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小話:其の弐拾五《十人十色(仮題)》

【個々ではわかりあえるのに集団では否定する】


 あなたが望まれて産まれてきたということを、

 どうか、忘れないでほしい。


        *  *  *


 視覚がとらえた情報を、どのように解釈するか。

 その判断は、おおむね成長過程で蓄積された知識によるところが大きい。

 その花は美しい。

 その花はみすぼらしい。

 その花は愛らしい。

 その花はおぞましい。

 その花は――

 その花は――

 その花は――

 ――――などなど。

 しかし結局のところ、その“見かた/価値観”は成長過程で蓄積された偏見から導き出される、“ある特定の角度からその花を見る方法”でしかない。

 その花を見る角度が少し違うだけで解釈の齟齬は生じ、ときにそれは暴力的ですらある。


        *  *  *


 だから私は、

 ――殺されることを選んだ。




《十人十色(仮題)》


 僕と彼女とでは、そもそも住む世界が違っていた。

 存在としての経験も思考も――認識のされかたも。

 だから、偶然がもたらす出逢いとは面白くも恐ろしいもので、

「目覚めたのなら、はやく自分の居場所へ帰りなさい」

 僕は彼女と出会ってしまった。


 というより、目が覚めたらそこに居たのだ。


 射し込む陽の光に煌く長い純白の髪が神々しさを演出するなか、確固たる強い意志を備えた赤い瞳でこちらに向けて、背筋をしゃんと伸ばし正座して。その姿に僕は思わず見とれて、

「ここは、黄泉の国ですか」

 あきらめたように赤い瞳の女性に訊ねた。

 しばしの沈黙が場を支配する。――と不意に、彼女は顔をそらして口元を右手で覆い隠す。なんだか小刻みに肩が震えているようだけれど……。

 僕の死を悲しんでくれているのだろうか――

「ずいぶんととっぴな、面白いことを言いますね、あなたは」

 ――と思ったのは自意識過剰だったようで、

「どうして黄泉の国だなんて思ったんです?」

 彼女はどうにか威厳を保とうと堪えているが、顔は笑っている。

 べつに僕は笑いを提供したつもりはない。

 ただ最後の記憶が、川で溺れて――というものだったから、てっきりそのまま死んでしまったのだろうと思ったのだ。それになにより、

「貴女のような美しいヒトが居るんだ、この世のハズがない」

「――っ!」

 なにか驚いたふうに目を見開いて、しかしすぐに彼女は、

「嬉しいことを言ってくれますね」

 またも笑いを堪えているような、

「でも、残念ながら」

 柔らかい微笑み顔になる。

「ここはこの世で現実ですよ」


 現実でこんなにも素晴らしいヒトに出逢えたのだから、残念というよりむしろ“幸福/幸運”だと思える。釣りをしていて足を滑らせ溺れた自身の不注意さに、感謝してもいい。


 手を貸してくれようとする彼女を、僕はいらぬ意地で制し、上体を起こした。

「どこか痛みますか?」

 訊ねてくる彼女に、

「いえ、どこも」

 答えつつ、僕は辺りを見回した。

 彼女という存在が付加価値として合わさって初めて“味のある”と言える、くたびれた木材を簡素に組んだだけの、決して広くない建築物の内部のようだ。

 ぐるりと室内を一周して彼女に視点を戻す。

 吸い込まれるような錯覚に陥る、魔的とさえ言える赤い瞳がこちらを捉える。

「問題なく動けるのなら、はやく自分の居場所へ帰りなさい」

 彼女は目覚めた時と同じ、

「ここには長居すべきではありません」

 突き放す語気で言う。

 でもどうしてだろう、僕にはそんな彼女が必死に涙を堪えているように思えてしまったのは。


 しかし情けないかな僕は、簡単な礼を言って陽の光が射す外へと出るという行動しかできなかった。

 彼女の気迫に圧倒されたと言ってもいい。

 ワラを編んだだけの質素な扉をくぐり外に出て、空を見上げる。陽の位置で、今がまだ正午であるとわかった。溺れたのに服が乾いているのも、この高い陽のおかげだろう。

 心地の好い柔らかく暖かな光を全身いっぱいに浴びて、背伸びをし、ここが何所であるのか知るために空から視線を地上に戻す。

 まず目にはいるのは、轟々と神々と水の誇らしさを告辞する滝つぼだろうか。決して巨大ではないが、その美しさは果たして純白の長い髪に赤い瞳を持つある女性にひけをとらないものがある。しばしその寛大さと優美さに見惚れ――

 不意に、頬を撫でてきたそよ風にハッと意識を覚醒させ、葉と葉をこすり合わせてささやかに自己主張する木々の存在を知る。木々が作り出す深い濃緑は深淵にも似た恐ろしさと神秘性を兼ねていて、引き込まれそうなしかし引き込まれたら虜にされて脱け出せなくなってしまうような、危うい魅に思わず背筋がゾクリとした。

 そこでようやく、ある重要な事に気がつき、

「…………」

 僕は簡素な扉を再びくぐる。

 彼女は一瞬だけ即行で戻ってきた僕に目を丸くし驚いたが、すぐにいぶかしげな眼差しで抗議してきた。

 なにかを言われるより先に、

「ここが何所なのかわからなくて。その……、帰りようが……」

 致しかたない事実を告げる。

 彼女は目をつむり何かを考え込み、しばしの間をあけてから、

「しかたありません、人里に通ずる道まで案内しましょう」

 諦めたようなあるいは決意したような意思を語る赤い瞳の眼差しを向けてきた。


 木々が作り出す深い濃緑の闇の中にあって、圧倒的な純白を備える彼女は、暗黒に射す希望の光のようだ。獣道とすら呼べない雑多な地面を、ただ黙々と踏みしめて道案内役にてっする彼女の背を追いながら、僕はそんな事を思った――

 ――と、不意に彼女は立ち止まり、

「ここを道なりに行けば人里に出ます」

 指し示すのは、やっと獣道と呼べるような荒々しく踏み固められた森の小さな切れ間である。

 これを果たして道と呼んでいいのだろうか。なんてことを僕が考えていたら、彼女は自分の役目は終わったとばかりに元来た方向へと歩み去ろうとしてしまう。

 僕はどうにか呼び止めて、

「まだなにか?」

 と振り向いた彼女を見て、二の句が告げなくなる。

「え、と……その――」

 そして、どうにか全身から言葉を絞り出す。

「――また、会えるでしょうか?」

「何故?」

 彼女はいぶかしむように小首を傾げる。

 ……何故って、なぜだろう。

 うーん。ただ会ってもっと話がしてみたいから、というのが僕の本心だろうが、

「その、えっと、ほら、助けてもらったお礼とかしたいですし」

 口から出たのはそんな言葉だった。

「私は何もしていませんよ。あなたがひとりで助かっただけです。ですから助けにお礼がしたいのなら、強い生命力を授けてくださったご両親にするべきですよ」

 どこかつっぱねるような彼女の応えに、

「だとしても、ほら、貴女に出逢わなければ森の中を彷徨っていたかもしれないですし、やっぱり助けてもらってます」

 僕はどうにか食い下がった。

「そうですか。では、そのお気持ちだけ受け取っておきます」

 言うと彼女は拒絶するように、

「ですから、私のことはお忘れなさい」

 深い濃緑の闇の中へと歩んでいってしまう。

「……忘れろ、だなんて。どうして」

 僕にはその言葉の真意が理解できなかった。

 ただ去り行く彼女の背中が、ひどく小さく寂しそうに見えてしまったのは、どうしてだろう……。


 水に浸かっても問題のない品として思い浮かんだのは、果物と釣りたての川魚くらいだった。僕はそれらを布袋につめると、昨日足を滑らせて溺れた川に身を投げて意図的に流される。

 本当は帰りに通った獣道から行きたかったのだが、時を経て見ると、いったいどこが道なのか、まったく見分ける事ができなかったので、いたしかたなく荒っぽいが確実な手段で彼女の元へと行くことにした。

 が、もう少し深く物事を考えておくべきだったなぁ、と轟々高らかに咆哮をあげる川の終着点を前にして気づく。

 自分で選んだ事だから後悔はしないけれど、時すでに遅しとは思う。

 ただ流されるだけの身体が、ジリジリと、しかし確実に川の終わりへと近づいてゆき――

 いっそ清々しく、水しぶきと共に僕は空中へ舞った。

 数瞬の間だけ面白可笑しい浮遊感を味わい――

 次瞬、強烈な平手打ちを同時多発的に全身へみまわれたような感覚に襲われ、耳は水を引っ掻き回す忙しない音を聞きつつも、身体はあらゆる方向からの力にもてあそばれ、頭ではどっちが上でどちらが下なのかさえわからなくなる。ただ僕に可能なことは、手にした“お礼の品入り布袋”を手放さないよう必死になることだけだった。


 日の光に頬が温められていることで気がつくと、波打つ水面に浮かんでいた。

 どうやら、溺れ死なずにすんだようだ。

 手の内には“お礼の品入り布袋”の感触もある。とりあえず、結果は良し。

 岸に上がり、大の字に寝そべる。濡れた衣類を日光で乾かすためだ。

 滝つぼの発する轟々という意外と耳触りの好い音を聞き、ささやかに肌を撫でる風を感じ、太陽の温もりのなかに居たら、意図せずしだいに目蓋が重たくなってきて……


 ……草を踏むささやかな音が近づいて来る。どこか曖昧な場所でそのことを知った。

 しだいに近く鳴るその音に合わせるが如く、僕はまどろみから現実に引き戻されてゆき――

「あなたは、どういうつもりなのですか」

 当惑気味に、しかし責めているような声音を聞いて急激に意識が覚醒した。

「おはようございます」

 挨拶を先に済ませてから、目を開く。視覚が一番に捉えたのは、柳眉を逆立てる彼女のお顔だった。麗美な表情は、ともすれば半ばあきれているようでもある。

「なにが“おはようございます”です。どういうつもりなのですか、と問うているのですよ」

 怒りの口調で言いながらも彼女は、僕が身を起こすのに手を差し伸べてくれる。ありがたく、その手を借りて起き上がり、

「ええっと――」

 頭の回転が決して速いとは言えない僕は、“どういうつもりなのか”という問いかけに対して、

「――その……、助けてもらったお礼を」

 と“お礼の品入り布袋”をかかげて見せた。

「……」

 彼女は口を真一文字に硬く結んでから、

「私のことは忘れなさい、と言いましたよ」

 圧殺するような重たい口調でとがめてくる。

「確かに言われました。そのこと、よく記憶してます」

「では、どうして、いま、あなたは、ここにいるのですか」

 彼女は己が心情を言霊にのせるがごとく、語を強調しながら言う。

「いや、その、一言一句をよく記憶しているからこそ、まったく忘れられなくて――貴女のことを」


 そのあと僕は、酸欠を起こすのではないかと心配になるくらい長いながい溜め息を吐いた彼女に、睨みという無言の圧をかけられ帰宅をよぎなくされた。

 彼女のくれる鋭い眼光に背中を押されるようにして、件の人里へ通ずる道まで追いやられ、しかし最後の最後に“お礼の品”を手渡すことに成功する。それを彼女が返してくる前に、僕はそそくさと帰路につく。


 次の日。

 陸路で行こうと思うも、やはり帰りに歩いた獣道は判別することができず、結果的に昨日と同じ水路で行くことに。

 そして出会った彼女は、一瞬だけ驚くと、速やかに呆れの態に移行し、とっとと僕を追い返す。


 その次の日。

 翌日の映しえのようなやりとりがあり、そして終わる。


 またその次の日。

 あるいはただの嫌がらせと思われても仕方がない事を僕は繰り返し――


 日々は巡って。

 彼女の僕に対する呼び方が、距離感のある他人行儀な“あなた”から、少し距離の近い“キミ”に変化したころ。


 またも滝から落っこちて現れた僕を発見した彼女は、魅惑的な赤い瞳のある眼球をこぼしそうな程に目を見開くと、これでもかというくらいの空気を肺に吸い込み――

 いったいどこまで続くのか、奈落の底より深々とした溜め息を吐くと、

「キミは……いい加減にしないと、いつか命を失くしてしまいますよ」

 冗談まじりの注意だろうと思ったのだが、しかし言う彼女の眼差しと表情には、真に迫るような不安めいた色がうかがえた。


 そんな事を言われた次の日。

 現実として、僕は死にそうな状況に陥った。

 滝を落ちるまではいつも通りだったのだが、滝つぼで渦に揉まれてしまい上下左右の感覚を失い、冗談じゃなく溺れてしまったのだ。

 濁流の音を最後に、意識は暗黒に包まれ――


 目を開けると、そこには僕をのぞきこむ彼女の顔があった。

 安心しているような、しかしそれでいて悲しんでいるような、触れたら崩れてしまいそうな儚げな表情で、

「身に染みてわかったでしょう? もう私の所へ来るのはおやめなさい。私にかかわると、不幸にしかなれませんよ――」

 赤い瞳でこちらを捉え、真摯な眼差しで、

「――私は、疫病神なのですから」

 彼女はそう口にした。

 反射的に僕は言葉を吐こうとしたのだが、しかしそれは頑強な城壁のごとく総てを隔てる彼女のまとう雰囲気に拒まれてしまう。

 彼女はすっと立ち上がると、

「……道まで送ります」

 こちらの反応など意とせぬ有無を言わせぬ態度で、簡素な扉の向こう側へと行ってしまった。

 僕は慌てて後を追う。

 歩む途中で、何度かその背中に声をかけようと試みたのだが、言霊は喉に引っかかったイガのごとく口から出てこない。口腔内に手を突っ込んで強引に引き出したい衝動に駆られるが、しかしそんな事をして、果たしてその言葉は彼女に届くだろうか。


 けれど結果的に僕は、彼女の疫病神という言葉の意味を知ることになった。


 翌日の早朝――突然に、僕は同じ村に住む男たちに拘束され、理由もわからないままに村長のもとへと強制連行された。

 村長は森の精霊たちや神々の声を聞くことのできる特別なヒトで、この村においては絶対の存在だった。

 そんな彼いわく。

 僕は悪い“あやかし”に魅入られ、そして利用され、この村に“不幸/悪い流れ”を運んできているという。

 最近、よくない虫が大量発生して農作物が全滅してしまったのも、僕が運んできた“不幸/悪い流れ”によるものだと。

 そんなことを早朝、突然に言われても、さっぱり僕の理解は追いつかなかったが、しかし注意深く村長とその他の者たちの話を聞いて、次第に自分が置かれている状況がわかってきた。

 どうやら昨日、イノシシ猟に出て森に入っていた者に、運悪く偶然にも、彼女の所から帰る僕の姿を目撃されてしまっていたようで。

 そして目撃者たる彼には、純白の髪に赤い瞳を持つ彼女の姿が“恐ろしいモノ/この世ならざるモノ”に映ったらしく。それが村で暮らす者なら誰もが頭の片隅に記憶している、村長が言い伝えるところの、山に住まう“あやかし”だと思い至ったようだ。

 僕が毎日のように川へ流されに行っていることは、公言せずとも狭い村であるから話は誰にでも伝わっており、それだけでも僕の行動は奇行と思われ奇異の眼差しを向けられていたのに、そこへきて目撃者いわく“恐ろしいモノ/この世ならざるモノ”と一緒に居た――そんな姿を目撃されては、目撃者からの報告を受けた村長が僕を捕らえに来るという現状は不本意ながらに呑み込めた。

 そして同時に、僕の村長に対する認識が一変した。

 いままで“そうだ”と教え込まれ教育され育ってきたから、村長は森の精霊や神々の声が聞ける特別なヒトだと“思っていた/思い込んでいた/思い込まされていた”が、それがどうだ――

 僕が悪い“あやかし”に魅入られ、そして利用され、この村に“不幸/悪い流れ”を運んできているだって?

 最近、よくない虫が大量発生して農作物が全滅してしまったのも、僕が運んできた“不幸/悪い流れ”によるものだって?

 そもそも会った事もない彼女を悪い“あやかし”だと決め付けて語っている時点で、僕には村長の言葉がとても稚拙な場当たり的で幻想に満ち溢れた妄言にしか聞こえなかった。

 僕が元々、森の精霊や神々の存在を熱心に信奉していなかったから、余計にそう聞こえたのかもしてないが。

 でもだとしても、森の精霊や神々が、彼女を悪だと、果たしてそんなこと言うだろうか?

 実際に会って話して少なからず彼女を知っている僕は、彼女から悪なモノなど感じたことなどないというのに。

 この極短い時間の内に、僕の村長に対する“信頼/信用”の念はめっきり失われたが、しかし他の者たちが村長に向ける“信頼/信用”の眼差しは揺ぎ無く、だからこそ村長の下した命に反を唱える者は僕しか居らず、ゆえに僕へ向けられる“奇異の/気持ち悪いものを見る”眼差しは決定的となった。

 村を、村の者たちを、未来を、守るために――不幸をもたらす“あやかし”を退治する。

 こんな馬鹿げた、一方的で身勝手な負の責任の押し付け。

 それに勇んで賛同する村の者たち見て僕は……いままで苦楽を共にして暮らしてきたけれど、申し訳ないけれど、その姿が酷く矮小なモノに思えてしまった。

 知らないヒトを、知ろうともしないで、一方的な偏見の言葉を吟味せずに受け取って、そこからの想像だけで相手の存在を決め付けるなんて。まさかそんなことをするヒトたちだったなんて、考えたこともなかった。

 村長の言葉を従っていれば幸せになれると信じて疑わず、意思決定を外部に委ねて、“意志/自己/わたし”が稀薄になってしまっている――そして、そうであるがゆえに“集団/集合体”としてはとても強力で、“集団/集合体”としての規範に外れる個を、その圧倒さで排除しようとする、自らを正義として行動する絶対的盲目心。僕にはいままで共に暮らしてきた村の者たちが、矮小であると同時に不気味なうねりをもった危険なモノに見えた。

 けれど僕も、この不気味なうねりの一部だったのだ。

 彼女と出逢うまでは――。


 村長の一方的な話が終わると、僕は両脇を抱えられて外に連れ出された。そして、村の外れに在る、悪さをしでかした厄介者を懲らしめるために存在する牢屋に容れられた。


 なにもできないまま時間だけが経過し、格子窓から射し込む光が夕刻色に染まったころ。

 僕に、思わぬ来客があった。

 背後から見ると一瞬、首がないように見えてしまうほど腰の曲がった、ボサボサの白髪頭をした老婆である。

 最初、誰なのか見当がつかなかった。

 ――が、ふと、この老婆が誰であるのかを思い出した。

 村の外れにある竹林に住む、いわゆる村の偏屈者である。

 僕との接点は、まったくない。

 なのに、どうしてここに現れたのか?

 村長いわく、悪い“あやかし”に魅入られたという僕を、冷かしにでも来たのか。

 そんなことを考えていたら、牢の前まで来た老婆がフトコロからなにやら取り出して――

 牢の施錠がはずされた。

 いまいち状況がのみこめず呆ける僕に、老婆は無言のまま手招きをし、踵を返して歩み始める。

「…………」

 数泊の間を置いてから、

「ま、待ってください」

 理解が現状に追いつき、僕は慌てて老婆の背を追った。


 牢のある小屋から外に出ると、出入り口の所で、ふたりの男が地べたに寝そべり騒々しいイビキをかいて眠っていた。この村で牢屋番を仕事にしているヒトを僕は知らないので、きっとこのふたりは貧乏くじを引いてしまった間に合わせの牢屋番だろう。まあ、すでに役割は放棄しているようだが。

「さしいれの酒に、いっぷく盛ってやったのさ」

 鼻先でせせら笑うように言って、老婆は歩みを止めることなく先へ行く。


 なかなかどうして僕には度胸が足りず、

「……あの」

 だからその背に疑問を投げかけるまで、たっぷりの時を要してしまった。

「どうして僕を、牢から出してくれたんですか?」

 その問いかけに、老婆は歩みを止める。しかし、なかなか言葉は返ってこない。

 その間を埋めるように、川の流れる力強い音が耳に流れ込んでくる。

 そこで疑問のことから少しだけ意識がそれて、いま自分がどこに居るのかを知った。いつの間にか、彼女の所へ行くのに使っていた川の、橋の上まで来ていたようだ。

「お前さんに」

 老婆は振り返り、懇願するヒトの表情で僕を見やりながら、

「――救ってもらいたいのさ」

 心の底から発せられた言霊特有の、深く重みのある音声で言ってきた。

「……救う?」

 老婆が冗談を言っているわけではないということは、その雰囲気から十分に察することができるのだが、しかしだからこそ僕には、その言葉の意図が正しく理解できなかった。

 いまさっきまで接点のなかった僕に、そんなことを頼む理由が見当たらない。

 それにどう考えても、牢屋から出してもらった僕のほうが救われている。

 どういうことなのか、もう少し具体的に説明してもらおうと、問いの言葉を口にしようとした次瞬、

「あの子を――」

 鬼気迫る勢いで老婆は僕の腕をつかみ、

「あの子を――」

 言葉に込めた想いと比例するがごとく、そこにある老体からは想像もつかない強い力で腕をしめつけてきた。

「どうか、救っておくれ」

 ひとまず状況整理も兼ねて、老婆の話を聴いた。

 老婆の、決して愉快ではない事情を知った。

 だから僕は――


 川に飛び込み流される。

 いまさらながらに、彼女の所へ向かう方法をこれしか知らないことに気がついた。


        *  *  *


 老婆は自身が、彼女の祖母であることを明かしてくれた。

 そして老婆の背負う罪の、告白を聴かされた。

 彼女の家族でありながら、その当時は村長の言葉を信じて疑わず、彼女と彼女の父母を村から追い出すことに抗うことなく、むしろ率先してそのことを推し進めたことを。なにより村の内部の自分の居場所を保守するために、そのことを推し進めたということを。

 自分の居場所を確保するために行動することが、それが家族を見捨てることだとしても、そのことそれ自体の善し悪しに関して、いまの僕は意見する言葉を思いつけなかった。自らが属する内部から疎外される“恐ろしさにも似た形容し難い気持ち”は、牢屋に容れられるに至る先刻、少なからず経験していたから。


 困難な状況に追いやることは、できる。

 それが自分の認知できうる範囲内の、ひとつの出来事だとしても。

 けれど死へ追いやることは、できない。

 それが自分の認知できうる範囲内の、ひとつの出来事であるがゆえに。


 それは家族であるからこそ、あったからこその、ひとつの非情さの、ひとつのカタチ。

 だから老婆は、僕を牢屋から出した。かつて困難に追いやった家族を、迫る死から救わせるために。

 けれどこの際、老婆の事情はとても些細なモノでしかない。老婆の語ったことで、僕にとってもっとも重要で有益だった情報は、この老婆が彼女の祖母であるということだ。


 やっぱり彼女は、村長がうそぶく“あやかし”なんかじゃなかった。

 彼女も、僕と変わりない“ヒトの子”なのだ。


 やっぱり彼女は、彼女が自称する“疫病神”なんかじゃなかった。

 彼女は、僕と同じ村出身の“ヒトの子”なのだ。


 しかし、この村にあるべき彼女の居場所は――

 一方的で身勝手な偏見ある理由によって奪われ、存在していない。


        *  *  *


「…………」

 彼女は無言のまま、滝つぼからはい上がる僕に手を貸してくれる。

「ありがとう……ございます……」

 地べたに両手をついて呼吸を整えながら、見上げるかたちで彼女の様子をうかがう。

 そこには、とてもあきれているふうな表情があった。

「――っ」

 なにか言おうとした言葉をのみ込み、彼女は溜め息を吐きつつ首を横に振り、

「……道まで送ります」

 そう言って先へ行こうとする。

 僕は反射的にその手をつかんで、その歩みを阻止した。

「…………」

 美しく幻惑的な赤い瞳の訝る眼差しが、僕を見る。

「いえ……、あの、その――」

 いまさっき滝つぼからはい上がるまでの出来事を、僕は言葉を選びつつ簡潔に話した。

「だから言ったでしょう」

 つかむ僕の手をほどいて、彼女は滝つぼの水面へと視線を移し、

「私は、疫病神なのです」

 なにか諦めてしまったヒトの表情になって言う。それは僕にではなく、自身の内側から内側へ向けて言っているように思えた。

「……父さんも、……母さんも、……私と関わったヒトは、みんな、みんな不幸になってしまう」


 そして彼女は、どこか間違った決意を秘めた顔になる。


 言葉を発することなく小屋の中へと消えていった彼女は、しかしすぐに戻ってきた。

 その手に、よく使い込まれて刃の短くなった包丁を持って。

 これから夕食の準備をする――という雰囲気ではなく。

 なので現状における包丁の用途を考えていたら、

「……私を」

 彼女は切っ先が自身に向くよう逆手に持った包丁を、僕の方に差し出し、

「……お願い、私を殺して」

 まったく理解できないことを申し出てきた。

「なにを、こんなときにヘンな冗談は――」

「冗談じゃない」

 とても切実な、とても鋭い眼差しで、彼女は口から言の葉を発する。


「私を殺して、“私/あやかし”を“殺して/退治して”、キミは潔白を証明するの」


 反射的に僕は、彼女の頬を叩きそうになった。けれど、

「ただ生きて。キミに、生きていてほしい」

 言の葉を発する彼女の、

「だから……、私を殺して……」

 けれど口から出てくる“それ”とはチグハグな、

「――キミは生きて」

 その赤い瞳の奥にある“彼女”の存在に気づいたことで、

「お願い」

 頬を叩こうとした僕の手は、向かう先を失った。

 だから僕は、

「…………わかりました」

 その手を差し出した。

 彼女から、包丁を受け取るために。


        *  *  *


 自分達と違う、髪の色をしているから。

 自分達と違う、瞳の色をしているから。

 自分達の基準から、外れているから。

 私を見た誰もが、私を“自分達の基準から外れている不気味な、この世ならざる者”として拒絶する。

 そして“そんなモノ”の親であったがゆえに、父さんと母さんは村から外に追いやられてしまった。私が追いやった。“私”という誕生が追いやった。

 いっそのこと産まれてすぐに、この世から私を消し去ってくれればよかったのに。そう思ったけれど、それができなかった理由も、風に乗って流れてきた話で知っていた。

 村の人々は“自分達の基準から外れている不気味な、この世ならざる者”を殺したら生ずると信じて疑わない“厄/禍”が恐ろしくて、だからこそ私を生かして両親と共に村の外に追いやった、と。

 誕生しただけで自分の両親に不幸をもたらす、――もたらした。

 だから私は自分の、この白い髪も、この赤い瞳も、好きじゃなかった。

 好きになれる理由がなかった。

 けれどキミは、こんな私のことを拒絶することなく接してくれた。

 ――嬉しかった。自分でも驚くほど、嬉しかった。

 そしてキミはこんな私のことを、美しいと、そう言ってくれた。

 ――自分の耳を疑うほど嬉しくて、嬉しすぎて、キミと面と向かって話をするのが、ちょっと恥ずかしくなった。産まれて初めての、とても温かくて熱い気持ちだった。

 初めて、いまここにいることを肯定してもらえた。

 キミの言葉が、キミという存在が――

 それだけで、それだけで私は――

 私には、キミだけでいい。

 キミとの出逢い。キミとの思い出。キミという存在。それだけでいい。

 だから私は、いかなる手段をもちいても、それを護る。護りたいと思う。

 そういう気持ちを懐けるようになれた。キミが、そうしてくれた。


 だから私は、キミに、

「私を殺して、“私/あやかし”を“殺して/退治して”、キミは潔白を証明するの」

 ――殺されることを選んだ。


 私と出逢ってしまったから、私と関わってしまったから、これからキミには不幸が、困難が、待ち受けているかもしれない。けれどここで身の潔白を証明すれば、それは、少しは軽減されるかもしれない。

 潔白が証明されても、私と関わったという事実から、それでも困難が待ち受けているかもしれないけれど、最期にわがままが許されるのなら、

「ただ生きて。キミに、生きていてほしい」

 困難に勇敢に立ち向かわなくても、格好悪くても、ただ生きて、生きていてほしい。それが、それだけが、私の願い。

「だから……、私を殺して……」

 そう強く、頭では思うのに、

「――キミは生きて」

 けれど、どうしてだろう、

「お願い」

 まだここに存在したいと、

 もっとキミと一緒にありたいと、

 そう強く、心から願ったしまうのは――


 決意を秘めた眼でキミは、

「…………わかりました」

 手を差し出してくれた。

 だから私は、

 ……………………その手に、包丁を託した。


          *  *  *


 僕が包丁を受け取ると、彼女は“そのとき”を心するかのように目を閉じ、身体から無用な力を抜き、すべてを受け入れる姿勢を整える。

 そして僕は、流れる動作で受け取った包丁を――


          *  *  *


 最期の時になって――

 まだここにいたいと願った。

 そう思える理由を与えてくれた存在が、現れたから。まさしく“降って湧いた”を体現するように――

 ある日、突然に、滝つぼに落ちてきた。

 あるいは迷惑と、普通は思うのかもしれないくらいに、けれど私を拒絶することなく、私に会いに来てくれる、初めての存在。

 初めて私のほうから対面を拒んだ、けれどそれでも私に会いに来てくれる、初めての存在。

 すべてを賭してでも護りたいと、生き続けていてほしいと願う――

 初めての“ヒト/居場所”。

 けれどだからこそ、そう思えるからこそ、強く願ってしまう――

 まだここにいたい、と。

 もっと一緒にありたい、と。


 死は恐ろしかった。だから死ねなかった。しかしそれは生への執着ではなく、ただの恐れでしかなかった。

 そしてその惰性で私は、いままでここにあり続けた。

 けれど、いま感じる、この死への恐怖は――

 生きたいと願う、ウソ偽りのない私の心だとわかる。

 だからこそ私は、殺されることを選んだ。

 でも、選んだからこそ私は、まだ生きたいと願ってしまう。

 強く、そう願ってしまう。

 どんなに制しようとしても、

 心から溢れ出てくる“それ”は、

 どうしても抑えきれない――――


 なにか水面を叩くような、小石を水面に投げ入れたときのような音が聞こえた。

 私は反射的に目を開けてしまい――


          *  *  *


 この場にある張り詰めた空気感の糸を、ポチャンという間の抜けた音が配慮なく切った。僕が流れる動作で滝つぼへと投げ捨てた包丁が、最期に発した存在感の音である。

 包丁の最期を見届けてから彼女のほうへ視線を戻すと、そこには、

「…………」

 事態がのみこめず、目を見開いて固まっている彼女の姿があった。

「…………どうして」

 やっと理解が状況に追いついたらしい彼女は、

「どうしてっ!」

 驚きと怒りが混在する強い語気で言い、そして一転して、

「……どうして」

 追い詰められたヒトのような表情になって、

「どうして……」

 すべての感情が納得できうる説明を求めて、詰め寄ってくる。

 だから僕は、ウソ偽りのない言の葉で答えた。

「“貴女/誰か”を殺してまで、僕は“僕の居場所/村での立ち位置”を確保しようとは思わないからです」

「でもっ」

 辛抱強く必死に説得するヒトの表情で、

「でもそれではっ、“私/あやかし”と関わってしまったキミまで、最悪、命を奪われてしまう」

 彼女は目元に涙まで浮かべて、訴えてくる。

「そんなの、そんなのイヤです……。私のせいで“誰か/大切なヒト”が不幸になるのは、もう……、イヤ……」

 それが彼女のウソ偽りのない本心であることは、理解できた。けれどだからこそ、僕は述べた。

「貴女を殺して、僕が幸せになれるわけがない。むしろ、貴女を殺してしまったら、それこそ僕は、“貴女のせい”で不幸になってしまう」

「――へ?」

 いまいち理解できていない物問い顔で、しかし彼女は、なにか驚いたふうに固まる。

「貴女が僕に生きていることを望むように、僕だって貴女に生きていてほしいんです。――僕は、貴女と一緒に生きていたいんです」

「……私だって、……私だって!」

 なにか抑えていたモノが爆発したように、

「私だって、キミと一緒に生きていたいっ!」

 彼女は怒ったふうに言い、

「でも、でもそれは――」

 困難に直面して仕方ないと諦め、そしてそれを悔しがるように表情を曇らせる。

「人生の選択肢は、選ぶ項目それ自体を、自らの意志で“選択する/作る”ことができるんですよ。知ってましたか?」

「――え?」

 なにを言わんとしているのかよくかわらない、と彼女の顔には書かれていた。だから僕は、参考までに、僕が自らの意志で“選択した/作った”ひとつの選択肢を提示してみた。とても自分勝手な僕の、ひとつの意志を。


「一緒に、世界を見に行きませんか?」


 なにも“現在の居場所/いまの立ち位置”で完結しなければならない決まりは、ない。そんな“決まり/制約/誓約/契約”は、どこにもない。勇者のごとく孤高に戦って、こちらの存在を否定してくる“現在の居場所/いまの立ち位置”を守らなければならない必要はない。あるいは“現在の居場所/いまの立ち位置”をなにをしてでも守らなければならない“理由/家族”を、僕が持っていないから、そう“思う/考える”のかもしれないけれど。――でも、僕はそう思うのだ。

「……へ?」

 僕の突然の提案に、どうやら彼女は理解が追いついていないらしい。不思議と疑問の混在する幼子のような顔を浮かべ――

 そして。

 徐々に理解が追いついてきたのか、雪が解けるように、眉が、眼が、頬が、口が、表情が、感情を表し――


          *  *  *


 僕と彼女の物語に、“末永く幸せに暮らしました”という終わりはない。


          *  *  *


 考えの甘さを思い知るまでに、さして時は要しなかった。

 閉ざされた空間から、開けた世界への、未知への憧れは、輝かしい希望は、盲目とも同義だったと――

 情け容赦なく思い知るまで。

 世界は、ヒトは、必ずしも優しくはない。奇妙なモノ、理解できないモノ、気に食わないモノ、自らの利にならないモノ、それらをことごとく疎外し排除しようとする。耐え難い困難と苦痛と苦悩が、ときに善を装って襲ってくる。

 けれど、それでも――


「どうしたの? 真面目な顔をして」


 からかうような口調でそう言われて、

「それだと、まるで僕が真面目な顔をしないヒトみたいに聞こえるよ」

 僕は喜びを噛みしめながら抗議した。

「ふふ、間違いじゃないと思うけど?」

 彼女はいたずらっぽく笑みを浮かべて、言い返してくる。

「はは、まったく否定できないのが辛いところ」

「それで? 珍しい真面目な顔で、いったいなにを考えていたの?」

 魅力的な赤い瞳を好奇心色に染めて、彼女は訊く。

「ちょっとした物語を思い出してね」

 なぜだかちょっぴり気恥ずかしくなって、僕は頬をかきながら、

「感慨にふけっていたんだ」

 彼女の眼を見れないで答えた。

「物語って?」

 彼女は譲歩するつもりのないヒトの表情で問う。

「……出逢った頃の、……こと」

「あらっ」

 と彼女は愉快そう笑って、

「あらっ!」

 次瞬、驚きと喜びのある顔になって、

「すぐに“せんせい”を呼んでっ!」

 大きくなったお腹を愛おしそうになでながら――


「産まれそうっ!」


 喜びの声を聴き終わるより早く、僕は喜びを噛みしめながら速くに駆け出していた。


          *  *  *


 感動という言葉は、きっと“こういうとき”の形容し難い心からの気持ちを、無理矢理に言葉という形状に形成して作られた言葉なんだろうと思った。決して“他者の困難な状況を物語として観て”懐くモノではないと、そんなヒトの“残酷性/残虐性”と表裏なモノではないと、そう思った。

 ここにいることを高らかに宣言する、いまから“ここ/自分自身/居場所”を専有することを高らかに宣言する、その産声を聴いたとき――

 僕は感動のあまり気絶した。……してしまった、……らしい。

「まったく、男は肝心なときに限って役に立たない」

 と“せんせい/助産師”にはあきれられ、

「まったく」

 彼女には愉快そうな苦笑を浮かべられてしまった。

 感極まってしまった、というか極まり過ぎてしまったわけだけれど――

 喜びを抑えるなんて器用な真似は、僕にはできない。

 なにより、そんな器用さは欲しくない。


          *  *  *


 ――しばしの時を経て。

 僕と彼女と我が子は家族で散歩に出かけた。我が子はまだよちよち歩きもできないので、彼女の胸に抱かれている。必然的に、僕は荷物持ち。いまなら家でもなんでも担げそうだ。

 見晴らしのよい小高い丘の上で独りある老樹の、その足元に座らせてもらうことにした。そして開放感と景色とただ一緒に居るという時を楽しみながら、軽い食事を味わう。

 そよ風に流れる純白の長い髪を、そっと手で押さえて。彼女は荷物の中から一冊の本を取り出す。

 その姿に、その光景に――

 僕は改めて、彼女の美しさに見惚れた。

 のろけと揶揄するヒトや、のろけとうんざりするヒトもあるかと思うが、いま僕は間違いなくのろけているので、どうぞ思い思いに言いたいことを言ってうんざりしていただきたい――と、平然と平静と公言できる“心境/心情”だ。

「なあに? じっと見て?」

 彼女は不思議そうに赤い瞳をこちらに向ける。

「え? ええっと、その本はなんなのかなぁーって」

 見惚れていた、と堂々と本人に言うことができないのが僕である。残念というか、情けないことに。

「これは……」

 彼女は表情に影を落として、

「これは、母さんがつけていた日記なの」

 どこか遠くを見る眼差しで手にある日記を見やり、

「ずっと怖くて見れなかった……」

 胸に抱く我が子を見やり、

「けれど――」

 表情から影を消し去り、柔らかく微笑んで、

「いまなら見れると」

 決意あるヒトの、

「そう思えるようになったの」

 ほがらかな顔で、そう述べる。

「――でも」

 と困ったふうな微笑を浮かべて、彼女は言う。

「いざ見ようと思うと、やっぱり怖い」

 そして彼女は、なにかひらめいたふうにぱっと笑みを浮かべて、

「お願いっ」

 と日記を僕のほうに差し出してきた。

 お願いされると、とくに彼女にお願いされると、否と断れないのが僕である。情けないことに。

 日記に書いてある内容を先んじて確認してほしい、というのが彼女のお願いだった。

 正直に言えば、あまり気乗りしないのだけれど、それでも否と断れないのが僕なのだ。残念なことに。

 彼女から日記を受け取り、読む。

 書かれてあったのは――

 彼女の誕生と成長についてだった。

 彼女が産まれた日のこと。彼女が笑ったこと、怒ったこと、泣いたこと、日向で居眠りしたこと、遊んでいて滝つぼで溺れてしまったこと、木陰に生えていたキノコを食べてお腹をくだしてしまったこと。

 ――そして。

 彼女のお母さんの気持ちが、書かれてあった。

 最期が近かったであろうと推察できる、希薄な筆致で。けれどそこにこめられた強い気持ちは確かに伝わってくる言葉が、書かれてあった。

 だから僕は、彼女に日記を返して読んでみることを薦めた。


          *  *  *


 あなたが望まれて生まれてきたということを、

 どうか忘れないでほしい。


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