第十話『依々恋々 その一』
翌日、夜咄堂一階に募った面々に、明るい表情をする者は一人もいなかった。
オリベは全てを達観したかのように物静かで、普段の騒がしさは微塵も感じさせないし、
ヌバタマは、千尋が夜咄堂の真実を知ったと聞かされてから今に至るまで、ずっと俯いている。
千尋とて不安げな様子は隠す事が出来ず、招集を受けてやってきたロビンは気怠そうであった。
窓から入ってくる、夏の蒸し暑い風も、雰囲気の重さの一因なのだろう。
じわり、と額に浮かぶ汗が、緊張感からくるものなのか、それとも気候のせいなのか、千尋には区別がつかなかった。
「まず、確認したい事がある」
ロビンが到着するや否や、最初に口を開いたのは千尋だった。
二人と一匹の顔をゆっくりと見回し、最後のオリベの所で視線を止め、彼に語りかけるつもりでじっと見つめる。
意味もなく溜めを作ったのではない。
意識してそうしなければ口を噛みそうな程に、千尋は酷い緊張を覚えていた。
水墨画の話を聞いた時には体が震えたが、その震えがずっと体の中で暴れているような気がした。
だが、耳を閉じても事態は改善しない。
それよりは事実を知っておくべきだと、彼は必死に声を絞り出した。
「……次に日々是好日で客をもてなせば、付喪神達は皆現世を去り、天に召される。
それは間違いないよな?」
「うむ」
返事をしたのはオリベだった。
「だとしたら……もてなさなかったら……
お抹茶セットを止めてしまえば、その話はなくなるんじゃないのか?」
「それはそうなのだが、もてなさずにはいられないのだ」
間髪入れずにオリベが首を左右に振る。
「と、言うと?」
「理由は二つ」
「うん」
「いずれも我々の都合ではあるのだが……
まず、日々是好日で客を癒す事は、我々が天に召される唯一の手段なのだよ。
付喪神には、死というものがない。
客を癒さねば、我々は永久に現世で生きる事になる。
まあ、それを良しと考える者もいるかもしれんがね」
「………」
「そしてもう一つ。客を癒す事は、我々茶道具の付喪神の本能なのだよ。
茶を、日々是好日を必要としている人間がいれば……我々は、どうしても癒したいのだ」
「……どうやら失礼な提案をしたみたいで」
その理由を聞かされては、千尋に口を挟む余地はなかった。
「いやいや、千尋が謝る必要は全くないよ」
オリベは淡々と言ってのける。
だが、そこへロビンが口を挟んだ。
「おいおい、待ってくれよ。例外ってもんを忘れないでくれよ」
「ロビン……どうした?」
「おう、いいかよく聞け千尋。
俺は茶道具としての本能が薄いんだよ。だから夜咄堂でも働いちゃいねえ。
天に召されるなんてまっぴらごめんだぜ? もっとJCと遊びたいんだよ」
「そう言えば……お前だけ残るとかできるのか?」
「いや、できねえ。その時夜咄堂で管理している茶道具の付喪神は皆召されちまう。
だから俺は反対だぜ。まだまだ遊び足りないんだ」
ロビンがワンワンと騒ぎ立てながら主張する。
普段なら流してしまうロビンの言葉だが、この日ばかりは千尋も、ロビンの一言一句を噛み締めた。
(……そうだ。俺も反対だよ)
心から、強くそう思う。
唇の内側を、人知れず噛み締めた。
付喪神達のお陰で、茶道に興味を持てた。
付喪神達のお陰で、孤独ではなくなった。
気が付かないうちに、彼らの存在は千尋にとって欠かせないものになっている。
そんな付喪神達との別れの辛さだけではなく、やり場のない思いも千尋を苦しめていた。
最後の客を迎えるのに反対ではあるが……こればかりは主張するわけにはいかないのだ。
それは決して、付喪神の反応を気にするあまりの事ではない。
オリベの話によれば、これが付喪神が天に召される唯一の手段なのだ。
すなわち、最後の客を迎えないのであれば、付喪神に半永久的に現世で働いてもらうという事を意味するのだ。
同じ付喪神のロビンからならまだしも、結局は他人である千尋からは、到底口にできない提案だった。
「なあ、ヌバタマはどうなんだ?」
不意にロビンがヌバタマに話を振った。
「お前さんも、この世に未練があるだろ?」
「………」
ヌバタマが、ふっと、思い出したように顔を上げる。
「この間俺がエサ貰いに行った時に、話してくれてたじゃないか。
映画、凄く楽しかったって。
もっと面白い所に行ってみたいって。
千尋と出かけたいって、言ってたじゃないか」
「!!」
千尋は思わず息をのんだ。
彼女は、その様な事をロビンに話していたのだ。
感情を吐露した翌日の映画に対して、そうも思ってくれていたのだ。
ならば……。
それならば、ヌバタマの答えは分からない。
現世を、夜咄堂での生活を選んでくれるかもしれない。
千尋は、胸が強く高く鼓動するのを自覚しながら、答えを求めて視線をヌバタマに向ける。
その先にあるヌバタマの黒い瞳には……強い意志を感じさせる光が差していた。
「ロビンさん」
ヌバタマが、静かに口を開く。
「これは私達の定めです。
最後のもてなし、賛成に決まっているではありませんか」
ヌバタマは、一切の躊躇なくそう言い切った。
第十話『依々恋々』
「はぁーん、やだやだやだやだ。やだーーっ!」
ロビンが煩い。
彼が庭先で駄々っ子のように体を転がすと、ただでさえ土埃で汚れている体は、まるで泥団子のような様相を呈してきた。
草花のない所で転がっているだけまだマシかもしれないが、どうにも視界に入って鬱陶しい。
気分転換で庭に出てきた千尋にとっては実に迷惑な存在なのだが、
この犬と顔を合わせる機会もあと数回、下手をすればこれが最後かもしれないとも思えば、
流石に追い払うような真似はできなかった。
「なんだよ、まださっきの話か?」
千尋は呆れた様な声を投げかける。
「おう。それ以外になにがあるってんだよ」
「俺はその話題、暫く忘れたいんだけどな」
「現実逃避はよくないぜ? ちゃんと正面から捉えなきゃ」
つい先程まで駄々を捏ねていたくせに、鼻を鳴らして偉そうにのたまう。
思わずしかめっ面になってロビンを睨みかけるが、確かにロビンの言う通りでもある。
首を左右に振ってやり場のない感情を発散し、千尋は庭の一角にある池の傍まで歩いた。
澄んだ池の中では、色取り取りの水中花が雄々しく生息している。
夏の熱風がどれだけ厳しくとも、水の中ならば、文字通りどこ吹く風なのだろう。
「おやおや。俺がいなくなるのがそんなに寂しいか?」
ロビンもようやく転がるのを止めて、千尋の傍に歩みながら声をかけてくる。
「アホ」
「つれない奴だなあ。俺はお前の事嫌いじゃないってのにさ」
「どうせ、たまにドーナツ買ってくれるからだろ?」
「ご明察」
楽しそうにひっひっ、と息が詰まったような笑い声を漏らす。
思えば、この犬は出会ってから今に至るまで、一度もおどけた態度を崩していない。
オリベでさえ、茶道に関わる話になれば真剣になるというのに、ロビンは一貫してこのままだった。
「……お前は、毎日楽しんでるなあ」
「おう。楽しい事したくて夜咄堂を出たからな。そう宿命づけられてるんだよ」
「宿命……?」
「そうそう。なんせ俺は……あーーっ! 噂をすれば!!」
ロビンが唐突に喚いて、庭の隅で頭を抱えた。
「な、ななな、なんじゃああああこりゃあ?」
「煩いぞ。どうした?」
呆れつつも彼の付近に目を凝らせば、土瓶が乱雑に転がされていた。
その様たるや、奇遇にも泥の中で転げ回ったロビンと瓜二つである。
「その土瓶、お前なんだっけ?」
「そうだよ! あーあー、あー! なんでこんな扱いなんだよ!」
「お前が『適当に使って良い』って言ったんじゃないのか?
オリベさんからそう聞いた記憶があるぞ」
「適当って言ったって、程度ってもんがあるだろうによお!
由緒正しき星野焼が台無しだぜ。トホホ……」
「星野焼……聞いた事がないな」
「ああ。さっきの宿命にも関わるんだがよ……」
ロビンが土瓶を鼻で起こしながら、力ない声で語り始める。
「福岡は八女。その名の通り美しい星が見える山村、星野村。
そこで江戸時代に焼かれた夕日焼の土瓶。それこそが俺なんだ」
「夕日焼? さっきは星野焼って言ったよな」
「星野焼の別称みたいなもんだ」
ロビンが、まだ星も夕日も見えない昼空を見上げながら言う。
「星野焼には夕日が浮かび上がるんだよ。
酒を注ぎ込む事で、土色の濃い器が輝き、それは夕日のような黄金色と化す。
そうして酒まで黄金のように輝いて見えるって寸法なんだな。
金の酒だぜ? 考えるだけでワクワクしてこないか?」
「酒は飲めないけれども、なんとなくは伝わってくるよ」
「だよな、だよな。
黄金の酒……まるで『楽』という漢字を凝縮したようなもんだぜ。
そんな星野焼だからこそ、俺みたいな道楽者が生まれたって寸法よ」
「ふむ……つまり、お前は茶器としての使命よりも、現世を楽しむという焼き物の成分が強いって事か」
「そういうこった。残念ながら俺は単に星野で焼かれた土瓶なんで、夕日を作り出せはしないんだよ。
それでも同じ土を使っているからな。この世を楽しまずにはいられないんだ。
……千尋。そこん所、お前はどうなんだ?」
「と言うと?」
発言の意図が分からず、ロビンの問いを繰り返す。
「俺は、楽しみたいという本音を隠さずに生きている。
だが、お前は……どうなんだ?
さっきの席で、お前の本音……そもそも意見というものを聞かなかった気がするが?」
「………」
意外と、注意力がある犬だった。
ロビンの言う通り、自分の本音を抑え込んでいる。
今度ばかりは、そうするより他ない。
そう思い込んでいたのだが……
(……本音、か)
ロビンから視線を外して、池の前に屈み込む。
ふと、足元に小石が落ちていたのに気が付いて、それを拾い上げると、おもむろに池に投げ込んだ。
落下地点から広がり、水中花のせいで微妙に歪む波紋を眺めていると、その波紋の中心にヌバタマの姿が浮かんできた。
無論、幻想だ。
だが、無意識のうちに彼女の顔を思い浮かべているのだ。
それを自覚すると、胸が苦しくなった。
付喪神がいなくなるのは、千尋にとって好ましい事態ではない。
働き手がいなくなるのだから、夜咄堂はおそらく畳まざるをえないだろうし、
ようやく興味が持てるようになった茶道も、教えてくれる人がいなくなる。
それに、父を亡くした直後の様に、また一人暮らしに戻ってしまうのも辛い。
付喪神には他に選択がなく、引き留める事ができないのも苦しい。
だが、いずれも千尋をもっとも苦しめる問題ではない。
ようやく、その事実に気が付けた。
この苦しみの大元にいるのは、ヌバタマだ。
もう二度と、彼女と会えなくなる。
その喪失感は急激に強まり、みるみるうちに千尋の心を支配していった。
(……どうして、ヌバタマがいなくなると苦しいんだろうか)
どうして、こうも苦しいのか。
何故、こうも寂しく感じるのか。
……これまでにも、別の問いからその『答え』を想起した事はあった。
ただ、その都度様々な可能性が邪魔をして『答え』には辿り着けなかった。
それでも。
それでも、今回は違う。
別れ際という状況が、自分を開き直らせてくれたのだろうか。
或いは、心中で絡み合った糸を、たまたま解しきれたのだろうか。
理由までは分からずとも、千尋はようやく『答え』に到達できた。
(本当は、自分でも薄々分かってはいたさ)
すっと立ち上がる。
天を仰げば、視界は雲一つない碧空に覆われている。
相変わらず猛威を振るう日光に、額にはじわりと汗が滲んだ。
(そう……分かっていた。
……俺、ヌバタマの事が好きなんだ)




