第二話『軟派野良犬ドーナツを喰らう その三』
「はあ~。これが野点席か……」
毛氈の敷かれた長椅子に通された千尋は、ゆるゆると辺りを見回して野点席の光景に見入った。
水屋はテントの中に設けられていて、薄茶も和菓子もそこから客席へと運ばれている。
遠目でテントを見た時には風情に欠ける気がしたものの、係りの者は皆和服を纏っているし、
長椅子の傍では、二メートル以上はあろうかという、大きな朱塗りの傘が添えられていた。
茶釜や、釜の炉となる風炉も飾られていて、これはこれで和の風情が醸し出されている。
それらが、茶室の緊張感ではなく、開放感のある屋外の風に包まれている。
野点とは、野の天然空間と、茶の洗練された空間が融合した、実に不思議な世界だった。
陽が大分落ちていて、もうすぐ茶席も閉じるからだろうか。他に客はいなかった。
この世界を一人締めできたのなら、少しは気分良く茶も飲めただろう。
だが、客はおらずとも、千尋は一人ではなかった。
「野で茶を点てる。すなわち野点ってこったな。たまにどこかの流派がこの公園でやるんだよ」
千尋の傍に座るロビンが、千尋を見上げながら言う。
「おい、他の人に聞かれるぞ。喋りたかったらワンワンで我慢しろ」
「ワンワン」
「それで良し」
「ワン」
ロビンをたしなめた所に、ちょうど菓子器を運ぶ役の点て出しが来た。
おっとりとした顔つきの中年の女性で、身のこなしもどこか緩やかである。
彼女は、慣れた手つきで、陶器の菓子器を長椅子に置いてくれた。
その菓子器の上に乗っていたのは、和菓子であって、和菓子ではない。
……そこには、紫陽花が花咲いていた。
「……綺麗だ」
千尋は思わず感嘆の言葉を漏らす。
菓子器に乗っていたのは、寒天の生菓子だ。
小さな立方体の寒天が、白あんの周りに無数に付いている。
寒天は青色、紫色、桃色に彩られていて、夕陽の中では輝いてさえ見えた。
六月という季節に相応しい、見ているだけでも清涼感を感じる菓子だった。
「紫陽花、という名前の和菓子です。そのままですねえ」
点て出しが、ほんのりと笑って名を教えてくれる。
「そうか。紫陽花の季節ですもんね」
「ええ。梅雨が来て花が散る前にお召し上がり下さい」
「ははっ。そうさせて頂きます」
女性の冗談に思わず笑顔になりながら、菓子器を手に取る。
瞬間、指先に訪れた感覚に、千尋は思わず目を見開いた。
「冷たい……」
「あら、冷たすぎましたでしょうか?」
「いえ、そういうわけでは」
千尋は自分の指先を見つめながら呟く。
「これ、もしかして器を……」
「ええ。冷やしておきました。ではお茶をお持ちしますので、ごゆっくり……」
去り行く女性を呼び止めて、何故、と聞きたい気持ちに駆られる。
だが、答えは既に体感していた。
指が心地良いのだ。
夕方とはいえ、六月中旬の陽気はほのかに暑い。
その熱気を、指先に伝わる冷気が相殺してくれる。
冷たさは実にささやかなものであったが、心まで涼しくなった気がした。
紫陽花を頬張ると、白あんの重い甘味が味覚を支配した。
口内で潰れるように広がる触感も心地良く、美味という他ない。
千尋は上機嫌になりながら、遺された菓子器を見つめた。
自然釉にのみ頼った武骨な装飾で、ざらついた素地は分厚い。
素朴な姿だからこそ、鮮やかな紫陽花を引き立ててくれる、良い備前菓子器だ。
残念ながら、千尋にはその菓子器の良さが分からない。
だから、というわけでもないのだが、千尋は菓子器の意匠とは別の事を考えていた。
(……もしかして、この心地良さの為に、ヌバタマは器を冷やせと言っていたんだろうか……)
菓子器を見つめたままで、今日の稽古を思い出す。
稽古の不調と日暮れへの焦りに気分を悪くして、店を飛び出した事を思い出す。
ヌバタマの稽古には、それなりの理由があったのだ。
だというのに、自分は感情に任せるままに行動し、彼女の心中を慮ろうとしなかったのだ。
彼女は、怒っているだろうか。
もしかすると、もう稽古を付けてくれないだろうか。
そうだとしても、謝らなくては……。
「なっ、なっ。俺が言った通りだろう?」
自責の念に駆られている所へロビンがまた喋り出したが、聞き流す。
しかし、続けて発せられた言葉については、そうはいかなかった。
「おっ……おい千尋。偽JCがいるぜ。見た目だけ十五歳の女がいる」
「随分な言い草ですね」
ロビンの言葉に対して、やや離れた所から返事が返ってきた。
聞き覚えのある、穏やかで、それでいて芯の強い声。
声の主を視界に捉える前に、誰が発したものなのか分かってしまった。
「ヌバタマ……」
「探しに来たんですよ。もう」
視線の先にいたヌバタマは、露骨に顔を背けながらそう言った。
◇
「ヒャッヒャッヒャッ! ロビンが茶道の極意と来たか。ウッヒャッヒャッ!」
一日の営業を終えた夜咄堂に、オリベの甲高い笑い声が響く。
客席で寛ぎながら今日のロビンとの出来事を話すと、オリベは腹を抱えながらひたすらに笑い続けた。
「……あいつ、やっぱり極意なんか知らないんですか?」
「そりゃあそうだよ。茶道具の付喪神だからって、最初から茶道を極めているわけじゃない。
その点、あいつは生まれてすぐに野良犬になったんだから、知っているわけがないさ。
ロビンは犬型で、当然茶道なんかできないから、そこは、まあ、可哀想かもしれんが」
「むう……」
楽しそうなオリベとは対照的に、千尋は口をへの字に曲げる。
行き当たりばったりの言動から察してはいたのだが、改めて『あいつは茶を知らぬ』と言われれば、やはり面白くはない。
「俺、あいつにドーナツも奢らされましたよ」
「ほう。大方、女の子を探しに連れられたついでだろう?」
「当たり。よく分かりましたね」
「その趣味は嫌いではないからね。私もいつか同行したいものだ。ヒャッヒャッ!」
オリベがまた笑う。
だが、今度はその笑いはすぐに引っ込んでしまった。
千尋の隣に座るヌバタマが、嗜めるようにぎろりと睨み付けたからだ。
それを受けたオリベは、大きく開けた口をすぼめて、誤魔化すように口笛を吹き始める。
「まったく、オリベさんったら」
「ははは。まあ、まあ……」
この子も、なかなかに苦労性のようである。
そんな事を思いながらヌバタマをなだめると、彼女は視線を露骨に逸らしてきた。
やはり稽古の件で怒らせたのかもしれない。
だがその割には、顔色には怒気が見られなかった。
「そうそう、まあまあ、そう怒ってはいかんぞ。
それに、良いじゃないか。極意とまではいかないが、千尋は和敬清寂を少し学んだのだから」
「和敬清寂……?」
「うむ。茶道の心得とされる禅語だ」
オリベの口調が真剣なものになる。
千尋も居住まいを正し、頷いて言葉の先を促した。
「和敬清寂とは、調和。敬愛。清廉。静寂……とまあ、そんな言葉の集合体だな。
四文字一つ一つが茶道と深く関わっているのだが、千尋は今日、そのうちの和を学んだのだよ」
「和……調和、ですか。具体的には?」
「うむ。千尋は今日、偶然見つけた野点席で、器の冷たさに感じ入ったそうだね」
「はい。その……」
ちらとヌバタマを横目で見ながら、言葉を続ける。
「……ヌバタマの稽古にも、ちゃんと意味があったんだな、と思いました」
「うむ。その様に相手の意を理解しようとするのが和だ。
ヌバタマも、千尋が店を飛び出した後『どうしたんだろう』とおろおろして、千尋を気に掛けていてな。
結局、いてもたってもいられずに、探しに出かけたのだが、これもまた和だな」
「オ、オリベさんっ!」
今度は声を上げつつ、ヌバタマがまたオリベを睨みつける。
だが、オリベはまるで子供の様にアカンベエを返し、その表情のままで千尋に向き直った。
「千尋や。話の続きだがね」
「真面目な話でしたらその顔は止めて下さい」
「うむ」
止めてくれた。
「この子は確かに付喪神だし、茶道歴も長い。
だが、まだまだ生後十五年。心はそれ相応なのだ。
だから、お前の事情を考えられずに自分の調子で稽古を進めようとした。
お前もまた、ヌバタマの意図を理解しようとせずに、稽古を飛び出した」
「………」
「だが、互いの立場や考え方を理解しようとすれば、つまりは『和』の心があれば、問題にはならなかった。
これが、今日お前が学んだ事だ」
「和、ですか……」
言葉をかみ締めるように何度か頷きながら呟く。
「要するに、相手を気遣えって事ですよね。
話を聞いただけだと、そう難しそうじゃないんですが……」
「ああ。だが実践するとなると、これが極めて難しい。
茶道の極意とは、当たり前の事なのかもしれんな。
当たり前の事を当たり前にこなせてこそ、本物の茶人というわけだ」
「……なんだか、深い話ですね。オリベさん、ただ漫画読んで笑うだけの人じゃなかったんだ」
「そうだろう? 千利休の言葉をパクったからな! ヒャッヒャッヒャッ!」
どうにも、よく分からない人なのであった。
「ま、そう深刻に捉える事はないぞ」
オリベが笑うのを止める。
「二人とも若いんだから、多少の衝突はあるさ。
でも、後からちゃんと相手を思いやったのだから、今はそれで良い」
「……はい」
「ヌバタマは、千尋を心配して探しに出た。
千尋だって、ほれ。あの紙袋こそが思いやりの証だろう?」
オリベが、会計棚に置いた紙袋を指差した。
「そういえばあの紙袋、どこかで見たような……」
「ああ……あれだよ。……海沿いのドーナツ店」
ヌバタマの疑問に、千尋はぶっきらぼうな口調で答える。
同時に、ヌバタマが何度も顔を背ける理由が分かったような気がした。
あれは、やはり怒りではなかったのだ。
今まさに、自分が感じている感情……気遣いからくる照れ臭さなのだ。
「その……稽古抜け出して、悪かったからさ。お詫びにドーナツ買ってきた。
俺とオリベさんが一個ずつ。ヌバタマは抹茶味を二個な」
「に、二個も!」
ヌバタマの声が喜色に満ちた。
対照的に、顔付きの方は神妙で、千尋に折り目正しく頭を下げる。
「お土産、ありがとうございます。
……私もごめんなさい。何か大事な用事があったんでしょう?」
「……そうだな。女の子のナンパ程じゃないけどな」
笑って答える。
だが、行き先は教えない。
他の者ならともかく、オリベとヌバタマに教えるつもりはなかった。
家族を全滅させた茶道に対して、複雑な感情を抱いてる為に、口外したくないという事情はある。
だが、それだけではない。
父の死を未だに悲しんでいると知られると、ヌバタマらが自分自身を責めるのではないか、と千尋は思っていた。
他の家族はともかく、父は茶道具を守って亡くなっている。
その死を自分が嘆いていては、茶道具の付喪神である二人が気に病むかもしれない。
だから、千尋は、笑って答える。
「ほら、ドーナツ食べようよ。コーヒー入れるからさ」
それよりも今は仲直りだ、と千尋は思考を切り替える。
だが、ヌバタマは面白くなさそうに頬を膨らませた。
その行動の意が分からず首を傾げると、ヌバタマはビシッと指を突き立ててきた。
「千尋さん、そこはお抹茶を点てるからさ……でしょう」
「ええっ? 仕事以外では勘弁してほしいんだけれど……」
「日中のお稽古も半端でしたから、その続きにちょうど良いですよ」
「あれ、まだ終わってなかったの?」
「もちろんです。もちろん終わってはいませんが……」
ヌバタマが言葉を切る。
膨らんでいた彼女の頬が、ゆっくりと萎んだ。
「……ドーナツに免じて、それは明日にしましょうか」
ヌバタマは、ようやくにっこりと微笑んでくれた。
やはり、役得かもしれない。
気がつけば、千尋も似た様な笑みを浮かべていた。