小話:其の四拾壱《ひとりとひとり(仮題)》
【表面と内面は、しばしば一致しない】
《ひとりとひとり(仮題)》
まどろみに囚われそうになっていた意識が、金属をこすり合わせる不快で耳障りな大きな音によって、とても好ましくないカタチで覚めた。
どうして地下鉄って、普通の電車みたく程好い感じで走ってくれないんだろう。地下鉄の最後尾の車両の座席に腰を落ち着けて、私はそんなことを思った。
閉鎖的な空間を走行しているのだから、騒音が外へ逃げれずうるさくなってしまうのは仕方がない。頭では理解しているのだけれど……。だけれど……。
どうにもむっとした気持ちが消し去れず、私は密やかに“かかと”で床をグリグリしてやった。決して、休日の夕方に急用を頼まれて駆り出された不満をやつあたり的にぶつけているわけではない。決して、断じて、違う。…………ちょっとは、本当にちょっとだけ、あるかもしれないけれど。
車内に人影はまばらで、まだ余裕を持って座れるほど空いていた。曜日的な理由からか、時間的な理由からか、進行方向的な理由か、あるいはそのすべてか。
そんなことを考えていたら、列車が停まった。いつの間にか、駅に着いたようだ。駅名を確認する。私が下車する駅は、まだまだずっと先だった。
ドアが開く。数少ない人影の中に、下車しようと動くモノはなかった。乗車してくる人影もなかった。――いや、あった。発車のベルが鳴る中、ひとり乗車してきた。まさしく転がり込むように、ひとり転がり込んできた。
――その瞬間。
車内にある数少ない人影が、驚くほどの一体感で、まったく同じ空気を発した。察するに、まったく同じことを思ったに違いない。
転がり込んできたそのヒトは、周囲に対する配慮のない大きな声で悪態を吐いた。それから、“なにか”をブツブツ言っている。――そのヒトは、どうやら酔っ払いのようだった。
正直、隣に座ってほしくないと思った。けれど、“そう”思ったときに限って、“そう”なるもので……。
そのヒトは世の中に対する愚痴のようなモノを吐きながら、ドカリと、私の隣に腰を下した。
ドアが閉まった。列車が走り出した。――呼応するように、隣のヒトが大きな声で歌い始めた。「なにはともあれクリスマス! メリー、メリー、クリスマス!」と歌い始めた。ワンマン運転の地下鉄なので、最後尾の車両に車掌さんの姿はなく、なので義務的に注意してくれるヒトは存在しなかった。
不幸中の幸いというのか、不快中の幸いというか、地下鉄の走行する金属をこすり合わせる不快で耳障りな騒音が、隣の歌声と相殺しあってくれて、まだ耐えられる状況ではあった。――けど、決して好ましい状況ではないので、気を紛らわせるために、対面上部にある広告へ意識をやることにした。電車の広告の重要な存在意義に、いまさら気がついた。
一駅、二駅と過ぎるごとに、隣の歌は調子を上げていった。「この辺で争いは無しにしないか? まあ、なにはともあれクリスマス! クリスマスだ!」と調子を上げていった。
六駅目を過ぎた辺りで、私の忍耐力にも少々限界がきた。でも真正面から注意するような度胸は備えていないので、正面は正面でも対面にある窓ガラスの反射越しに睨みをやることにした。地下鉄の窓ガラスは、向こう側が闇なので、ちょっとした鏡のようによく反射する。
それでも、ガッツリとはできないので、チラリと渾身の睨みをやった。
窓ガラスの反射越しに、目が合った。
隣の歌も、列車の騒音も、いまここにあるすべての音が消え去った。
「助けて」
真摯さのある“それ”が、いまここにある唯一の音だった。
あまりの意外な“それ”に、私は自分の耳を疑いつつ、隣に目を向けた。
そこには、周囲に対する配慮のない大きな声で歌っているヒトの姿があった。歌い続けているヒトの姿があった。
終わるための言葉が思い出せないのか、同じところを繰り返し、繰り返し歌っているヒトの姿があった。
列車が停まった。ドアが開いた。
繰り返し歌いながらそのヒトは下車した。
ドアが閉まった。列車が走り出した。
走行時の騒音の中に、奇妙な静けさが生まれた。
いまさっきまでヒトの座っていた私の隣に、人影はなくなった。しかし“ひとつの言葉”という存在は、確かにそこに残留していた。
――そして。
帰宅したいまもまだ、
私の隣に残留している。