希望が見えて来たんじゃない? その6
勉強会に対戦スペースを使ってはならぬと常識人の配慮を見せる一方、トリシャには一切容赦なしだ。
八汐さんは前回同様ほぼ一人で魔窟を片づけ、俺たちを部屋に通した。
ほぼ全ての窓が開け放たれ、電車やヘリの淡白な音が風と共に流れ込んでくる。
「蛍さん、数Ⅰの教科書はありますか?」
ヤンキー校の教科書がどれ程薄いものなのか怖いもの見たさもないではないが、そのヤンキー校から脱落しかかっているのが目の前にいる女だというから恐ろしい。
「ないですけど……」
ついで数Aの教科書を求めても、Kの返事は変らない。
ヤンキー校には数学が両方ない日があるとでもいうのだろうか。
「ではライティングの教科書……とは限りませんね。授業では今何をやってるんですか」
八汐さんのプレイヤーとしての強みは、強引さと柔軟さの両立である。
塞がったルートは躊躇なくバッサリと切り捨て、通れる道を突き進むのだ。
「実は英語もあらへんくて」
だがカードゲーマーにとっては、適応力よりも遥かに重要な能力がある。
「おい、K。数学も英語もないって、今日は一体何の授業があったんだ?」
敵を欺き、嘘を見抜く力だ。
「化学と、音楽と、現国と……」
案の定、目を泳がせるK。
そこに英数のいずれかが加わって初めて平均的な時間割になるのだから、当然である。
ここに至っては最早疑う余地もない。
「お前、教科書を持って帰ってないだろう!」
コスメだのドライヤーだのアイロンだのが詰まった鞄を見れば大隊の想像は付く。
Kが黙秘権を行使した一方、悲鳴を上げたのは八汐さんである。
「待ってください! それならどうやって家で予習してるんですか!」
血統書付きの優等生に、帰宅後に勉強しない生活など想像も付かないだろう。
かくいう俺も、Kが居候するまでは理解することは出来なかった。
学校とは、遊び回ることができないよう無意味に少年を拘束する収容所だと語り継ぐ部族が実在しているということを!
「いや、だってまだテスト前とちゃいますし……」
文明世界と非文明世界を分かつ阪神電鉄の高圧電線が、八汐さんとKの間に立ちはだかっている。
Kを文明化するという困難な課題を、今まで俺一人に押し付けてきたツケを払うがいい。
依然として俺自身も危機的状況は脱していないものの、これで少しは溜飲が下りるというものだ。
八汐さんが立ち直るより早く、お盆を手にトリシャが戻ってきた。
「オキベンとは弁当の一種ではなかったでオジャルか……!」
トリシャは置き勉を駅弁の仲間か何かと勘違いしていたのか。
弁当を一日室温で放置して大丈夫な筈がないが、それ以上にKの生態がトリシャの想像を絶しているのだ。
「拘ってたら話が進みません。K、今数Ⅰの授業では何をやってるの?」
無思慮な理想論者のように見えて、パラガスも偶には理性的な判断をする。
「ひたすら式ばっかりや。aとかbとか、コーシー? シュワルツとか」
式変形と不等式なら、範囲自体は俺たちと同じか。
難易度には雲泥の差があるので、Kでも習得できる公算が高い。
「この問題は見たことある?」
「ないなぁ……」
「中間はどこまでだったの?」
パラガスの教科書をめくりながら既習箇所を確認するにつれ、Kの記憶を遮る霧の濃さだけが浮き彫りになってゆく。
「そもそも中学の数学も覚えてないんじゃないのか? 普通の因数分解から始めたらどうだ」
以下の数式の解を求めよ。
x^2+4x-21=0
何という教科書問題だ。
多少気の利いた中学生なら見た瞬間に解けるだろう。
ところがKは入口に立つ前に、ポーチの階段で見事に躓いた。
「4たす8ひく21……やと-9やし……」
早くもKの顔面は蒼白になり、見ている俺たちも動揺を隠しえない。
「ええい! それっぽい数字を片っ端から代入するつもりか!」
中学時代のKが、こんな方法で問題を解いていたとは。
まさか教師が当て推量を推奨していたわけではあるまい。
「さ、流石師匠、Kの無学がここまでの物だったとは……げに鋭き慧眼にオジャル!」
トリシャは俺をおだてることで平静を取り戻そうとしているようだ。
Kのお粗末さを笑うことはできても、俺たちにはそのKに3次以上の数式と証明を会得させるという絶望的な条件が課せられている。
「蛍さん、解を求める時は、最終的に低次式の積の形に崩していきたいわけでしょう?」
八汐さんはこの一瞬で、周回遅れのスタートラインからの再出発を決意したらしい。
Kに理解させなければならない以上、才知はむしろ障害か。
「二つの解がaとbだとして、(x-a)(x-b)=x^2-(a+b)x+abでしょう?」
a+b=-4でab=-21なら、Kでも解ける連立方程式だ。
「三七二十一やから……7の方がマイナスなら-4になるな!」
そんなことで一一気づきを得るな。
こんな調子では月末どころか年が明けてしまう。
「まあまあ、分配法則が分かってるだけでも一つ助かったと思って」
もういっそ補習を前提に計画を策定すべきではないのか。
俺が損切りしようとしたその時、トリシャがノートを取り出した。
「Kよ、解の公式は覚えてるでオジャルか?」
二次関数の話も一緒にしておくでオジャル。
なるほど、無理矢理この手の式を一つの形に落とし込むなら、軸と頂点で考える方が単純だ。
y-q=w(x-p)^2
y=w(x^2-2px+p^2)+q
「さしものKナレド、二次式で一番単純なy=x^2のグラフは覚えているでオジャロウ?」
最も暴力的な解釈に基づけば、いかなる放物線でもy=x^2を上下左右にスライドさせ、拡大縮小したものに過ぎない。
xの係数から一つずつ解決する方が、Kにとっては堅実な道のりに違いない。
傑出した才能を持ちながら、相手に非凡さを求めない柔軟性こそ、トリシャの『夙川日記』が幅広い支持を得ている最大の要因である。
「いや、やっぱ変ちゃう? (p,q)から始まるなら、-やなくて+やろ」
Kよ、白状しよう。
俺は侮っていた。
あらゆる努力を軽々と打ち砕く、お前の、愚かさを!
「いや、だから、軸からの距離をXとするだろ? 二乗するのはXで、X+p=xなんだから、X=x-pじゃないか」
このあまりにも苛烈な知性の欠如から、トリシャを守らねばならぬ。
この辛苦を、この戸惑いを、この焦燥を知っているのは、この場には俺しかいない。
カリスマビルダー・マッシュをを置いて他に、一体誰がこの大役を果たせる!
世界一頼もしく微笑みかけた先にあったのは、しかし、絶望を見つめる虚ろな瞳だった。




