小話:其の参拾八《かぞくのいちいん(仮題)》
【せめて最低限の敬意を】
《かぞくのいちいん(仮題)》
彼女のお腹は、とても大きいことになっていました。歩くのが、ちょいとばかり大変そうです。辛そうでもあります。
しばしば自分に甘くなって食べ過ぎてしまうことは、誰しも少なからず経験することではありますが、けれど彼女の“それ”は“そのような事柄”によるものではありませんでした。現に、彼女の表情に忌避の色は一切なく、むしろ喜びに満ち溢れています。
それもそのはずです。だって彼女は――
もうすぐ、我が子に出逢えるのです。
いまから“この場所”を専有すると宣言する産声を、彼女の耳はしっかりと聴きました。
彼女は、我が子と対面しました。
――しかし。
別れは、一切の予兆なく訪れました。
とてつもなく強大な力ある手によって、彼女は我が子を奪われてしまいました。
彼女の持ちえる力では到底抗えない、とても強大な相手でした。彼女とて無抵抗で我が子を差し出したわけではありません。ありったけの力を振り絞って立ち向かいました。抗議の声を張り上げました。
――でも、彼女は我が子を奪われてしまいました。とてつもなく強大な力ある手に。
* * *
そこは、とてもとても息苦しい部屋でした。時と共に、息苦しさが増してゆきます。本当の意味で、密室でした。
彼女の子の姿は、そんな部屋の中にありました。光源のない、暗い暗い部屋でした。
彼女の子は、彼女の温もりを求めて声を上げました。とても息苦しい場所ですから、とてもか細い弱々しい泣き声でした。
その部屋に、ふっと“熱のある灯り”が点きました。“それ”は部屋全体を例外なく包み込み、彼女の子も包み込みました。
それからもしばらく彼女の子の泣き声は続きました。
そして、あるところを堺に。
それは、ふっとロウソクの火を吹き消すように。
――泣き声は聞こえなくなりました。
* * *
「まったく」
ひとりの老婆が、うんざりしたふうに言いました。――そして、
「“ウチの茶トラ”が、またガキを産みやがってね。だからほら、また頼むよ」
と“産まれて間もない子猫”を“空のペットボトル”を扱うような軽率さで差し出します。
「勘弁してくださいよ」
白のシャツに紺のネクタイをした、ひとりの男性が言いました。どこか泣きそうな、参ったふうな顔をしています。
「なにが“勘弁”だい。こっちの血税でメシ食ってるくせに、職務放棄しようってのかい?」
老婆は責める口調で言い、詰め寄ります。
それでも男性は根気強く“言うべきこと”を言い伝えますが、老婆は聞く耳を持ちませんでした。
そして老婆は強引に子猫を男性に押し付けると、早々に家へ帰ってゆきます。
子猫を受け取ってしまった男性は、殺意にも似たモノがある眼差しで老婆の背を見届けました。それから手の内にいる子猫に向かって、
「ごめんなさい。本当に、ごめんなさい……」
とても深いところからの言葉を、述べました。
男性の背後には、白が主色の鉄筋コンクリートの建築物がありました。その外壁にそうようにして、“なにか”の詰められた土嚢がびっしりと置かれてあります。その中から、あらゆる生き物の泣くような声が、あるいは激怒するような声が、漏れ聞こえてきました。
「ごめんなさい」
子猫を手に立ち尽くす男性が、いまへ到るまでの“いま”を含めたすべてに対して懺悔するふうに述べました。
* * *
とある町の、とある商店街の、とあるペットショップの、その店内の、ある一角に。
父・母・娘という構成の一組の家族の姿がありました。
「“このコ”にするー」
女の子が嬉々とした表情で言いました。その胸に、小さな子猫を抱いています。
「きょうから“このコ”は、“かぞく”の“いちいんな”の。あたしの“きょうだい”なの」
家族が増えることの喜びを、“買う/飼う”ことの喜びを、女の子は無邪気な満面の笑みで表しました。
* * *
とある町の、とある商店街の、とあるペットショップの、その前にある道の、電信柱の影に。
ペットショップの店内で無邪気な笑みを浮かべる女の子を、じぃと見ている目がありました。
その目は、茶色にトラ柄の毛皮を身にまとっていました。
その目は、ただじぃと見ていました。