小話:其の弐拾九《私の宝物(仮題)》
【誰にも譲れない私だけの】
《私の宝物(仮題)》
午後の日光が射し込み暖かい、庭に面した窓際。そこに置かれた安楽椅子で、ひとりの老婆が日向ぼっこしていました。
老婆はときおり、なにかを確認するように自身の左手を午後の日の光にかざし――
とても嬉しそうな、素晴らしく幸せそうな微笑みを浮かべます。
それを見た老婆の孫娘は、不思議に対する好奇心に駆られて、
「ねえ、ねえ、おばあちゃん」
スケッチブックから床に壁にと彩色が到る“壮大なお絵描き”を中断して、
「なにを、みているの?」
安楽椅子まで駆け寄って訊ねました。
この世でもっとも愛おしい声の問いかけに、老婆はシワだらけの顔をよりいっそうシワだらけにして答えます。
それを聴いた孫娘は、嬉々として“それ”を見やろうと老婆の左手に熱い視線をやって、
「…………?」
けれどお目当ての“それ”は発見できず。なので彼女は、状況を理解せんと眉根を寄せて思案顔。
そして、しばしの考える間を置いてから、
「…………!」
とっても重大な事柄に思い当たり、そのあまりの重大さに彼女は大きく目を見開いて――
「ママぁー! おばあちゃんがボケちゃった!」
なにか奇抜なことを叫びながら慌てたふうに駆けて来た愛娘に、
「ねえねえ、ママ。どうしよう」
グイグイと、
「ねえねえ」
グイグイとエプロンの裾を引っぱられて、
「どうしたの?」
台所で洗い物をしていた母親は、作業の手を止めることなく訊きました。
「おばあちゃんがねっ、おばあちゃんが、ボケちゃったのっ!」
そんな愛娘の言葉に、しかし母親は愉快そうな苦笑いを浮かべます。携帯電話どころかスマートフォンやパソコンを自在に使いこなす自身の親が、いまさっきの短時間で“そのようなこと”になるとは思えなかったからです。
なので母親は、
「どうして、そう思ったの?」
柔らかい口調で、理由を問いました。
「だってねっ、だって――」
という愛娘の危機迫る必死の説明を聴いて、しかし母親の顔には微笑みがありました。それは、いわゆる思い出し笑いというやつでした。母親もまた幼い頃に、いまの愛娘と“うりふたつ”なことをしていたのです。
母親は洗い物をする手を止めて、愛娘に、おばあちゃんの“それ”を見やる方法を教えました。――より正確に述べると、おばあちゃんとおじいちゃんがまだ若かった頃の“のろけ話”のひとつを話して聞かせたのです。
ぽかんと口を開けて話を聞いた愛娘は――
転瞬、嬉々満面の笑みを浮かべて、瞳を燦々と輝かせて、おばあちゃんのもとへ駆けて行きました。
「じぃ――」
ドタドタと音を発てて駆けて来た孫娘が、くりくりとした愛らしい目を見開いて、瞳を輝かせて、なにも言葉もなく自分の左手を凝視してきたことに老婆は最初は少々驚いて、けれどすぐに優しい微笑みを浮かべます。
「じぃ――」
じっくりと確かめるように、しばし孫娘は“おばあちゃんの左手の薬指”を見つめ――
「うぅ~」
と悔しそうに呻いてから、
「やっぱり、みえないっ!」
けれどいっそ清々しいくらいにスッパリと言って、
「でも――」
と花咲くような笑みで、
「とおっても、とおっても、すてきな“ゆびわ”だねっ! おばあちゃんっ!」
* * *
戦後間もない、物を得るのも、食べるのにも苦労する時代――
ひとりの青年は、愛するひとりの女性へ、そのときの彼にとって精一杯の“贈り物”をしました。
焼け野に咲いた花を編んで作った、それは“指環”でした。
そしてその“指環”は――
青年がいなくなってしまったあとも、
いつまでも、青年の愛する女性の薬指で咲き誇っています。