小話:其の拾七《気づいた時には、もう遅い(仮題)》
ナンセンス――
《気づいた時には、もう遅い(仮題)》
振り向いたらそこに、深淵のごとき闇をたたえる銃口があった。
「――え?」
乾いた発破音が、ひとつ――
* * *
地上を見下ろす太陽は、ただ殺意を持って燦々とそこにあり。
憎らしいほど、空は晴れ渡っていた。
暑さ以外に意識の向く先のない、枯渇し切った荒野。ただ唯一“なにか”の痕跡を感じえるのは、かろうじて“そう見える”一本の道。
地平の果てから、地平の果てまでを希薄につなぐ、その道に、
「…………」
ひとりの男が、ポツリとたたずんでいた。いまは腕をまくり、胸元のボタンを外している、白のシャツ。使い込まれて味を出しつつある革のベルトに、濃紺のスラックス。本来は足元の品格を演出していたであろう、薄汚れた革の靴。――と荒野よりも都会が適している、居場所を間違えた格好をしている。
「…………」
滴るという表現では不十分な、溺れそうなと表したほうが的確と思われるほどに、男は汗だくだった。――が着用している衣服には、汗による湿り気はさしてなかった。殺意ある日光が、ただちに水分を蒸発させ、衣服が湿ることをよしとしないのである。
「…………」
しかし男は、太陽の殺意など感知していないふうであった。ただ静かに真剣に、自らの手の内にある“モノ”を凝視している。
読み潰された、と言えるくらいにシワくちゃでボロボロな、手の平にちょうどよい大きさの、硬い紙で装丁されていない、一冊の書物。――それを男は、自身の置かれた環境を認知するより優先して凝視していた。
――ふと思い出したふうに、男は口を開いて言った。
「…………」
熱された空気を肺にやり、それを吐き出す勢いで、男は言った。
「…………」
そして、男は、いまから口に出す言葉に必要な分だけ空気を吸い込み、いまから言うべき言葉を、言った。
「…………」
ついに、男は、満を持して、その言葉を、言っ――
「――ん? ああ、なんだ、もう始まってたのか」
…………。
「あれ? ちょっとちょっと、しかるべきところに“あるべき描写”が止まっちゃったら、“言うべきセリフ”が言えないじゃないですか」
…………。
「セリフだけの話は、小説じゃない――って言われちゃいますよ? いいんですか? ねえ?」
…………。
「そりゃあ、こっちも、書物に気をやりすぎて、話が始まっているのに気づくの遅れましたよ。だから非がない、とは言いません。――けど、このままじゃ進展しないでしょ? もう少し大人になりましょうよ、ね?」
……そして男は、
「お、その気になりましたか。いや、よかったよかった。これで役割をまっとうでき――」
乾いた地面に突如として出現した、奈落へと通じる穴に、
「――え?」
なんら抗う術もなく、
「ええええええええエエエエぇぇぇぇ――――」
落ちてゆきました。
* * *
「――ふふっ」
薄暗い部屋で、パソコンの画面を見やりながら、
「フヒヒヒヒッ」
その男は、怖気を感じるキレてしまったヒトの笑みを浮かべて、
「どうだっ! 思い知ったかっ! コノヤロウ! フハハハ、ヒヒヒ」
とても意地の悪い顔で、
「作者の思い通りに動かない登場人物なんて、要らないんだよっ!」
パソコンの内側の、“文章作成ソフト内に存在するヒト”に向かって奇声を上げました。
「ハハハハ、イヒヒヒ」
そして男は、とても満足気に、
「フヒヒヒヒ――」
人間工学に基づいて設計された長時間座っても身体を痛めないイスに、深々と身を沈めました。
「……………………はぁ」
男の目元には、これでもかっ! というくらいくっきりハッキリとドス黒いクマがありました。何日もシャワーとシャンプーと疎遠だったらしい髪の毛は、ギトギトのボサボサです。顔面も、皮脂とアカで汚れています。
端的に述べて、男は疲れていました。そして非常に、追い詰められていました。“〆切り”という名の終了のお知らせが、終焉の日が、二日後なのです。
男は食べるのに困らない程度には売れている“物書き/小説家”でした。――が、しかし現在は、どうにも筆が言うことを聞かない、いわゆるスランプという困難な状況に陥っていました。
この状況を男は、“登場人物の反抗期”と称して――けれど、とても四苦八苦していました。登場人物と対話を試みようにも、どうにもうまくいかず。辛抱強く何度も何度も対話を試み続けましたが、やはり進展はなく。当然のように“男/物書き/小説家”も“ヒトの子”ですから、時と共にストレスが蓄積し――
「だからって……」
ストレスが耐えうる限界を超え、ついにプッツンした男は、その勢いで、
「こんな超展開はないよなぁ……」
物語の展開にまったく関係なく、突如として場面に“落とし穴”を出現させ、そしてそこに“反抗期の登場人物”を落としました。
「はぁ……」
冷静さを取り戻して男は、残り時間が少ないというのに、
「なにやってるんだよ……、自分……」
と、ふたつの意味で不快な頭を、容赦なくボリボリとかきむしります。
「……はぁ。ちょっと休憩しよう」
コーヒー飲んで、気持ちを切り替えよう。両の手で軽く頬を叩いてから、男はイスから立ち上がり、いままで背を向けていたキッチンへ通じる扉の方に――
「――え?」
まったく見知らぬ人物が、背景に溶け込むように、恐ろしいほど静かに、寒気を感じるほど無言で、そこに、たたずんでいました。黒の目出し帽からのぞく眼には、深く冷たい笑みがありました。黒の革手袋をはめた手には、右手には、よく斬れそうな大振りのナイフがありました。
そして速やかに、右手のナイフは振るわれました。
* * *
――というところで“わたし”は、読んでいた本を閉じました。
朝の通勤の途中、バスが目的地に到着するまでの車中で、ゆっくり本を読むのが“わたし”の習慣であり楽しみでした。
そんないつもの繰り返しによって体得した感覚から“わたし”は、もう少しで目的地に到着するだろうと思い、けれど実際、いまどのあたりを走行中なのだろうかと窓の外へ視線をやり――
「――え?」
そこにあるはずのない、そこにあっていいはずがない、大型トラックの顔が、とても間近に、とても致命的な勢いを保ったまま、とてもゆっくりと、けれど確実に、こちらに迫ってくる様子が、そこに、ありました。
* * *
――というお話を読んだ“あなた”は、
ました。