小話:其の壱
某日。
とある用事からの帰路の途中。
空気をジメジメとさせる雨が降り荒ぶ、傘をさしていても服が湿る、そんな苛立たしい気象の夕暮。
私は、一匹のセミと出会った。
正確に言うなれば、出会った、ではなく、発見しただろうか。
そのセミは、雨にうたれて、道路を這いつくばっていた。
死んではいなかったが、もう死ぬのが秒読みだろうと推測できるほどに、そのセミは弱っていた。にもかかわらず、それは道路を這っている。
這うその先には、電信柱があった。
そのセミは、電信柱を目指しているようである。
昆虫であるセミが、電信柱を目指すのは、木に止まって鳴くという行為を――細胞に埋め込まれた子孫を残すという、自然の法則にしたがってのことである。所詮、脊髄反射で胴体を動かしているだけの、下等生命。
死にぞこないのセミを相手にバカバカしいけれど。
あるいは、雨の日だから、心身ともに湿っぽくなっていたのかもしれないが。
なんでこのセミはこんなに必死なんだろうか、とか考えた。
約七日で死ぬセミである。
寿命がそれであったとしても、鳥に食われたり、人に捕まったり、色々な理由で、七日間もたたずに死ぬだろう。
目の前で道路に這いつくばるセミは、寿命だろうか、雨に打ち落とされたのだろうか。
しかし、よくよく見れば、そのセミの尻は欠けていた。
鳥についばまれたのだろう。
だが、運がいいのか悪いのか、それ致命傷にならずに、そいつは道路を這いつくばっている。
鳥に食われて死んだ方が、幸せだったんじゃなかろうか、と考えた。
他の生き物に、自らと同じような思考、想い、思い、気持ち、をだぶつかせて、勝手に共感したり感動したりするのは、人の勝手だと思うけれども、しかし私はそのセミを見て思う。
そこまでして、鳴きたいのか。
そこまでして、存在を示したいのか。
どうして、そこまで頑張れるのだろうか。
どうして、そこまで諦めないのだろうか。
尻を欠けさせてまで、身体の中身をはみ出させてまで、どうして電信柱を目指すのか。
別にそのセミになにか思考があって、その行動をしていたとは思わない。所詮、セミはどこまでいっても、セミと言う昆虫でしかない。
自分が死にそうだという考えすらないだろう。
死という未来を見れるのは、人間の特権だ。サルだって、二日先くらいまでしか、未来をイメージすることはできないのだから。
だから、昆虫に死という概念は無いだろう。死を知らず、セミは目的の為に、死にそうになりながら地面を這っている。
それが死を知らないセミだとしても、死をイメージできる私から見れば、そのセミは生きていた。
地べた這いつくばるその行動に、意味があるように思えた。
何故だか、自分がそのセミにも劣るように思えた。
何故だか、腹立たしくなって、歩みを再開させてた。
翌日。
雨が降っていたのがウソのようなほど突き抜けた青空。
昨日の道を通った。
あのセミが居た。
アリに解体され、食われていた。
電信柱まで、小指の先っちょほどの距離だった。
私にとってはどうという事のない距離でも、死にぞこないのセミには致命的な距離だったらしい。
このセミは、きっと自分が死んだことにも気づいていないだろう。
だが、その屍体はアリの食事という意味を持っている。
昨日は生きていた。
今日は活きている。
今を生きているのか、生かされているのか、わからない自分は、
果たして、死んで尚、
このセミほどに、その死に意味を持たせることが出来るのだろうか……
せめて意味のある死を願うのは、
私の業だろうか……