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似非紳士としずかな青年

「お前さん、それは聖書かい」

 ずいぶんと近いところから声をかけられたのに、その存在に気が付かなかった。

 潮風薫る港町――からすぐ近くの、酒場と娼館と工場が集まる灰と煙のスラムにはその日、冷たい雪が降っていた。その雪は天から降る途中で工場の煙や何処からともなく舞ってきた灰を吸い、白くて美しかったはずの結晶は黒く濁り、地面には灰色の雪解け水を作っていく。

 青年はずっと前からこの港町のスラムにいた。ほかに行く場所がなかった。身寄りもなく、職もなく、彼を受け入れてくれるところなど――有ったのかもしれないが――結果として彼を幸福にすることはなかった。彼が求めたのは不干渉・非暴力の世界。植物のように生きていける場所を探していた。誰にもかかわってほしくなどなかった。自分に関わった人間はすべて不幸にしてきたし、自分も不幸になった。その不毛な生の果てにたどり着いたのが、この港町のスラムだった。近年では産業革命の折にできた工場などの産業廃棄物が海を汚し、魚が取れず、この町でまともに漁業を営んでいるのはごくわずかな精鋭たちだけだった。

 そんな町だからこそ、人が離れ、治安が悪化し、最終的に底辺の労働者と体と心を売って命を短くする娼婦しか集まらなかった。青年はそんな誰もが自分のことで精いっぱいな、不干渉なところが居心地がよかった。青年が住んでいるのは港町のスラムの中にある木でできた小屋だった。人一人しか住めないような天上の低い、犬小屋みたいな。今はその小屋からでて、昼下がりの海をぼーっと眺めていたのだが。

「聖書? お前にはこれが聖書に見えるのか」

 青年は灰色の肩掛け鞄――唯一の所持品たち――の中にある、黒い背表紙の本を取り出す。丁寧になめして作られた手触りのいい、厚みは8センチほどの小さな辞書のような本だ。寒さで氷のように冷たくなった指をさすりながら、白い息を吐きながら声の主に渡す。

「ほお、お前さんはもしかしてそっちの人かい」

「だったらどうした」

「いや、珍しいだけさ」

 面白がるような声色に苛立ちが芽生える。こいつはいったいなんなんだ。娼館で女を買いに来たどっかのトンチキ坊ちゃんか。ならば男の俺にかまわずさっさとどっかにいけ。

「そんな、怖い顔しなくても」

 どうやら態度で分かったらしい。クソ、と悪態をつく。

 ほら、返す、と声の主は本を差し出す。無言でそれを受け取ると、枯れた心の中でどこか興味がわいたのか、ここで初めて声の主を見上げた。

 黒いハットに、しわ一つない、卸したてのような黒い燕尾服。――と、象牙の装飾が美しい、曲りの一切見えないまっすぐな杖に、黒い靴。そして手には手袋。もちろん絹、という感じの美しい光沢。

 嫌味なくらい正真正銘のお坊ちゃまだ。年は20かそこら、中等教育学校を出てすぐと言う感じだ。

「……ものの見事」

「そうかい、お褒めに預かり光栄だな」

「褒めてないんだが」

 嫌味のつもりで言った言葉だったが、その男はニッと喜んで受け答えする。だからなんだ、とその場でうずくまり、特に何もない様子で男が立ち去るのを待った。

 ――結果として、男はしばらくたってもその場から立ち去らなかった。

「……娼館ならあそこの角を曲がってすぐだ。早く行け」

 しびれを切らし娼館がある方へ指を刺し睨みつける。

 紳士の男はニコニコしながら見つめ返す。

「いや、女を買いに来たわけじゃないんだ」

 その言葉に嫌でもウッと喉が詰まる。幾ら忘れても清算しきれなかった過去の汚物が蘇る。

「……それ以上言うと貴族でも死刑だぞ」

「あはは、あはは、僕がそんな風に見えたのかい」

 白い息を吐きながら男は大笑いすると、違うんだよと言う。

「ボクは君に会いに来たんだ」

 それとボクは貴族じゃない、とも。

「ボクはアードルフ=エルンスト=ゾーム。ドイツ人。この国に貿易をしに来た一族さ。君は?」

 そういわれて、最初は名乗る気が起きなかった。そうか、ドイツ人。確かにコイツにはそっちの訛りがあるな、と思った。そして『会いに来た』という胡散臭さがどうしても彼を警戒させた。

「名前は」

 催促された。それでも言葉に詰まった。

 紳士の男はふう、と困った顔を浮かばせて、そしてしゃがみこんで、目線を合わせる。

「おなまえは」

 まるで子供にするような仕方だ。そして一気に顔の距離を詰められる。目線がぶつかり合う。不思議と恐怖は浮かばなかった。その紳士の瞳は青色だった。

 ついに観念した。


「ガルディア」


 そう一言いうと、紳士は満足したのかすくっと立ち上がり、そうか、いい名前だ! と寒空に似合わず晴れ晴れしく言った。

「ガルディア、さっそくだけれど、うちにこないか」

 アードルフはそう言った。

 ガルディアは、は、という顔をして何か言おうとしたが、その瞬間に腕を引っ張られ、体が立ち上がってしまった。

「ボクはね、君に会いに来たんだ!」

 そういって引っ張られるままに、ガルディアは港町のスラムを後にした。


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