小話:其の拾六《よくある出来事(仮題)》
時に子どもは策略家――
《よくある出来事(仮題)》
しばしばおとぎ話で見受けられる“幸せに暮らしました”という終わりは、しかし現実には起こりえない。
* * *
経済バランスが崩れ、国が食料を配給する時代。
しかし闇市はどこにでもあるもので。少しばかりのお金を払って食料を買い、食卓にささやかな彩り加えることは民衆の常識でした。
これはそんなありふれた闇市での、どこにでもありうる、ひとつのありふれた光景――
その女の子の大好きな食べ物は、とっても甘いくて美味しいと評判の“ミルクチョコレート/板チョコ”でした。なので“それ”を発見したとたん、彼女は発作的に、
「おかーさんっ! これかってっ!」
けれど母親は、
「はいはい、また今度ねー」
いつものことなので軽くあしらいます。
この時分、“お菓子/甘味”は、手は届くけれど少々高級なモノになっていたので、誕生日や風邪を引いたなどの“特別な理由”がないかぎり購入しないのが一般庶民の感覚でした。
「こんどって、いつ? あした?」
母親の服の袖をぐいぐい引っぱり、
「ねえねえ、いつなの?」
明確な情報を得んとする女の子に、
「はいはい――」
母親は、いつものように答えました。
「また今度ねー」
――後日。
いつものように母娘は、闇市に買い物に来ました。
そしていつものように女の子は“チョコ買って”発作を起こし、そしていつものように母親は軽くあしらいました。
けれどいつもと違うことが、なんの前触れもなく起こりました。
政府の取り締まりの手が、この闇市にも伸びてきたのです。
銃火器で武装した憲兵隊が、次々と闇市の商人たちを拘束してゆきます。売られているモノを、国旗の名の下に没収してゆきます。
ある商人が抵抗をこころみました。しかし訓練された兵士に敵うはずもなく。すぐに商人は身動きを封じられてしまいました。
そして見せしめのように、抵抗するとどうなるか知らしめるように、ひとりの憲兵が、身動きのとれない商人に暴力を振るいました。
それを目にした人々は恐怖に囚われ、反射的に目をそむけました。とばっちりを受けないように、努めて他人であろうとしました。
――同時に。
人々は憤懣に囚われ、決意するように奥歯を喰いしばりました。たくさんの沈黙が、無意識の内に“きっかけ”を欲しました。
――そして。
どこからか飛来した小石が、ひとりの憲兵の肩に命中しました。そして当然のように、その小石は地面に落ちました。たくさんの沈黙の中にあってその小石の発した音は、とても“明瞭/明確”に人々の“耳/感情”へと届きました。
それが、合図になりました。
異常な熱が、一帯を支配しました。
異常な連帯感が、一帯を支配しました。
怒れる人々は波となって、憲兵隊を押し流すようにうねりだしました。
女の子と母親もそのうねりに巻き込まれ、強制的に波の一部となって流され進んでゆきます。母親は娘の身の危険を感じ、その手を離さないよう強く握り、どうにか波の外へ脱け出そうと試みました。しかしつないだ手は人々のうねりによって両断されてしまいます。母親は必死に娘の手をつかもうとしますが、その意に反してうねりによって波の外へと押し流されてしまいました。
母親は人々をかきわけて娘を探し出そうとしますが、怒りに囚われた人々に彼女の意が伝わるはずもなく、邪魔者を排除するように波の外へと押し戻されてしまいます。彼女は娘の名を叫びました。何度も何度も、声帯が壊れるほどに叫びました。どこか遠くでそれに応えるような声が――シュプレヒコールの中に消えてゆきました。
個人の事情などおかまいなしに、人々の波は流れてゆき――
いままでの出来事が目覚めの悪い夢であったかのように、殺伐とした静けさが辺りに訪れました。
そして母親は、道ばたの“ある一点”を注視したまま静止しました。
「…………」
頬をなでるそよ風に乗って、彼方から人々の感情の波の音が聞こえてきました。これが現実であることを告げるかのように。そう意地悪く、耳元でささやくかのように。
その“ある一点”へと向かう母親の最初の一歩は、恐れているような、怯えているような、とても小さな一歩でした。二歩、三歩と行くにしたがって、しかしその足どりは速く荒々しくなってゆきます。それと同調するように、表情もひっ迫したモノへと変化してゆきます。
そして彼女は半狂乱の勢いで“ある一点”へと到り――地べたに力無く横たわる愛娘のもとへと到り、糸の切れた操り人形のごとくその場に崩れ落ちます。
だらりと脱力しきったその身を抱き起こして、その顔にかかった髪を優しくはらい、母親は娘の名前を呼びました。朝なかなか布団から出ようとしない彼女を起こすときの、柔らかく優しい声色で呼びかけました。呼びかけ続けました。
「…………」
溢れ出る涙で、母親は娘の顔をうまく見ることができなくなりました。物言わぬ愛娘を、言葉なく抱きしめました。
脳裏に、あらゆる場面での愛娘との“やりとり/思い出”がよぎりました。それは後悔とも同じでした。
そしてもっとも新しい“やりとり/思い出”が脳裏に映し出され、
「こんな、こんなことになるなら……」
ひとつの後悔が、
「好きなだけ、好きなだけチョコ買ってあげるからっ!」
母親の口から溢れ出てきました。
「……お願いよ、……返事してよ、…………チョコ買ってあげるから、……ねえ?」
「やくそくだよ?」
「……………………へ?」
母親は、我が耳を疑いました。
「チョコかってくれるの、ぜったいのぜったいのぜえったいに――」
だからその声のするほうを、彼女は目を凝らして見やりました。
「――やくそくだからねっ! おかーさんっ!」
けれど涙で視界がぼやけてしまって、うまく見れませんでした。
しかし母親の顔に、もう悲愴な色はありませんでした。変わりにあるのは、歓喜と安堵の混在する“我が子を叱る母親の表情”でした。
彼女はひとりの母親として、涙越しに目が合っている愛娘を、イタズラを思い通り成功させたふうな喜び色の表情の愛娘を――
ぎう、と心から抱きしめました。
愛娘の生きている温もりをたっぷりと実感して、やっと落ち着きを取り戻した母親は、
「まったくもうっ! どうしてこんなことするのっ!」
ぴしゃりと娘を叱りました。
「――っ!」
チョコを好きなだけ買ってもらえる。そのことで頭がいっぱいになっていた女の子は、いまさっきまでと一転して出現した“おこってるおかーさん”にビックリと目を見開いて、
「…………うぅ」
けれどすぐに、
「……だ、だって」
どうして怒られているのか、
「チョコ、たべたかったんだもん……」
目の前にある“おこってるおかーさん”の、“泣き過ぎて/嘆き過ぎて”涙と鼻水とでぐちゃぐちゃに汚れた――怒り顔を改めて直視して、
「……うぅ、……おかーさん」
きちんと、正しく理解しました。
「……………………ごめんなさい」
そして母娘は、どちらともなく手を取り合い、
「……今日は、もう帰ろっか」
「かえるー」
家路につきました。
人々の波にのみこまれて早々に女の子は、波に参加していた顔見知りの商人らによって発見、保護され、波の外の安全な場所まで避難させてもらっていました。なので母親の心配をよそに、騒動が治まるまでヒマになった彼女は、いまもっとも熱い問題である“どうしたらチョコを買ってもらえるか”について、ずっと脳内戦略会議を開いていました。
そしてそこから導き出された結果が、さきほどの――いわゆる“死んだふり”でした。
そんな“事ここに到るまで”の話を娘から聴いた母親は、まず、顔見知りの商人らに心から感謝しました。もし彼らが娘を保護してくれていなかったら。あるいはこうして娘を叱ることは二度となかったかもしれない。それを思うと――
「……?」
つないだ手を、ぎうと改めて握ってきた母親を、
「どーしたの? おかーさん?」
女の子は不思議そうに見上げました。
「――ん?」
娘の声に“もしも/想像”から“いま/現実”に引き戻された母親は、もの問いげにこちらを見やる娘と手をつないでいる“いま/現実”に、そして手と手でつながっている愛娘に、柔らかく微笑み、
「なんでもないわ」
どこか嬉しそうに答えました。
それからしばし無言のまま歩みは進み――
「誰かを悲しませるようなウソは、もう絶対にダメだからね? いい? わかった?」
やんわりとした口調で、母親は改めて娘に言い聞かせました。
「……うん」
女の子は反省しているのか、しょんぼりしたふうに小さく首肯しました。
それを見て、しかし母親もまた、ひとつ反省をしました。チョコを欲しがる娘に、まったく買う予定などないのに、「また今度」と言っていたことをです。それが言い易い言葉だったから、この場面では“当たり前”のような言葉だったから、その意をあまり意識していませんでしたが、しかしこれもひとつの“誰かを悲しませるウソ”であることに、母親にとって都合のいい“言葉/ウソ”であったことに、いまさらながら気がついたのです。
親が言う“また今度”が、いったい“いつ”なのか、むかしは自分も納得し切れない不満の混在する疑問を懐いていたはずなのに……。
「…………」
子の親としてそれが正しい姿勢であるのか、彼女には判断し切れませんでしたが、
「ちょっと寄り道してこうか?」
しょんぼり気味な娘に、ひとつ提案をしてみました。
「……? どこいくの?」
いきなりのことに理解が追いついていないのか、ポカンとした表情で訊いてくる娘に、
「ん? ふふふ」
彼女はニヤリとして答えました。
「チョコを買いに」
夢を現実に変えられるのが子どものスゴイところだとしたら、ウソを本当に変えられるのが大人のズルイところだったりします。
「しっかり“ズルさ/大人”を体得しちゃって……、私も“お年頃”かしら……」
念願の“ミルクチョコレート/板チョコ”を前に興奮気味な娘の背を見やりながら、ふと母親は思いました。
そんな母親の愁いとも似た心情など、
「むー」
まったく感知することなく。女の子は規則正しく陳列された“ミルクチョコレート/板チョコ”を熱く凝視していました。
「むむー」
眼差しの熱でチョコがとけてしまうのでは、と思えるほどに、
「むむむー」
それはそれは熱い凝視でした。
「――っ!」
瞬間、ある域に達した武芸者のごとき気迫を発して女の子が動きました。
「これにするーっ!」
そう言ってかかげられた彼女の手には、いつの間にか一枚の“ミルクチョコレート/板チョコ”がありました。
これにするもなにも、工場で作られた既製品なんだからどれも同じでしょうに。――と母親は思いつつ、しかしあまりにも真剣に「いちばんおっきいのにするっ!」と息巻いてチョコを厳選する娘の姿には、意図せずして口元に柔らかな微笑みがあったりしました。
「はんぶんこー」
家路の途中にある河川敷の、散歩道に等間隔で設置されたベンチのひとつに母娘の姿はありました。
「あら」
いわく“いちばんおっきい”厳選されたチョコを、しかし迷いなく真っ二つに割って、喜色満面その半分を差し出す娘に、
「もらっちゃっていいの?」
次はいつ買うともわからないチョコですから、母親はあえて訊き返しました。
「うんっ」
と晴れやかな笑顔で答える娘の、その心意気だけでもうすでにお腹いっぱいな母親は、
「全部、食べちゃっていいのよ?」
と返しました。
そんな母親の“優しさ”に、しかし女の子は「むっ」としたふうに眉根を寄せて、
「はんぶんこぉ!」
半分のチョコを頑と突きつけ、ぷくっとほっぺを膨らませます。
それがあまりにも可愛くて愛おしく、思わず母親は、ぎうと娘を抱きしめたい衝動に駆られましたが、
「……そお?」
そこは気持ちを抑えて、
「じゃあ、半分もらうわね」
突きつけられた半分のチョコを娘の手から、もらい受けました。
「ありがとね」
半分のチョコは、愛娘の熱い心意気でとろけてゆるくなっていました。
「どーいたしましてっ」
いまさっきの膨れっ面はどこえやら。女の子は嬉しそうに、にぱっと笑顔になって言いました。
母親はこの光景を、バッチリしっかり脳裏に焼き付けました。“このときのこと”は確実に、“女の子/愛娘”が“お年頃”になっても“昨日のこと”として語られるでしょう。
「……えへっ」
そして改めて女の子は、“自分の食べる半分のチョコ/念願”と向き合い――
嬉々満々な笑みを浮かべます。よほど嬉しいのか、よだれが口の端から溢れて垂れちゃっています。
それに気づいた母親に、
「むぐ」
よだれをハンカチでぬぐわれてから、
「いっただっきまーす」
ついに女の子は、
「はむ、んむんむんむんむふふ」
ミルクチョコレートを味わい、
「はむ、んむんむんむふふふ」
その美味しさを、
「はむ、んむんむふふふふ」
お腹の底から、
「はむ、んむふふふふふ」
心の底から、
「ぬふふっ」
堪能しました。
「とぉーっても、おいしーねっ! おかーさんっ!」
とろけたチョコで口のまわりをデコレーションして女の子は、言いました。
「――ん?」
愛娘に喜びの共感を求められ、そこでやっと母親は、自分がチョコに口を付けていなかったことに気がつきました。見ていてこっちの頬がゆる~くなる娘の食べっぷりに、ほっこりくぎづけだったのです。
「はむ、んむんむんむんむふふ」
娘に返答するため、母親は手にある半分のチョコを口に運びました。いつ以来だか思い出せないほどひさしぶりに、ミルクチョコレートを味わいます。
「はむ、んむんむんむふふふ」
当人は自覚していませんが、
「ぬふふっ」
そこには“女の子/愛娘”と、
「とっても、とぉーっても美味しいわねっ!」
まったく“うりふたつ”な顔がありました。
「むぐっ、むぐむぐ」
娘の口まわりにある甘いデコレーションを、丁寧にハンカチでぬぐってから、
「さぁーてと、そろそろ帰りましょうね。夕食の支度しなきゃ」
母親は立ち上がり、つなぐための手を娘に差し出します。
「おかーさんっ」
しかし女の子は、その差し出された手をつかむことなく、
「おくにちに、チョコついてるよー」
母親の口元を、ビッと指差して言いました。
「……ん?」
ちょっと驚いたふうな疑問顔で、母親は指摘された箇所を軽く手で触れてみました。
「あらやだ」
そこには指摘された通り、甘くて美味しい“汚れ”がありました。
「ふいたあげるー」
ハンカチで“汚れ”をぬぐおうとする母親を制して、女の子が言いました。
母親は一瞬、思考の間を置いてから、
「じゃあ、お願いしちゃおうかしら」
ハンカチを娘に手渡し、その場に膝をついて娘と目線の高さを合わせます。
「ぐむっ、ぐむぐむ」
口のまわりにある甘い“汚れ”を、愛娘に、豪気にハンカチでぬぐわれてから、
「ありがとね」
母親は「よっ」と気合をひとつ口から発して、立ち上がります。
「どーいたしましてっ」
大きな仕事をやり終えた職人のような晴れやかな表情で女の子は言って、
「おうち、かえろー、おかーさん」
目の高さほどにある母親の手と、自身の手をつないで――小さなあくびを、ひとつ。
「……歩ける? おんぶする?」
いろいろと“凝縮/濃縮”して起こった今日なので、ついにまぶたが重たくなってきたと思しき娘に、母親は確かめるように訊きました。
女の子はぶんぶんと首を横に振り、
「あるく」
眉はキリッと目は半寝という愉快な表情で、けれどキッパリ答えました。
「そお? でも、すごく眠たくなったら言うのよ?」
「うん」
――ほどなくして、女の子は睡魔の誘惑に負けました。
「…………チョコ」
母親の背におぶさりながら、女の子は“まどろみ”の波間で、
「……はんぶんこぉ、……おとーさん、……わすれてたぁ」
むにゃむにゃと思い出したふうに言いました。
「……あ」
ほとんど寝言な娘の言葉で、母親も夫の存在を思い出しました。そしてうっかり失念していた夫への“わけまえ”についても、考えが至りました。めったなことでは買うことのないチョコですから、せめて“ひとかけら”くらいは、夫にも“わけまえ”を残しておいてあげるべきだった、と。――いま冷静になって思えば、の話ですが。
「あの美味しさを味わって冷静でいられるヒトなんて、そもそも居るのかしら?」
誰にでもなく“いいわけ”めいたこと呟いて、
「……夕食は、ちょっと、ちょっとだけ豪華にしよ」
母親は今日の夕食を、チョコの“ひとかけら”分くらいは豪華にしてあげようと心に決めるのでした。――と言っても、いろいろ起こって今日は買い物をしていないので、言ってしまえば“ありモノ料理”なのですが、
「久々の本気料理……」
たまに揮う主婦の本気は、とてもあなどれないモノだったりするのです。見てガッカリ食べて普通な“ありモノ料理”が、見てビックリ食べて笑顔な“豪華料理”に格上がりしてしまうほどに。
「ふふ、腕が武者震いしてくるわ」
* * *
ひとつの困難を乗り越えて“幸せに暮らしました”という終わりは、現実には起こりえない。しかし、数知れぬ困難の中にあって“それでも幸せに暮らしています”という現在は――