹介のときなど、同級生女子諸君の一部がとても元気よろしく耳障りであった。
吾輩の“彼”に対する興味は、自己紹介のときにはもう皆無となっていた。およそ吾輩とは相容れぬ世界の人間であろうと予想できたからだ。
だというのに、だというのに、である。どうして世界は望まれぬ気配りばかりお上手なのであろうか。世界の最高責任者はしっかりと説明責任を果たしていただきたい。どうしてよりにもよって吾輩の目前の席に、そこがこれからの居場所だとでも宣言するような顔で“彼”が着席しているのか! 世界さんマジ KY ! …………まったく使い慣れぬ言語は安易に使用するべきではないと、いま悟った。時代の流れに乗ってみようかと試みたのだが、乗るべき時流をどうやら間違えたようだと薄っすらジワリと感じている。――話を戻そう。“彼”は、吾輩の前の席となった。
このとき、吾輩はミスを犯した。どうして吾輩の前の席なのだ、と納得いかぬ気持ちを眼光で表現していたがために、着席しようとこちらへ歩んできた“彼”と目が合い、いらぬ誤解を生んでしまったのだ。じぃと呪うように見やっていた吾輩の姿は、どうやら“彼”には転校生に話しかける好機を探っている在校生に映ったらしい。
「これからよろしく」
嫌味なく爽やかに“彼”が声をかけてきた。
初対面だというのにクソ馴れ馴れしい好青年野郎である、とか。どうしてお隣さんではなく真後ろの吾輩に話しかけるのだ、とか。まま思うところはあったが、
「うむ、こちらこそよろしく」
吾輩とて最低限、礼節を重んずる人間性は持ち合わせているからそう返した。
これが、吾輩と“彼”との間で交わされた初の言葉であった。
* * *
吾輩は必ずしも社交的な人間ではなかったけれども、だからといって“彼”と不仲ではなかった。どちらかと言えば、親しかったほうであろうと吾輩は思っている。相容れぬ世界の人間であろうと予想していた吾輩であったが、意外な接点が、“彼”とあったのだ。
吾輩の目の前の席に座って、“彼”は苦悩するヒトのように眉根を寄せてうんうんうなっていた。“彼”と初の言葉を交わしてから、およそ七日が過ぎた月曜日の朝のことである。
ウソ偽りなく正直に述べて、不快極まりなかった。なにが嬉しくて新たな一週間の始まりの朝っぱらから他者のそんな顔を見ねばならんのだ! 吾輩は抗議の意を込めた鋭い眼光をくれてやった。そうしたら“彼”は吾輩の存在に初めて気づいたふうにこちらを見やって、
「あ、おはよう」
なんとも気に食わないことに、嫌味のない健やか好青年的な朝の挨拶を放ってくるではないか。そんなことをされてしまった日には、
「うむ、おはよ」
最低限は礼節を重んずる吾輩であるから、そう返す。なんだこの健全で健康的な絵に描いたがごとき朝の学校風景は。どうしてよりにもよって気に食わぬこの好青年とそんな望まぬ風景を描かねばならんのだ。まったく。遺憾極まりない。――ニュースの記事でしばしば目にする言葉であるから使用してみたが、どうも遺憾の使いどころを間違えた気がする。……遺憾なことに。
「ところでさ」
ヒトが遺憾の使いどころについて思考しているというのに話しかけてくるとは、なんとも図々しい好青年である。本当ならば無視してしかるべきなのだが、転校早々この学年内において確かな立ち位置を獲得した“彼”である。ここで無視すると吾輩が困った事態に陥ると容易に想像できるので、「なにか」と応じてやることにした。
「これの名前、知ってたりする?」
知らぬわっ! と一喝してやろうと前もってのどの奥に言葉を用意しておいたのだが、“彼”が問いかけと共に差し出したモノを正しく認識して、吾輩は出かけたそれをのどの奥に押し戻した。
問いかけと共に差し出されたのは携帯電話であった。そして“彼”は、その携帯電話の待ち受け画面を指して問うている。
携帯電話の待ち受け画面にあったのは、名作映画である『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズの第二作目であるところの『バック・トゥ・ザ・フューチャー Ⅱ』において未来世界で改造が施され飛行能力が追加されたスーパー・カー型タイムマシンであるところのデロリアンが空に軌跡を引いていままさに時空旅行へ飛び立たんとしている図画であった。
「デロリアン」
吾輩がそう口にすると、
「あー! あー! そうだ! そうそうデロリアン!」
長年の苦悩から解放されたヒトのように“彼”は歓喜した。
「自分のケータイの待ち受けなのに名前ど忘れしちゃってさ。一度、気にしだしたら、もうずっと気になっちゃって、五日間の悩みがやっと解消されたよ。いやー、助かった」
五日間もこんなことで苦悩していたとは、ご苦労なことである。だが吾輩にも似たような経験があるので、まったく理解できないわけではない。お役に立てたならなによりだ。
「ところでさ」
一件落着一段落して吾輩がやや油断したところに話しかけてくるとは、なんとも忙しい好青年である。もう面倒臭いので、「なにか」と応じてやった。
「おもしろいよね、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズ」
「うむ、激しく同意する」
しばしば幻想的空想世界へ逃避する吾輩であるから、それとなく映画への造詣は深く。なかでも『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズは、何度も繰り返し鑑賞するほど愛している屈指の作品であった。
相容れぬ世界の人間であろうと予想していたが、それは吾輩がよく知りもしないで一方的に懐いていたモノであり、事実と多少異なるところがあるようなので、これを機に“彼”に対する認識を少々改めることにした。
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国語・英語・数学という教科がある。よほど専門的な学び舎でない限りは、誰しも学業に勤しむ課程でかじることになろうと思う。これら関して、吾輩にはどうしても納得いかぬことがある。この三大教科の成績が優れていれば、他の教科の成績がダメでもその人物を優秀とみなし、逆にこの三大教科の成績がダメだと、他の教科の成績がどんなに優れていても問答無用でその人物は否優秀とみなす、もはや疑念すら懐かぬほど“当たり前”として定着しているかんのある風潮。まったくもって納得できぬ、というよりは理解できぬ。勉学に勤しむことがとても重要なことであるとは重々承知しているが、しかしだからといって筆記試験において高得点を獲得することが必ずしもよりより人間を育むとは思えないのだ。自分のために勉学に勤しみ高得点を獲得するだけなら言うことはないのだが、しばしば低得点を獲得してしまったヒトを見下すような言動をする者がいる。果たしてそれが優秀な人間のすることだろうか? 点数によって差別し、それによって競争させて進歩をうながし、下が上を志し、上は下に追いつかれまいとさらなる上を志す、という本来の意味での競争なら――
はっ! ……少々熱くなってしまった。申し訳ない。改めて、単純明瞭に述べさせていただく。
吾輩は、国語・英語・数学が超特大が付くほど苦手であった。
中等部一年、最初の期末試験が終わり、新たな学期が始まった。テストの返却があり、それにともなう喜怒哀楽があった。数日後、吾輩は担任教諭殿による呼び出しを喰らった。三大教科の期末試験の獲得点数がずば抜けて危険水域を下回っており非常に危ういから特別補修を受けよ、という用件であった。頼まれたわけでもなく、一生徒のためにわざわざ給与の出ないサービス残業的な特別補修を開催してくれるとは、なかなか素晴らしい担任教諭殿である。吾輩は、担任教諭殿の恩義に報いるためにも、心して特別補修を受けるむねを伝えた。
特別補修を受けるのは、どうやら吾輩だけではないらしい。放課後、特別補修が開催される教室に足を運ぶと、そこには先客の姿が二者あった。親しくしている我が友と、“彼”である。親しくしている友が吾輩と同等の獲得点数水域であることは承知していたが、まさか“彼”も、とは、正直、驚きであった。話を聴いてみると、しかし“彼”は吾輩らとは違うのだな、ということが判明した。
吾輩の通う私学は、他と比べて独自色の濃ゆいところがあった。配布される教科書はすべて独自で製作した物で、だというのにほとんどの教諭が教科書を使用することなく自作のプリントを使用して授業を進めたりする。教科書の購入費用が無駄になっていると思わなくもないのだが、まあそれはそれとして。転校生であるところの“彼”は、転校生であるがゆえにまだこの独自色に慣れておらず。よって最初の期末試験では、どうにも本領を発揮できなかったらしい。
もう帰るがよろし! ここは貴様の来るところではない! と心の底からズバリ宣告しようとしたところで、
「お、そろってるな。じゃ、始めるぞー」
担任教諭殿がやってきた。
これ以後、学期と学年が変わっても、どうしてだか吾輩だけが、まことに不本意ながら特別補修の常連となってしまうわけだが、それはまたべつのお話。
* * *
そもそも吾輩は、繋がりを脅迫的に強制する感のある携帯電話をあまり好ましく思っていなかった。電子メールをコミュニケーションと称することに極大なる違和感を覚える部類の人間なのだ。でも、だからと言って、べつにそれを否定する意があるわけではない。個人的な価値観の話だ。それに好ましくないと言いつつ、吾輩も携帯電話はいちおう所有している。好ましくはないが、所有していないと不便であることも揺るぎない事実だから。
あるとき、“彼”が吾輩の携帯電話の番号と電子メールのアドレスを訊ねてきたことがあった。それなりに親しくしているのだから、まあ不自然なところはない、とても自然な事柄だ。そのときの吾輩が、たいそう不機嫌であったことを除けばだが。
不機嫌であることの理由は、これといって思い当たらない。ただただ不機嫌であり、ただただ理不尽であった。虫の居所が悪い、というやつなのだろうと思う。ただこの虫はどうにも日本人の好いところでもある察しと思いやりに欠けるヤツで、じつに空気の読めないヤツであった。この虫を即刻早急に駆除する殺虫剤を開発してくれる頭脳が出現することを、吾輩は渇望してやまない。
「話しかけてくれるな」
親しき仲にも礼儀あり、という先人のありがたい教えに真っ向から反する言葉を吾輩は吐いた。じつに不快極まる態度で。
「ん? ……ああ、そう、わかった」
吾輩の中に不法居住している虫と違って、“彼”は日本人の好いところでもある察しと思いやりを有していた。とくに語気を荒げるでもなく、ただ事実を理解したふうに言葉を発して、“彼”は自らの携帯電話をポケットに収納し、静かに去っていった。
そして一切の交友が絶たれた、ということは、けれどなく。次の日には、それまでと変わらぬ付き合いがあった。本当ならば前日の非礼を詫びねばならなかったのだが、“彼”の変わらぬ対応にあぐらをかいて、吾輩は詫びなかった。――以後、“彼”が吾輩の携帯電話の番号と電子メールのアドレスを訊ねてくることは一切なかった。
* * *
時は流れて、吾輩は高等部一年となった。これから勉学に勤しむ拠点となる高等部の校舎は、無計画な増築を重ねた結果、“一年四組の教室は中二階と三階の間にある図書室の前/二年四組の教室は中庭に面した一階で、一組と二組と三組は二階/三年四組の教室は屋上の階段の脇/三年三組の教室は一階にある食堂と職員室と階段の間”といった具合に教室の位置が規則性なくバラバラになってしまっていて、じつにおもしろかった。ただ、吾輩が腰を落ち着けることとなった一年二組の教室には前方にひとつしか扉がなく、消防法的に限りなくアウトなのではなかろうか、なんてことを考えたりした。
そんな非常時には生命の危機が多分に増す教室には、“彼”の姿もあった。
この頃、吾輩のお話的には“人生における羅針盤的な存在”を喪ったという重大な事柄が起きたりしたのだが、しかし“彼”に関するようなお話はとくにない。――いや、強引になにか述べることがあるとしたら、“彼”に彼女ができたということだろうか。まあ、さしたる欠点のない好青年な“彼”であるから、彼女ができるのも自然なことであり驚くほどのことではない。――ない、のだが、ナメクジのごとく地べたをヌラヌラ這いつくばるような生き様の吾輩からして、優雅に空を飛ぶような生き様の“彼”は、じつにうらやましくあった。
また時は流れて、吾輩は高等部二年となった。高等部は単位制なので、吾輩としてはとても危ういふうがあったのだが、どうにか問題なく進級できた。しかし、気づいたときにはもうすでに、小等部の頃から知っている悪友的な立ち位置だった脇役の姿がひとり分なく、周囲の話では“進級に関する諸事情”で学び舎から去ったとのことだった。……なんというか、……人生色々である。なむなむ。
そして、クラス替えがあった。“彼”とは別々になったのだが、選択科目で同じモノがあったので、“彼”と彼女の姿をしばしば目撃することはあった。けれど積極的に会話することはなかった。恋仲のふたりの間に割って入るような不粋なマネ、できようはずがない。
この頃も、“彼”に関するようなお話はとくになかったが、ある意味で吾輩のお話的に重大な事柄が起きたりした。ある同級生女子のアタックを喰らったのだ。――以後、吾輩は苦しいくらいきゅんきゅんしまくりである。主に胃と腸がっ! 吾輩は密やかにラヴ・ロマンス的なアタックを渇望していたのに、どうして精神的にネガティブな意味でのアタックが容赦なく放たれるのか! 世界の最高責任者は吾輩の前にその面を出すがよろし! 人類史上最上級の土下座をするので吾輩に関する世界の文脈を書き直してください心からお願いします。
願いも虚しく、きゅんきゅんしっぱなしで時は過ぎ去った。
吾輩は高等部三年となった。クラス替えはなく、二年の時と同じ顔面の同級生諸君と勉学に勤しむことになった。またも“彼”とは別々なのだが、またも選択科目で同じモノがあったので、いつかと同様の絵図らを目撃することとなった。
この頃は、吾輩のお話的にも重大な事柄が起こり、そして“彼”に関するお話でも重大な事柄が起こったりした。まず吾輩のお話的には、吾輩の胃と腸をきゅんきゅんさせてくれ続けた同級生女子が、まさしく掌を返したように、いままでの文脈を完全に無視して、「べつに嫌いじゃないの。どちらかと言うと、好き。むしろ、好き」などと意味のわからないことを告げてきたというのがある。いままでこちらに対してミジンコの存在感ほども好意的な振る舞いを見せたこともないのに、だ。不意打ちとはこのことか! 吾輩には新手の精神的にネガティブな意味でのアタックにしか思えなかった。あるいは世界の最高責任者さんが吾輩の願いをくんでくれたのかもしれないが、察するに、世界の最高責任者さんはご多忙すぎてお疲れなのだろう。でなければ、こんないろいろと間違えていることをやらかすわけがない。まあ、その辺りを論じたところで揺るぎない答えがあるとは考えられないので、端的に結果だけ述べよう。乙女心はさっぱり理解できない。そして吾輩は、ただただ人間不信に陥った。――“彼”に関するお話をしよう。高等部三年の最後の学期が中盤を過ぎた頃の、あるときを堺に、まったくもって静かに、地べたにしみた雨水か消え去るように、“彼”と彼女の姿を学び舎で目撃しなくなった。
なんと充実した青春だコノヤロー! 吾輩はうらやましすぎて狂い悶えながらそう思った。彼女と姿を消すとか、どこの青春映画だよと声を大にして苦情を述べたい。胃と腸をきゅんきゅんさせたあげくに人間不信に陥った吾輩との、この圧倒的すぎる扱いの差はなんなのだ! まったくもう! お幸せに!
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想像と創造によって生み出されたモノは、
最後の一線、“それ”を生み出したモノに対して配慮ある優しさを持っている。
吾輩がいったいなにを述べたいのか伝わり難いところがあるかもしれないので、単純に明瞭に言い表そう。
現実の世界なんぞ、極めて醜悪なクソゲーに等しい。
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なんの脈絡もないことだが、どうやら“彼”は、いつの間にか死んでいたらしい。吾輩がその事実を知ったのは、学び舎への登校が残り七日で終わろうかという頃のことである。担任である中年の女教諭が、じつにあっさりさっぱりきっぱりと事実のみを告げてくれた。「“彼”が急死しました」と。「高等部三年の最後の学期が中盤を過ぎた頃のことです」と。
なるほどそれなら姿を目撃しなくて当然だ。冷酷と思うヒトもあるだろうが、ウソ偽りなくそれがそのときの吾輩の素直な反応であった。涙を流す同級生女子の姿もあったのだが、どうにも吾輩には、それが“ある個人の悲劇的な人生を描いた映画”を見て感動したと公言して泣く者の涙のように感ぜられてしまった。――あるいは、涙を流せるその素直さがうらやましかったのかもしれない。
教諭の方々は、高等部三年といういろいろと考えなければならない時期であることに配慮して、“彼”についての事実を吾輩ら同級生に告げるか告げないか議論していたらしい。事実があった時期と、事実を知った時期に、時間差があるのはそのためである。
告別式は翌日とのことだった。各自、自分の意で行ったらよろしいとのこと。
――そして。
翌日の放課後、吾輩は“彼”の告別式に出席しなかった。式場へ行くまでには電車を利用せねばならず、それには吾輩の懐から切符代である百六十円が旅立つ必要があり、懐の事情や様々な要因をかんがみるに、いま切符代である百六十円が旅立つのは賢明ではないと決断し、出席を辞退したのだ。
そもそも、吾輩と“彼”は、最期に別れを告げねばならぬほど特別に親しいという仲ではない。だから吾輩は、切符代の百六十円をケチったのだ。
それはヒトとしてどうなの、と親しい友に言われた。否定はしない。でも、吾輩は思うのだ。よく知りもしないのに同級生だからという理由で形式的に出席する多数の面々よりは、いくぶんマシだろう、と。
死因に関しては、風にのっていろいろ聞こえてきた。それによって同級生諸君が“彼”に対してどのような心象を持っていたのかが、よくも悪くもよく知れた。
吾輩としては、うらやましいほど充実しているように見えた“彼”が、どうして死ななければならなかったのか、その理由がいまだによくわからない。世界の最高責任者は、是非とも説明責任を果たしていただきたい。――死は、むしろ吾輩のよき隣人だと思っていたのに。どうしてそれすら“彼”のモノなのか。切に教えてほしい。
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ナメクジは地べたをヌラヌラ這いつくばるしかなく、鳥は空を飛ぶしかない。そうする以外、ゆるされていないから。ナメクジと鳥が互いを完全に理解し合えることは、おそらくないだろう。でも、地べたを這いつくばるには這いつくばるなりの、空を飛ぶには飛ぶなりの、二者二様の“思うところ”があるから、ふと気まぐれ的に相手の胸の内を察してみたりすることがある。そして自分勝手な思いを懐くのだ。こっちもまあ苦しいが、あんたもまあまあ苦しいようだな、と。お互いボチボチ前に進もうじゃないか、と。
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吾輩のお話はまだまだ先へと続くのだが、“彼”に関するお話はここで終わる。所詮は、気分転換であり、気まぐれなのだ。デロリアンの名前を教えていなければ、携帯電話の番号と電子メールのアドレスを教えていれば、あるいは“これ”とは異なるお話になったのではないか、なんて、そんな“たられば”、べつに考えていない。繰り返しにになってしまって申し訳ないが、所詮これは気分転換であり、気まぐれなのだ。――そして、これが吾輩のお話であり、同時にまごうことなき“彼”のお話なのだ。
これは余談、というか真実どうでもいいお話なのだが――
キング・オブ・ポップと称され、世界の人々から愛されすぎたマイケル・ジャクソンというヒトがいた。そして彼は突然に急死した。彼を愛する人々の中には、彼はまだ生きていると述べるヒトがいる。馬鹿げた話と嘲笑うヒトもあれば、同情的な目をするヒトもあるが、吾輩はそうかもしれないと経験から由来する共感的同意を懐く。
街の中を歩いていると、いまでも時々すれ違うことがあるのだ。名前持ちの脇役と、その彼女の、楽しそうに談笑する姿と――
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