仮契約・前編
「兄については、迷惑をかけていると自負している。
だが今回話すことはそれと関係ない。
兄は以前から東の国の制度に興味を持っていた。
そこまではいいが兄の行動力が行き過ぎた政治を行った。
追放されたにも関わらず今でもそれは懲りていない。
それどころか今や二つの国が抱えている問題。
鬼の狂気にまで手を伸ばしている。
私はそれをやめさせたい。
ワタヨウの末の子よ、しばらく私の計画の乗って欲しい。」
「え」
「簡単だ。兄の無力さを示すだけだ。
それよりも、国権回復が先だということを知らしめる。」
綿陽 緑、15歳にして人生の加速を感じた。
これ以上余計なことに巻き込まないでほしいと何度も思っては頭を悩ませる。
「あの…でも私家に帰らないと…」
「用が済めば帰してやる。」
まるで悪役のようなセリフだ。
そもそもここ2ヶ月ほどでどんなことが起きただろう。
鬼に殺されかけること2回、鬼の王に求婚され、兄の大学で鬼が複数襲来、さらに今の現状。
濃すぎる。
何故人生には浸透圧というものが起きないのだろうか。
「いつぐらいに用は済みますか…?」
「明日」
「あ、あした…」
文句を言う気力も、緑には欠けていた。
何せ半日フェンリルの行動を観察、監視し続けていて集中力が今になって切れてしまったのだから。
だが、帰らなければ親、眷属神、兄姉が心配する。
何がどうあっても帰らなければならない。
「明日、明日は学校休んであなたに付き合いますから、
だからせめて今夜だけはうちに帰してください。お願いします。
両親が心配します…」
「……確かに。兄に見せつける前に眷属神に見つけられては元も子もない…
何より太陽の家系なのだからな…」
「……?
あの、太陽の家系って…」
「手を出せ」
質問を出す前に大人しく手を出したほうが良さそうだ。
ガスマスクと黒い前髪に覆われた顔は鼻筋と、微かに眉間しか見えておらず、表情なんかわかるわけがない。
頭をキラキラと輝くビースのようなものでかぶせるように飾っている。
しかしよくよく見ればビーズだとかガラス玉とかそういうチープなものではなさそうだ。
金の円盤も左右につけられているが、近代的なガスマスクと民族的な装飾が違和感を引き起こしている。
「少々血液をもらう。」
ヨルムンガンドに向けた左手の甲は、紫の爪で横に一つの線が引かれた。
声を上げるような痛みでもないがまるで血液検査を受けているような感覚だ。
赤い血が表面張力をして、溢れる。
指の腹でそれを掬って、地面に飛ばした。
すると、ヨルムンガンドが出現したように地面からぶくぶくと土塊が膨れ上がり、緑の形を作り出した。
「え、な、な!?」
「これで明日の早朝まではやり過ごせる。
まぁバレてしまえばその場で即、土に戻るが…。」
(それって家の中が土で汚れるってことだよね…迷惑…)
それよりも、そういうことではない、と言おうとした瞬間指を鳴らして土塊の緑は姿を消した。
「表に戻しておいた。」
「えぇ~……」
「おとなしくしていれば悪いようにはしない。
見合った報酬は…そうだな、兄をお前に二度と近づけさせないことを誓おう。」
「えっ」
「お前たち『チンク』と違って下手にウソは吐かない。
なんだったら契約書でも書いてやってもいい。」
また地面から出てきたのは羊皮紙。
慌てて首を振れば、羊皮紙を背後に投げ捨てる。
「では、さらに血液を貰う」
そう言うとすっかり忘れていた天井のモノが次々と落ちてきた。
何を隠そう、黒光りしたサソリだ。
「ひぎゃああああああ!!?」
「毒はない。あくまで採血用だ。」
「こんなに抜かれたら死ぬ!!死んでしまう!!」
「これから作るモノの素となるサソリたちだ。
そもそも、お前に死なれては兄が私を貪るだろう。恐ろしくてそんな真似できそうにない。」
こうして、拉致された緑は強制的にヨルムンガンドの計画に協力させられる羽目になった。
しかし先ほど、『兄をお前に二度と近づけさせないことを誓おう』と宣言した。
緑はそれが嬉しいことなのかそうではないのか言葉にできない。
鬼王は兄を助け、今日は会話をした。
初めにあったはずの負の感情が消えている。
しかし、どうしようもなかった。
何よりこれは国の問題というより兄弟の問題のような気がしたからだ。
ヨルムンガンドを観察するに感情ではなく理性で考えて理屈を言うタイプの鬼だ。
今までの、本能丸出しの鬼(フェンリル含む)とは違う、知的な存在。
そんな鬼が大胆な行動をするということはそれくらい伝えたいことがあるのだろう。
真意は定かではないが。
「いたっ」
「…相変わらず脆弱な作りをしているな」
ぶつぶつ文句を言うが、緑の腕に長い爪を立てた途端痛みがなくなったというより麻酔を打たれたように感覚がなくなった。
妙に甲斐甲斐しいというか、面倒見がいいところはまるでフェンリルに似ている。
ところ変わって朝の10時。
フェンリルは拘束され、この地域の山の中に連れてこられた。
綿陽家の者も心配で、全員で探していたようだ。
旭が連絡をすれば緑を除いた家族が集まる。
両親は初めて見る鬼の王に固唾を呑んだが、フェンリルはハッとした。
「あれだな!!」
旭とやっさんはだいたい予想していた。
本能に忠実なこのアホはその言葉が今の両親にとってどれほど憎い言葉であるか知らないのだ。
「東の国では婚姻を結ぶ前に両親に挨拶をするのであろう!」
頭がカッとなった父親は一歩踏みしめるがテンが抑える。
「ご当主、お気持ちはわかります。
しかしこの狗は人の気持ちがわからない野蛮な者です。
そのようなことで心を疲労させるのは全くの無駄ですので、どうぞ落ち着いてください。」
「ふん、その野蛮な者に真っ先に殴りかかったのはどこのテントウムシだろうな?」
晃がフェンリルの頭をバッグでボスンとたたいて話を変更する。
「そんなことより、緑知らない?」
「余が攫ったと言いたいのか?」
「その可能性が一番高いからね。」
「全く…だいたい、攫っていたら余はこんなところにいない!
一日中いちゃいちゃしておる!!」
妙に信ぴょう性が増すが、それだけで疑うことを辞めるのはいささか癪に障る。
やっさんならば契約者であろうとなかろうとある程度は気配を探せる。
何より綿陽の家の子だ。ただ攫われたのであればすぐに居場所がわかる。
気配がたどれないということは、犯人は恐らく鬼の仕業である。
そういう答えにたどり着いた。
今朝、緑が土塊だと知った時、激しい憤りを感じた。
まるで試されていたかのような、翻弄されていたかのような。
かつてやっさんが受けた悲劇がまた来るのではないかと思ったのだ。
「だが私では緑の気配はたどれなかった。
とすれば犯人は貴様しか考えられん。」
「……ふむ。」
「緑が土人形だったってことは、いつから入れ替わってたんだ…?」
旭の疑問にフェンリルは思わず答える。
「昨日の6時半過ぎ以降だな」
「え……何故知っているの…」
これは母親の発言だ。
詳しい時間把握にドン引きしたのだ。
そして思う。ストーカーだと。
「それはだ!お義母さん!昨日余と緑は楽しく公園で語らい…」
「テメコラァ!!また緑をつけ回してやがったのか!!妹はやらねぇからなァ!!」
「胸ぐらをつかむな!!服がシワになってしまうだろうが!!」
「うるせぇ!!ロリコン!!」
「ロリコン上等!!年の差など知ったことか!!」
この二人は放っておいて、晃は提案する。
「やっぱ警備隊に言って探してもらうしかないんじゃないかな。
このバカ王が知らないってことはいつもバカ騒ぎしてる鬼たちのことかも。」
「そうかしら。晃ちゃん、この王は昔人間を殺して回ったのよ。
この場所だって、血で濡れていた。
そんな鬼を信用するの?」
「……テンちゃん、それってテンちゃんがあのバカ王のこと気に入らないから言ってるんでしょ?
私は今すぐにでも緑を探しに行きたいの。
いつまでもあのバカ王に構うより探したほうがよっぽど建設的だよ。」
「………はぁ
違うわ。全くの勘違いよ。
敵はいつだって自分の持ってる情報を隠したがるの。」
「だから!そうやって取り返しのつかないことになるくらいなら別の鬼を捕まえて探したほうがマシ!!
いつまでも昔にすがらないでよ!!もう1000年も前のことだよ!!?」
「晃!!」
父の怒声が響いた。
晃は初めて肩を震わせる。
「いい加減にしなさい!!」
「な、何……父さんも、緑よりあいつに構うってこと!!?」
「違う!そういうことじゃない!!
テンのことをそう言ってやるな!!今までテンがしてくれたことを忘れたのか!?」
「~ッ!!今はそういう場合じゃないでしょ!!?
緑のことちゃんと考えてよ!!眷属神いないで、今だって怖い思いしてるかもしれないよ!!?」
「確かにそうかもしれない!!だが、ここできっちり言わせてもらうぞ!!
お前は口が悪すぎる!!そういう言い方は良くないと、何故わからない!!
この間もそうだ!!自分は関係ないと、緑がこんな危ない奴に狙われているのに私たちに一切言わないで…!!
どちらが緑のことを考えているのかなど、お前が口にするな!!」
口がわなわな震えて、ぼろりと涙が溢れる。
「わ、わ…だ、し、……っ!!!」
言いすぎた、と反省して謝罪の言葉を口にしたかったが今すぐには言えなかった。
高ぶった感情がそれを押さえつけたのだ。
「もういい!!バカ!!バカバカ!!
自分たちじゃ何もできないくせに!!」
「晃!!待て!!」
旭の声をも無視して山を駆け下りる。
山を降りればすぐに公園だ。
公園を抜けて、若々しい緑地である田んぼを駆け抜ける。
「…父さん、俺、晃追いかける。
一緒に緑探しに行く。」
「旭…」
「母さん
外危ないと思うし、父さんと、テンと、やっさんと…
家で待っててくれ。緑は絶対見つけてくるから。」
思わぬところで溝ができた。
多感な年頃の子供たちは様々なことを思う。
理性的であったり、本能的であったりするから矛盾が生まれやすい。
そこを突かれて、成長するけれど、今そこを突くべきではなかった。
「アサヒ、余も行こう。」
「フェンリル…!!誰が行かせるか!!」
「そこまで気にかかると言うならば、心臓に貴様の羽でも打ち込んでおくがいい。」
コートの襟を開き、心臓のある部分を見せる。
「呪術避けの刺青を施してあるが、同意の上だ。問題ない。」
「……。」
そこまでして、フェンリルは何が目的なのか。
本当にただ純粋な感情で緑に接しているのか。
深く深く、眉間のしわが刻まれ、苦悶する。
「嘘であれば、確実に殺す。」
細い針のような羽がフェンリルの胸に溶け込み、心臓を痛ませた。
フェンリルは多少うめき声をあげたが、不敵に笑う。
やっさんがあえて羽を心臓に刺したのは、両親を安心させるためだ。
いつでも殺せると、そういう保険だった。
それなのにフェンリルの笑み一つで保険がなくなったように感じる。
汗をかく手で拘束を解いた。
「よし…行くぞ。」
「あ、ああ……おわっ!?」
旭を軽々と担いで晃の後を追う。
その背中を見て、眷属神は何も言えないままだった。
泣きながら住宅街をきょろきょろしている晃がいる。
何よりフェンリルは目立つので姿形を学生のように変化させていた。
「晃!」
「あ、兄貴……って…なんでバカ王がいんの…」
「まぁ…いろいろあって。
とにかく緑を一緒に探すぞ。
何が起こるかわからねぇから。」
「…うん」
「………その、確かに晃は口は悪いけど
あの時俺も緑を早く探して見つけるべきだって思った。
だから、帰ったら俺も怒られに行く。
あんまり泣くな。」
「……うん」
「ふむ、やはり兄は大変だな。
……ん?」
顎に手を当てて兄妹を眺めていたところ、フェンリルはふと気づいた。
そういえば追放された時に弟もついてきていて、最近まで連絡が取れていたはずなのにパタリと音沙汰がないと。
「どうした?」
「いや、余の弟のことを思い出した。」
「え、弟いるの…?バカそ~」
「お前たちの耳には多少耳障りなはずだ。耳でも塞げ。」
口が開いたと思ったら、低音のテレビの砂嵐のような音がする。
確かに聴いていていいものではない。
もちろん言われたとおり耳をふさいだ。
「………届いていないようだな。」
今度はさらに音量を上げて話し始めた。
もはや例えようのない音だ。
これが言語なら、なんの法則性があろうか。
人間にとってどんな時間をかけても理解できないものだと肌で感じる。
「おお!緑!!」
「えっ!?」「緑!?」
がっはっはと豪快に笑い、腰に手を当てる。
「喜べ!何故か弟が緑を捕まえていたぞ!」
「…喜んでいいのかそれ」
「とにかく、早く緑助けなきゃ!」
「直に向こうから来る。」
明るい日差しの下、アスファルトの地面から現れた異質な存在は旭、晃の目を奪う。
フェンリルと似た黒のコートは長く伸び、紫色のラインがより目立つが、何よりガスマスクと黒髪で覆われた顔とキラキラ光る頭の装飾が不気味だった。
そのすぐ隣に緑がいる。
怯えた様子は見せないが今まで不思議な空間にいたことと、血液を多少抜かれていたので顔色は悪かった。
「ヨル、お前が緑を攫ったせいで余の信頼がより失墜している。
早急に返すがよい。」
フシュウ、と呼吸音が聞こえる。
本当に悪役そのものだ。
「旭兄ちゃん!晃姉!私平気だよ!」
「平気って、こっちはいろいろ心配してたんだぞ、全く…」
「まぁでも、大した怪我もないし、とりあえずよかった」
こちらの兄妹は安否を確認してほっと息をついた後、低い声で語り始めた。
フェンリルとは違う、言い伏せるような話し方だった。
「兄よ……国に戻ってはくれないのか」
「馬鹿者。それよりこの地で起きている現状把握が要だ。」
「国権回復したならば、完全に国として立ち上がり、この国の信頼を得ればそれはスムーズに済む。
なぜ、順番を逆にする?」
「今せねばならんのだ。」
「なぜ」
「今は言えん」
「いつもそればかり…それでは知能の低い我が同胞と同じだ…
根拠がなければ誰も、同胞からも見捨てられるぞ。
我ら『大いなる冬』が逃げ出し、この地に来たのも兄が根拠のない言葉を並べ立てるからだ。」
かなり心にくる言葉だ。
何より、ヨルムンガンドが言えば言葉に重みができる。
フェンリルと言えば少し他所を見て黙るだけだ。
「おい、それでいいのかよおにーちゃん」
「うるさい」
「…理屈で言ってもダメならこうするしかない」
パチン
骨ばった指が音を鳴らす。
ヨルムンガンドの周りに大勢の緑が現れた。
正しくは、今朝作った土塊の緑より強固な、サソリでできた分身体だ。
昨夜からヨルムンガンドが一生懸命作っていたのはコレだった。
「みっ…緑…緑が……!!緑がたくさんいるではないか…!!
ハーレムではないかぁああ!!」
「…やれやれ」
弟は呆れ、もう一度指を鳴らした。
一瞬で緑たちは消え、オリジナルも消えてしまった。
「ちょっ、緑が…!」
「ちょっとそこのガスマスク!緑は!?」
「兄よ、決めろ。
ミドリを選ぶか、国を選ぶか。」
いつもの、笑った時の目の細め方ではない。
睨むような、真意を見つめる目だった。
「本当にお前は二者択一が好きだな」
「兄は不器用だ。
私は兄が拾えるであろうどちらかを明確にして示している。」
「どちらもと言えばどうする」
「チャンスは一度。
ミドリを街から探し出せ。一度外せば兄を毒で眠らせて連れて帰る。」
「……緑を見つける約束もしている。
いいぞ。乗ってやろう。」
ふと、旭と晃はカチンとした。
何やら兄弟喧嘩に緑が使われているようなのだとわかったからだった。
赤の他人とは言えないにせよ、なぜ緑でなければならないのか。
そこに納得はいかなかった。
「おい!!そこの、えーと、ガスマスク野郎!!」
「……。」
「兄弟喧嘩ならよそでやれ!!どうして妹が巻き込まれねぇといけないんだ!!」
フイ、と顔を背ける。
取り合いたくない、というよりめんどくさいと言いたげなのはわかった。
「こんなに巻き込んどいて無視はないでしょ!!」
晃はヨルムンガンドの腕をつかもうとする。
だがフェンリルがその手首を掴んでヨルムンガンドから引き離した。
「何すんの!弟に触るなって!?」
「こいつは人見知りというやつだ。
自分から接触しない限り、毒を常に出し続けている。」
「!!
緑は!?」
「ヨルが攫ったならば毒で犯したりはしない。そこは安心しろ。」
手を離し、外からは見えないヨルムンガンドの目を睨む。
「私が作ったミドリは15体。オリジナルを含めば16体のミドリがこの街にいることになる。
そこのチンクは傍観するといい。恨むならこの兄を恨め。」
「ならば行くぞ。もたもたしてられん。
ヨル、お前の外見は目立つ。隠れるかどうにかしろ。」
地面が脈打ち、まるで海に落ちるように地面に溶け込んだ。
晃はその場所を覗き、つつくがやはりアスファルトであった。
フェンリルはその横を通り過ぎ、さっそく兄弟喧嘩兼緑探しが始まった。
「…あいつ何だ?というか、チンクってなんだよ…」
「貴様らが我々のことを鬼と呼ぶだろう。それと同じだ。
まぁ、言うなら、蔑称だ。」
同じ、というくらいなのだから鬼という呼び名も蔑称なのだろう。
しかしこのフェンリルが言うには、いつしか鬼という言葉は人間にとって恐ろしい存在であると学んだようだ。
今ではあまり蔑称という意識すらないらしい。
「その程度、契約者ならば知っておけ」
「知っておけって、やっさんもそうだけど、あんまり教えてくれねぇしな…」
「……うん。あ!緑!」
外せば緑がどうなるのかはわからない。
しかし、このフェンリルに不利益が出るだけで、実質、この綿陽兄妹には何の被害も出ないのではないか。
旭はそう考え、心配損をしたと肩を落とした。
杞憂で終わったのは幸いだったが。
携帯を取り出し、両親にメールを打つ。
「……あれは緑ではないな」
「え?なんで」
「勘だ。」
「私たちがいけばわかるかも」
「やめておけ。どうせ緑の血を使って作っている。
お前たちに対する反応は同じだ。」
そうして何時間ほど時間が経ったろうか。
晃の腹からは切ない音が聞こえ、
旭の目は既に死んでいる。
「これで10人目だな」
「まぁーだー?」
「適当に言っちまえよ。それで偽物だったらこれでおバカとはおさらばだ。」
「何を言うか!!余はこの心臓にあるカラスの羽を抜いてもらわねばならんのだ!!
一生苦しいまま生き続けろと言うか!!」
本当に苦しいとは思えない。
おバカなのは相変わらずで、いつもどおり歩いている。
刺された当初は苦しそうにしていたが今はそのカケラも見当たらない。
「とにかく、余は緑と語らわねばならん。」
「なんだそれ…ていうか、ずっと気になってたんだが、なんで緑のこと知ってて、そんなに執着するんだ。」
「……詳しいことは言えん。そう誓っている。
だが惚れた。」
まっすぐなほどの言葉は揺らぎがない。
今まで疑っていたのがバカらしくなるほどの、まっすぐなバカだった。
晃は肩をすくませる。
「もう好きにしなよ。私と兄貴とやっさん、テンちゃん、父さん母さんじゃ緑は守れないから。」
「む、いいのか?婚約しても。」
「そういう意味じゃねえよアホ
けど、やっさんたちはお前でどうにかしろよ。」
塞ぎがちになる緑にはこのうざいくらいのまっすぐがちょうどいい。
初めて親の言いつけを破って緑がフェンリルと話していたということは、緑もそれなりにフェンリルを信じようと思ったのだろう。
「あと、これ以上面倒なことに巻き込まないようにすること。いいな。」
「うむ、承知
お、11人目だ。」
明らかに挙動不審。
今までもキョロキョロしている緑はいたが、何かと交差点を見ている。
それもそのはず。
ここらは警察署が近い。
ということは昼間からここにいる学生は容赦なく学校に返還、もしくは家に電話。
そして免れないのが警察官と学校教師の説教。
怒られることに不慣れな緑らしい、怯えた姿だ。
緑ならとりかねない行動ではあるが…。
今ではあれも偽物かも知れない。
「あれだな」
「なにそれ…勘?」
「もちろんだ。
よし、ここは余の抱擁で安心させてやろうではないか。」
ガシッ
二人の両腕がフェンリルの服を引っ張る。
「な、何をする!!?裏切りか!?」
「抱擁ってワードが」
「ほんといつか犯罪をしそうだから」
「ええい放せ!!」
こんなやり取りをしている途中、実際に本物であった緑は通りすがりの眷属神にばったり出会ってしまった。
緑は身を固くする。
怒られると思ったのだ。
「おや、どうしたのかな。」
「あ、ええと…」
「制服を着ているけれど、学校は?」
深緑に、藍色の羽織。
見たことのないほど鮮やかで美しい着物だった。
そしておっとりした目つきに丸いメガネ。微かに揺れる柔らかそうな茶髪。
雰囲気からは怒りそうにないが面倒なことに巻き込まれている上にさらに面倒事になったら大変だと思った。
「か、風邪をひいて…早退して…両親を待っている途中なんです。」
「そうなのか…どれ、額を」
「大丈夫です!それじゃあ…」
「こらこら、飛び出しては危ないよ。」
小走りでその場から逃げ出す。
昼間は交通量が少ない路地であったため、信号のない脇道の前を通ってしまったのだがその横からは車でもバイクでもないものが鈍器を振りかざしていた。
緑は声も出せずに、反射も間に合わない。
太陽に照らされた、サビのついた銀色の巨大なハンマーと、上半身が筋肉隆々としているバランスのとれていない体をした鬼がそこにはいた。
緑が行く進行方向。緑を正面から叩き飛ばすために横にハンマーを振りかざしている。
鬼の声が響くと、同時に酷い音がした。
さらに兄姉が掴んでいたはずの人物が消えている。
「え…!?」
「!!
兄貴…!!」
ぎゅう、と腕を掴み、顎で示す先にはバランスのとれていない鬼がいる。
その鬼が見る先には、地べたに転がっているフェンリルと緑。
「みどっ」
「晃!待て…!」
フェンリルなら緑は一応は安心だろうが、自分たちは眷属神がいない。
つまり無差別に襲われたら元も子もないのだ。
「鬼が出現したってことは、やっさんもくるかもしれない。
あれだけデカイんだ。やっさんの鼻ならすぐ気づく。」
それまで隠れているのがベストだ。
だがなぜ今のタイミングで出現する?
まるであちらも緑を探していたようだった。
もしそうなら、なぜ緑を探している。
何が理由で?何が目的で?
それと、鬼があれほどに変形して狂気化していることにつながりがあるのか?
息を潜めて旭は思考を巡らせる。
少なくとも今の、見ている情報だけでは分かりそうにない。
「っはぁ、はぁ、はぁ」
緑の視界と嗅覚、触覚は混乱していた。
今まで軽快に走っていたのに、次の瞬間強い衝撃が来た。
それよりも少し早く真っ黒のコートが視界に現れた。
今も暖かいのだが、ぬるりと手が生暖かい液体に晒されている。
息が止まっていた。
「え……え…?」
全身が痛いが動けないわけではない。
ゆっくり起き上がると、フェンリルがいた。
今、目の前に鬼が居ることを加味すると、緑を庇ったのだ。
ひゅっと息がまた苦しくなる。
「フ、フェンリルさ…」
緑の声が震えていた。
肩に少し触れると、改めてフェンリルの口から血が溢れる。
そうして、ぼんやりと目を上げて立ち上がった。
「……うむ、怪我はないか…?」
緑を撫でようとしたが、自分の手が赤いことに気づき、引っ込めた。
庇われた緑はこの場に広がる大量の血が怖かった。
笑うと見える八重歯のような、鋭い牙が真っ赤だ。
ペッと血反吐を出して口元の血液を拭う。
こうして健常そうに振舞っているが強がりなのは見え見えだ。
そんな場合でもないのに緑の目には涙が浮かぶ。
「…!!
…嫁を泣かすな!!愚か者が!!」
憤るフェンリルの傍らにヨルムンガンドが顔を出す。
心臓に打ち込まれた羽。そして直接くらった攻撃は弱体化しているフェンリルには厳しい。
「兄、手助けをしよう。」
「余計なことをするな蛇!!黙って見ていろ!!」
「体中がぼろぼろだ。無理するな。」
「それくらい、いいハンデになる!!」
コートを脱ぎ捨ててタイマンでやり合おうとしている。
兄に厳しいヨルムンガンドでも、流石に見逃せない。
緑の前だからか、あの鬼に血が上っているのか、治療をする気はないようだ。
緑は見てられなかった。
腕は明らかに複雑に折れているし、足以外の体のあちこちが変な方向を向いている。
腰が抜けて立ち上がれないが、代わりに足を掴んだ。
「…何より泣かせているのは兄だ。
幼子が兄の姿を見て恐れている。」
「……。」
「どうしてもアレを殺したいというなら、しばらく地中に埋めておく。
その後は好きにしろ。」
左袖から出たロープが鬼の四肢に絡まり、地面に溶けていく。
緑がいたあの部屋に投げ込むつもりだ。
「…緑に免ずる」
少し嗚咽を漏らして、声を抑えて泣いている。
それを聞いているうちに見開いていた真紅の目がやや落ち着きを取り戻した。
鬼が完全に地面に消えた後、右手を首裏に添えて治療を行う。
同時に旭と晃が出て、緑の安否を確認した。
「大丈夫?緑…。」
「う、ぐすっ、うぅ…」
「俺に掴まれ。」
旭が緑を抱き上げて、後ろに数歩下がる。
全身がフェンリルの血で覆われていることと、泣いていること以外問題はなかった。
「ありがとな、フェンリル」
「貴様ら契約者だろう!なぜ式神にならん!」
「…は?」
「式神程度ならあのくらいの攻撃、庇うまでもない!反撃くらいできる!!
妹を守るのは兄として当然の責務だ!」
「兄は気が滅入っている。話しかけるな。」
ヨルムンガンドはそう言うが、3兄妹はフェンリルが何を言っているかわからなかった。
まるで、契約者は生身で敵に立ち向かえと言っているようなものだからだ。
数分もすれば骨はバキバキと、すべてが巻き戻しされているように回復していた。
「ヨル、表面はもういい。中を繋げるだけで構わん。」
「…と、いうか私もあの分身体作りと、鬼を引きずり落としただけで随分と枯渇した。
そこまではできない。」
「とんだ弱体をしたものだな。」
「それは兄もだ。」
途端、ここの地区一帯に黒の結界が敷かれた。
重々しい色を発している結界を見た瞬間、3兄妹は気圧される。
圧迫感に冷や汗が流れる。
「黒!!?」
「黒って…!!やば!」
サイレンがあちこちから鳴り響く。
そして始まる破壊工作。
結界の端から舞い上がる砂埃は今まで見たことがない、まるで映画の中のもののように見えた。
「ワタヨウ ミドリを回収しようとしている。」
「ぬ?」
「兄はミドリを見つけた。
今までわがままに付き合ってやって、これきりにしようと思ったが兄を説得する方が面倒だと思った。
たった一人の幼子を見捨てる気もなさそうだ。試そうとして悪かった、兄。
だからこれまで集めた情報を伝える。
ワタヨウの子も聞け。」
淡々と羅列される情報は緑を意味もなく青ざめさせる。
内容は、目的はまだはっきりしないが鬼たちは何者かに先導されて綿陽 緑を探し、殺そうとしている。
おそらく兄姉を狙わないのは眷属神がいるからだろう。
人と眷属神を食らっていたのは、先導者が『肉を喰らえば弱体化が解消できる』といったデマであり、効率的に綿陽 緑を殺そうとしていたからだ。
「先導者がなんらかの術式を組んで同胞に、単純に食った分、力が上乗せされるよう施されたのだろう。」
「それで、鬼は、突然変異みたいな変な体型の奴が多かったのか…?」
「そういうことだ。」
「じゃあなんでうちが狙われるの!?そんな、特別な家系でもないし…!」
フェンリルとヨルムンガンドは目を合わせて同時にため息をついた。
「この分だと何も知らんらしい。
しかたない。カラスにでも『太陽の家系』について聞け。」
破壊音が立て続けに聞こえる中、改めてわかったことがある。
旭と晃は何が何でも緑を守らなければならない。
今まで緑は強かった。晃も商店街で助けられたし、旭は大学が襲撃されたとき、緑の強さを知った。
二人の契約者であるからこそ、そう誓った。
近いうちに後編をアップします!