第五話『七月三重殺 その二』
尾道の商店街に並ぶ店々は、衣料品や日用品の個人経営店が多い。
それらの店は仕事と生活が密着している為に、陽が落ちれば早々とシャッターを降ろす所も多く、
初夏の月明かりが港町を照らす頃には、商店街はじわじわとその形姿を変えていた。
夜に姿を変えるのは、店舗だけではない。
雑踏と共に町を歩く人々の顔ぶれは、地元の者よりも観光客が多かった。
夜の商店街を歩く人々は、昼の人々と比較すると、意気揚々と町を闊歩している。
皆、観光地の夜に気分が高揚しているのだ。
気温は徐々に高まっていて、夜とはいえ、静かな熱気が身体に纏わりつくのだが、
その熱気もまた、彼らの気持ちを昂ぶらせているのだ。
観光地とはいえ、田舎町でもある尾道では、人々の夜の行き先は決まっていた。
居酒屋、もしくは食事処。この二つに絞られる。
その中でも、特に多くの人が向かっているのが、食事処……それもラーメン屋である。
醤油と瀬戸内の魚のダシで作ったスープに、背油が大量に浮かんだ尾道ラーメンこそが、この町最大の名物だからだ。
店によっては、店外に長蛇の列を成す事もあるのだが、決して名ばかりの名物ではない。
さらりとした舌触りながら、濃厚な味を口内に広げてくれる尾道ラーメンは、
地元の者もしばしば好んで食べており、千尋や岡本も例外ではなかった。
「……で、なんで私達も誘われたんでしょうか?」
商店街の端に位置する、カウンター席オンリーの狭いラーメン屋『しげ』。
その店の暖簾を始めて潜ったヌバタマは、割り箸を手に取りながら、感じていた疑問を口にした。
彼女の表情には戸惑いの色が浮かんでいるが、仕方がないかもしれない。
なにせ、ヌバタマと一緒に外食をしに出かけるのは、これが初めてなのだ。
付喪神は、食事を摂ろうが摂るまいが活動できる。
ただ、味覚は存在しており、食事の喜びを感じる事はできるので、日々の三食は千尋と共に摂っていた。
誰かと一緒に食べる方が、千尋としても楽しいのだ。
ただし、それはあくまでも家庭内での話だ。
これまで付喪神達と外食をした事がなかったのは、難問を解決できなかったからに過ぎない。
それ即ち、金銭事情。
頭の痛い問題は、いつでも千尋について回るのであった。
「俺だけ良い物食ってちゃ、気が引けて旨く感じられないんだよ」
手をひらひらと躍らせながら、離れた席のヌバタマに返事をする。
彼女との間には、オリベと岡本が座っていた。
「でも、お邪魔しちゃって申し訳ない気もしますが……」
「良いって良いって。岡本さんも、賑やかな方が良いって言ってくれてるし」
「もぐもぐっ……そうだぞヌバタマ。食べないというのなら……もぐ……お前の分は私が貰うが? ぷはあっ!」
間に座るオリベが、先に出てきたチャーシュー麺大盛り、餃子、生ビールを胃に叩き込みながら言う。
あまりにも激しい大喰らいっぷりに、千尋とヌバタマはただ唖然とするばかりだったが、
同じく生ビールを煽っていた岡本は、楽しそうにオリベの背中を平手で叩いた。
「はっはっはっ! オリベのおっちゃんは面白いなあ!」
「ヒャッヒャッヒャッ! そうだろう、そう……んぐっ!? ゲホ、ゲホッ!! く、苦しい、叩かな……」
「はっはっはっはっはっ!!」
「んぐ、んぐぐぐぐーっ!!」
「はははははっ!」
「おっちゃんと姉ちゃん面白いなあ!」
二人の掛け合いに、居合わせた他の客が笑い声をあげた。
十人も入りきらない狭さの店なだけに、その笑い声は壁に響いてこだまする。
気が付けば、他の客のみならず、千尋やヌバタマも笑っていた。
暖かな、実に暖かな空気であった。
「お待たせしました。尾道ラーメンです」
そこへ、店員がラーメンを持ってくる。
中学生くらいの顔付きの、大人しそうな少年だった。
「はは……あ、そこに置いといてくれるかな」
「はい……のわあっ!??」
店員の声がひっくり返った。
ひっくり返ったのは店員の声だけではなく、ラーメンの器であり、そして……
「わわっ!??」
慌てて身体を捻ったのが功を奏し、正面からのラーメンの直撃というみっともない姿は免れた。
だが、千尋を守るようにしてラーメンに向かい合った上着の裾が、ぐっしょりと濡れてしまう。
上着の下に着ていたTシャツ越しに、熱気と湿気がじわりと漂ってきた。
「も、もも、申し訳ありません!!」
「ああ、良いよ。ええことよ。おしぼりだけ、もう一つ貰えるかな」
猛烈な勢いで謝る店員の言葉を制し、苦笑しながら人差し指を立てる。
店員は言葉を失ってしまったようだが、今一度なよなよと頭を下げ、店の奥へとおしぼりを取りに行ってくれた。
これ位の幸薄には慣れているし、『しげ』の店員に必要以上に気を遣わせたくはなかった。
この店は、千尋と全く無関係ではない。
接点は、カウンターの奥にいる店主だった。
「千尋ちゃん、ごめんよ。本当に大丈夫かい?」
「気にしないでよ、シゲ婆さん。洗濯すれば良いだけだし」
「でもねえ」
「じゃあ、また今度夜咄堂に来て、お茶を飲んでくれるかな。そのお返しが一番嬉しいよ」
「……千尋ちゃんは、ほんに良い子ねえ」
カウンターの奥で調理に勤しんでいた店主、シゲ婆さんは、顔の皺をくしゃりと歪めて微笑んだ。
「さっきの店員さん、随分幼いですね。お孫さんですか?」
オリベを叩くのに飽きた岡本が、シゲ婆さんに尋ねる。
「そうだよお。浩之と言ってね。まだ中学三年生なのよ」
「じゃあ、お店の手伝いなんだ。偉いなあ」
「手伝いというよりは、修行かねえ」
シゲ婆さんが、微かに目を細める。
「まだ先の話だけれどね。高校を卒業したら、お店を継ぎたいと言ってくれているのよ。
だから、今のうちにお店に慣れさせようとしているんだけれど……」
「まだまだこれから、と?」
「そういう事。おっちょこちょいでねえ」
「……へえ」
そう呟いたのは千尋だった。
シゲ婆さんとの間に広がっているラーメンの湯気を眺めながら、感慨深そうに頷く。
ほんの少しだけ、浩之という少年に興味が湧いた。
千尋の場合は、成り行きで夜咄堂を継いでいるので、動機や意気込みは全く異なる。
しかし、若くして店を預かるかもしれないという立場には、少なからず親近感を感じる事が出来た。
浩之少年も、奮闘している。
同じ未成年ながら、店を預かろうとしている。
ラーメンの湯気の中に、浩之少年が映ったような錯覚を覚える。
だが、その浩之少年はすぐに、茶筅を振る自分へと姿を変えていった。
(い、いや……何を考えているんだ、俺は。店の経営だけならともかく、茶道まで頑張らなくても……)
慌てて、ぶんぶんと顔を横に振る。
一体何事なのかと横目で見やるヌバタマらの視線が、少しだけ痛かった。
「だけどねえ。心配はしとらんのよ」
シゲ婆さんが、新しく麺を茹でながらしみじみとそう言う。
続けられた言葉に、千尋はまた視線をシゲ婆さんへと移した。
実に穏やかな……初めて千尋が点てた抹茶を飲んだ時のような、優しげな顔が、そこにはあった。
「祖母馬鹿かもしれんけれどね。
あの子は……ちゃんとやれるようになるよ」
◇
岡本との食事は、ラーメン屋の一軒で終了した。
調子に乗ったオリベが、居酒屋への梯子を提案したのだが、一行の中には未成年及び外見未成年が若干名いる。
提案をあえなく却下され、なおも駄々をこねようとするオリベは、ヌバタマに引きずられて夜咄堂へと帰って行った。
一方の岡本は、飲酒量が多少嵩んだ為に、海沿いで風に当たって酔いを醒ますと言い出した。
その話を聞いて、岡本を一人にする程、千尋も薄情ではない。
構わないで良いから、と苦笑して断る岡本に強引に付き添い、二人は酔っ払いが路上に正座する夜の商店街を歩いて、波止場に向かった。
「いやあ、それにしてもオリベさん、随分食ってたなあ」
歩き出してすぐに、岡本が口を開く。
「ラーメン替え玉三杯に、ビールも三杯だっけ?
締めにおにぎりまで頼んで、人間の胃袋じゃないみたいだなあ」
「いやはや……全くです」
歯を見せながら苦笑いをする。
付喪神の胃袋です、とは言えなかった。
「……で、どうでした? 気分転換とやらは出来ました?」
「ん? ……うん、一応は出来たよ」
岡本の返事は暗い。
彼女の眉は微かに顰められていた。
「出来たけど……良い作品が作れる気はしないな」
「そう簡単にはいかないものですね」
「結局、飯に付き合ってもらったばかりで悪かったな。……あ、煙草良いか?」
「またですか。どうぞ」
「飯の後には欠かせないんだよ」
手の甲を前面にしたVサインを作って笑いながら、V字の上に煙草を添えて火を付ける。
千尋と岡本、二人しか歩いていない夜の商店街に、煙草の火の明かりが灯った。
岡本の体が歩行運動で揺れるたびに、蛍のような明かりもまた上下運動を繰り返す。
「千尋。お前、良い奴だよな」
「……突然何を言い出すんですか」
全くもって不意打ちの一言だった。
一瞬口籠ってしまい、生じた間の後に絞り出した声は、どこか早口になってしまう。
「いやさ。殆ど面識のない先輩の飯に、文句も言わずに付き合ってくれてるじゃん」
「文句を言えば、付き合わずに済んだんですか?」
「いや、言おうと言うまいと付き合わせた」
横暴なのである。
「……でも、なんで俺なんです? 昨日の友達もいるじゃないですか」
「恵の事だね。確かに恵は友達だけれど……今回は、お前が陶芸サークル部員だから、付き合ってもらったんだよ」
岡本が煙草を一気に吸い上げ、短い煙草は瞬く間に燃えカスと化した。
それを上手に携帯灰皿で救い上げた彼女は、真っ直ぐに前を向きながら言葉を続ける。
「あたしさ。子供の頃から陶芸やってたのよ。
両親がどちらも陶芸家でさ。ああ、別に跡を継ぐ為強要されてたんじゃないぞ。
そこは自分からだな。働く両親の姿に憧れて、自分から轆轤を回したいと言い出したんだよ」
「サラブレッド、って奴ですね」
「……どうだろうだな。
ただ、両親が作る器は間違いなく凄かったよ。陶芸で飯も食えていたのが、本物の証さ。
あたしだって、先々はそうありたいと思っている。それで、かれこれ十年は陶芸尽くしの日ってわけ。
……友達と擦れ違い続ける十年でもあったけどね」
千尋の心臓が、小さく、だが強く鼓動した。
危うく漏れる所だった吐息を口の中で押し殺し、首を横に向ける。
隣を歩いている小柄な先輩が、更に小さく見えたような気がした。
夜の商店街には、二人の靴が地面を叩く音だけが鳴り響いていた。
「とんでもなくマイナーな世界だからね。陶芸をやる友達なんか一人もいなかった。
恵みたいな普通の友達はいっぱいいたよ。決して友達自体がいないわけじゃない。
でも、同好の士はなし! 中学、高校、大学に入ってもなし!」
「大学も……ですか。俺が入部する前も、陶芸サークルでは一人だったんですか?」
「そうだよ。……だから、陶芸で繋がった友人は、千尋が初めてなんだよ」
岡本の声がにわかに高くなった。
それだけで彼女の機嫌の良さが窺い知れる。
対照的に千尋は、気まずさのあまり視線を落としてしまった。
喜んでくれている所に申し訳ないのだが、自分は幽霊部員なのだ。
陶芸に全く興味がない、ただの頭数なのだ。
「あの……」
「分かってるよ。興味がない幽霊部員だってんだろ?」
岡本は、そう言いながら前へと駆け出した。
いつの間にか二人は商店街を抜けていて、彼女の前には防波堤が広がっていた。
夏の海の潮風を感じられる位置まで駆けた彼女は、くるりと踵を返す。
「それでも、良かったんだ」
海を背景に、岡本は笑った。
潮風に吹かれて消えてしまいそうな、寂しい笑みだった。
「……岡本さん」
千尋は岡本を見据えた。
彼女の寂しげな姿には、見覚えがある。
記憶残っている、一番古い光景。
そして、自分の行動原理となった光景。
岡本の姿が、母の葬儀の日に見た父の姿と、ダブって見えた。
力になりたい。
その場だけの言葉ではなく、行動で彼女を激励したい。
感情がふつふつと沸き立つのが、自覚できた。
サークル活動に参加するようになれば、おそらくは喜んで貰えるだろう。
だが『同志』にはなれない。
それだけでは、本気で何かに打ち込む者として、彼女の熱意を理解してあげられない。
(俺が打ち込める事……)
千尋は僅かに顔を伏せる。
一つだけ、思い辺りがあったのだが、それで良いのかと自分を制止した。
茶道。
シゲ婆さんらを笑わせ、一見しただけでは分からない秘めたる魅力を持つ文化。
夜咄堂での日々の中で、茶道に対する興味は、日に日に膨らんでいた。
そしてそれは、千尋の家族を全て奪った文化でもある。
好悪入り混じった複雑な感情は、未だに解き解す事が出来ない。
だが。
だが、と千尋は思った。
何かに打ち込む事で、彼女を元気付ける事ができるかもしれないのだ。
誰かが笑ってくれるのなら、本懐だ。
そう誓ったのだ。
宜しい。
構わない。
取り組んでみようはないか。
――茶道、やってやろうではないか。
「……その。俺、上手く言えないんですけれど」
真っ直ぐに、力の篭った瞳で岡本を見つめる。
彼女もまた、千尋の瞳を見返してくれた。
「頑張りましょう。お互いに」
「お互い?」
「お互いです」
一度、言葉を切る。
「陶芸サークル、俺、ちゃんと行きます。
でも、岡本さんの熱意までは理解してあげられないかもしれない」
「千尋……」
「できる事なら、熱意まで理解したいんです。
道は違っても、何かに打ち込んでいる者同士でありたいんです。
岡本さんはもちろん陶芸。そして俺は……茶道かな、と」
いざ最後の一言を口にすると、胸が痛んだ。
これから自分は、家族を奪った茶道に打ち込むのだ。
だがそれは、決して岡本を理解する為だけではない。
茶道の魅力への興味は、確実に沸き上がっているのだ。
「昨日、オリベさんが言いましたっけか? 俺の店、茶室でお抹茶を点てているんですよ。
とはいえ、前準備もなく父の店を継いでいるものでして、もう苦労の連続です」
「………」
「でも……茶道って、面白いみたいなんですよ。
どこがどう、とは上手く言えないんですけれども……」
「ん」
「そんなわけで、俺、夜咄堂と茶道を極めます。
だから、いつか……」
「いつか?」
「……いつか、先輩が自信を持てる器を焼いたら、それをお店で扱わせて下さい」
「……千尋」
岡本が、顔を伏せる。
五秒か、十秒か。
まだ長く伏せていたかもしれない。
だが、自身の長い髪をかき上げるようにして、彼女は前触れなく顔を上げた。
不意に現れた岡本は、夜闇を照らすような笑顔を浮かべていた。
「ちーちゃんは、諦めるぞ」
突然、わけの分からない事を言われる。
「え?」
「お前にちーちゃんと呼ばせるのは諦める!
その代わり、いつか先生と呼ばせるからな!
陶芸の岡本大先生だ! 覚悟しておけよ!」
ぐっと親指を突き立てられる。
何とも賑やかな先輩ができたものだ。
だが、悪い気はしない。
「……はい!」
千尋は負けじと、親指を突き立て返すのであった。