第六話『置筒竹花入 その三』
水谷が夜咄堂に来たのは、ちょうど一週間後の、暑い昼下がりだった。
こうも暑いと常連客の足は遠のくばかりだし、多少入り組んだ所に店がある為に、偶然見かけて涼みにくるような一見客もいない。
今日も、客は午前中に二組に来ただけだ。
こんな日なのだから、おそらく午後になっても水谷は来ないだろう。
そう高を括っていた為に、麦わら帽子を被った水谷が玄関を開けた時は、千尋は酷く慌ててしまった。
「や……これは……いらっしゃいませ。すみません、準備が……」
「あら。今日はまだ開店していなかったの?」
「ああ、えっと、店の事ではなく……と、とりあえず席へどうぞ。冷たい水をお持ちします」
そう言って水谷を中へ案内しつつ、オリベに目配せをすると、千尋の意を察した彼は二階へと上がっていった。
茶室の準備は、このままオリベに任せておけば問題ないだろう。多分。
安堵した千尋が水を運んでくると、水谷は窓際の席に座っていた。
窓を開け放ってはいるものの、今日は殆ど無風で、極楽の余り風に期待はできない。
それどころか、窓際の席は少々日差しが厳しく、むしろ寛ぐには適さない席だ。
それでも彼女が窓際に座る理由は、一つしか思い浮かばない。
彼女は、山野草を眺めるのが本当に好きなのだろう。
「今日も茶花目当てですか?」
ことり、と音を立てて水の入ったグラスを置きながら尋ねる。
「ええ。……あ、ううん。もちろんお店の食べ物や、千尋君とお話する事も楽しみよ?」
「それはありがとうございます。……ところで、その食べ物なんですが、今日はお勧めがありまして」
「何かしら」
「宜しければ、二階でお抹茶セットでも如何ですか?
お茶ですから当然暑くはありますけれど、意外とすぐに冷えるものですし、茶花も飾っていますよ」
「お抹茶……」
水谷はぽつりと呟くと、千尋の顔を見上げてきた。
眼鏡の奥の目尻が、すぐに下がる。
麦わら帽子を脱ぎながら、水谷は小さく頷いた。
「それじゃあ、一服頂こうかしら」
「では、こちらへ」
水谷を連れて階段を軋ませると、階上からは釜が煮立つ音が微かに聞こえてきた。
茶室へと入れば、部屋の隅に備えられた釜の隙間から、湯気がほっそりと伸び始めている。
毛氈も、掛け軸も、そして掛け軸の下に飾られた『今日の』主役である花と花入れも、準備は万全だ。
おそらくオリベは、準備を終えて、隣の水屋に控えているのだろう。
手早く用意できる電気炉を用いた事を差し引いても、この短時間で見事なお手並みという他なかった。
「どうぞ、中へ」
水谷を毛氈の上に案内してから一度退出すると、案の定水屋にはオリベがいた。
言葉は交わさずに親指を突き立てあって挨拶を交わしてから、必要な茶道具だけを手にし、もう一度茶室へと戻る。
入室の挨拶を交わそうと座した所で、水谷が全くこちらを見ていない事に気が付いた。
(……心、ここにあらず、って所か)
内心苦笑しながら中に入る。
視線を花に奪われていた水谷は、それでようやく千尋に気が付いた。
「あら、千尋さん。ごめんなさい、お花に見入っていて……」
「いえいえ、お気になさらないで下さい」
優しく笑いながら茶道具を風炉の前に置き、千尋もまた掛け軸の下に視線を移す。
「今日のお花は……わざわざ説明するまでもありませんかね」
「ふふっ。ワレモコウね。お庭に咲いていたものかしら」
「ええ。オリベさんらが毎日お世話していたものです。茶席に飾ったワレモコウも悪くはないでしょう?」
「そうかもしれないわね。花入れに飾ると、また違って見えるわ」
「その花入れは、置筒竹花入と言います」
昨日覚えたばかりの花入れの名を口にする。
竹製の相当すすけた花入れだが、それも当然の事。
オリベから聞いた話によれば、桃山時代に作られた四百年物で、この店一番の古株の茶道具なのだ。
花入れの正面には、鉈で垂直に切り落としたような跡があった。
なんでもこの跡が、置筒竹花入の見所らしいのだが、千尋には良さが分からない。
その為に、この先の役目はオリベに頼んでおり、背後から折良くオリベの声が聞こえてきた。
「ようこそいらっしゃいませ」
「オリベさん。どうもお邪魔しています。素敵なお花に花入れね」
「ヒャッヒャッヒャッ! そいつはどうも。特に花入れには、少しばかり逸話があるのですよ」
「どんなお話かしら?」
「興味があらば、お話しましょう」
オリベが小さく頭を下げ、正座したままでずいと茶室内に入ってくる。
「実はその花入れ、桃山時代の武将が作ったとの逸話が残っているのです。
残念な事に武将の名前までは伝わっておりません。
ですが、逸話は事実。その証拠が、花入れの正面の切り落とした跡ですな」
「この跡が……?」
水谷はまじまじと切り落とした跡を見つめる。
「普通の茶人であれば、このような武骨な面は造らないでしょう。
戦の一端が焼き付けられたような、この豪快な切り落としこそが、戦場を駆け回った者の証。
他には一切の飾り気がない、文字通り竹を割ったような潔さの花入れです。
……私はこの、武将の魂が具現化されたような花入れが大好きでしてな。
見ているだけで活力を分けてもらえるのですよ。
戦場を生き抜き、動乱の世を駆け抜けた生命力が、この跡には宿っている気がするのです」
「なるほ……」
水谷の言葉が、掻き消された。
いや、千尋がそう錯覚しただけなのかもしれない。
なにせ、オリベの解釈と同時に茶室が眩い閃光で満たされ、一瞬ながら気が遠のいたからだ。
この『力』を受けている彼女も同じ感覚を受けているのだろうか、と思いながら水谷を強く見つめて、視界を整える。
日々是好日。
その力を認識しながら目にするのは、これが初めてだった。
「……我も、こう、ありたい」
揺らぎと閃光が収まるのと入れ替わりに、水谷はそう呟いた。
自身の言葉を噛み締めるような、ゆったりとした、だが力強い言葉だ。
「ワレモコウの名の由来ですな」
「山野草、好きですから」
水谷は笑顔で頷く。
胸に両手をあてがいながら、彼女は更に言葉を続けた。
「こうありたい……の『こう』とは、一体何を指しているのかまでは分かりません。
もしかすると、見る者それぞれの心の中に答えはあるのかもしれませんね。
……そうだとすれば、私は今、こう感じたのです。
私も、こうありたい……この花と、花入れのようにありたい……」
言葉に溜めを作りながら、水谷は千尋の方をを向いた。
眼鏡の奥に潜む水谷の瞳は、発せられた言葉同様に、爛々と輝いていた。
「生命力に満ち溢れるこの花のように、強く生きたい。
そして、この花入れを作った武将のように、躍動したい。
もっと、もっと体を強くして、いつかは山野草を見に行きたい。
……千尋君、オリベさん。ありがとう。なんだか元気が出てきたわ」
「……それは、良かったです」
微笑みを返しながら、ちらと席主のオリベを見る。
茶の良さを深く認識できる能力、日々是好日の存在を認識すると共に、千尋は内心でその能力に舌を巻いていた。
ただ自分が説明しただけでは、これ程の感動を水谷に与える事は叶わなかったであろう。
この男達、付喪神との生活が日常と化した為に錯覚していたが、やはり彼らは人ならざる存在なのだ。
人智を超えた存在と能力。
千尋にとっては、それは謎に満ちつつも、実に頼もしいものだった。
「……さて、一服差し上げますね。お茶席はここからが本番ですよ」
釜の方を向き、気持ちを落ち着ける。
千尋の前では、どっしりとした姥口釜が、物言わずに居座っている。
しかしながら、蓋の隙間から立ち上る湯気は、まるで自身の出番をせがむかのようだった。
◇
水谷が帰ったのを見届けると、千尋は二階の水屋に向かい、今日使った茶道具を洗い始めた。
釜や茶碗といった、洗っては拭くだけの茶道具は、清めるのに然程手間はかからない。
面倒臭いのが、抹茶の入っている棗の手入れだ。
何よりも、抹茶を元の容器に戻すのが面倒臭い。
茶漏斗を使って、零さないよう慎重に戻す……そんな時に、不意に背後から肩を叩かれた。
「ち、ひ、ろ、くんっ!」
「のわっ!??」
思わず手にしていた容器をひっくり返しかけるが、辛うじて落とさない。
あからさまに眉を顰めながら振り返れば、そこにいるのは案の定オリベだった。
千尋のしかめっ面に恐縮する様子もない彼は、にやにやと笑いながら、板張りの床にどっしりと胡坐をかいた。
「今日の茶席、なかなか上手く出来たじゃないか」
「……それはどうも」
素直に頷いた後で、以前の自分ならば、頑なに否定していたかもしれないと思う。
難色を示す程でもなくなったのは、やはり茶道に取り組もうと思うようになったからだろう。
そこまで考えて、千尋はふと、思い至った。
「……ところでオリベさん。一つ聞きたい事があるんですが」
「ほう、何かね? 遠慮なく聞いてみたまえ」
オリベが膝の上で頬杖を突きながら頷く。
「さっきの日々是好日で、水谷さんが感動してくれましたよね」
「そうだったね。上手く感じ入ってくれたようで良かったよ」
「そこなんです」
茶漏斗を手離し、オリベの瞳を真剣に凝視する。
オリベの瞳に自分が写っている事を視認しながら、千尋は更に話を続けた。
「日々是好日は茶道の良さを感じられる能力……との事ですけれど、茶道の良さって、一体何なんでしょう?」
「………」
「水谷さんも、そして以前オリベさんと茶室でご一緒したシゲ婆さんも、茶道の良さを感じてくれました。
自身の境遇に適した感銘を茶道具から受けた……それは分かります。
他にも、良い所が山ほどあるのも、ヌバタマから聞かされましたし、分かります」
「……ふむ」
「……でも、俺自身が、それらを良いと感じた経験は、ないのです。
教えて下さい。茶道の良さとは……そして、それを感じるには、どうすれば良いのでしょうか」
「答えるのは、容易い問題だ」
オリベが、普段よりも低い声で言う。
胡坐に頬杖という自由極まりない恰好ではあったが、声色には真剣味が篭っていた。
「……だが、おそらく私が言葉で説明しても、やはり納得はできんだろう」
「なら、どうすれば良いかだけでも」
「茶を点て続ける事だな」
オリベはあっさりとそう言ってのけた。
「教えておこう。良い茶人の席であれば、日々是好日は使う必要がないのだよ。
それは即ち、能力を使わずとも、客に茶の良さを感じ取って貰えるからだ。
あの能力は、確かに客の感受性を豊かにする。だが、茶席の本質を変化させるものではないのだ」
「つまり、俺が良い茶人になれば、自ずと良さを悟れると?」
「左様」
「………」
千尋は、沈黙した。
オリベの言っている事は理解できるのだが、やはりまだ漠然としている。
何を以てすれば、良い茶人となり得るのだろうか。
それに、基礎の基礎を学んだばかりの自分が、それ程の域に達するには、どれだけの年月を要するのか。
いずれも霧の中を模索するような話である。
だが、珍しく教えてくれたオリベに不満を口にするのは憚られて、疑問を吐露できない。
そうして、気難しい顔をしながら黙り続けていると、オリベがまた肩を叩きながら立ち上がった。
「強いて助言をすれば、千尋はもう、その答えを知っているはずだ。
単に経験が少なく、身に付いていないだけだ」
「俺が……知っている?」
「だから、深く案ずる事はない。ただ茶の道を歩き続ければ、自ずと掘り起こせるさ」
その言葉に、幾らかの安堵を覚える。
ひたすらに取り組めば行き当たるのならば、考える方で頭を悩ませずに済む。
それはそれで良いとして、オリベが自分の不安を読み当てたのには、内心舌を巻いた。
「……オリベさん、時々俺の心を読みますよね」
「何年生きていると思っておる。若造の考える事くらいお見通しよ。ヒャッヒャッヒャッ!」
相変わらずの甲高い笑い声。
だが、癪な笑いではない。
むしろ今回に限っては、凝り固まっている頭を解して貰った気がした。
オリベの言う通りならば、随分と気は楽になる。
仕方なし。
千尋の口の端は、そう物語らんばかりに緩んでいた。
「ま、そういう事だ。精進したまえよ」
「……それしかないようですね」
「私も漫画にでも精進してくるとしよう。ヒャッヒャッ!」
オリベはそう言い残すと、袴の埃を払いながら階下に去って行った。
千尋も立ち上がり、階段の傍まで歩いて彼を見送る。
オリベの姿が見えなくなり、水屋に戻ろうとした所で……千尋は足を止めた。
(あれ? 今……)
今、目に入った光景に何か違和感があった。
顔を動かさず、眼球をぐるぐると回して視界を隅々まで舐めまわすように見る。
とはいえ、然程物が置かれていない廊下だ。
違和感の答えは、すぐに見つかった。
(この水墨画……)
千尋の目は、茶室の上に飾られた水墨画で止まった。
色が薄い為に、何の絵なのか分からなかった水墨画の色味が、今では濃くなっているのだ。
濃くとはいっても、まだ純粋な墨汁で描かれたほどの濃さではないが、何が描かれているのかは辛うじて理解できる。
野山と思わしき場所を、数名の人間らしき生物が昇っている絵だ。
水谷にも、このように歩いてほしいとの意を込めて、オリベが入れ替えたのだろうか、と千尋は考えた。
(……いや、でも、茶席でこの水墨画の話はしなかった。
特に意味もなく、水墨画を変えたんだろうか。
そうだとしても、薄くて良さが分かりにくいな……)
暫しオリベの意図について考え込んだ後、千尋は肩を竦める。
先程、茶の道を歩き続けば行き着くと結論付けたばかりの事だ。
「……そのうち、この水墨画の良さも、分かるのかもな」
自分に言い聞かせるようにそう呟き、千尋は水屋へと戻って行った。