オレンジに溶ける
安達君と会うのはこれで何回目だったろうかと、思い出していた。
【オレンジに溶ける】
午前一時。安達君の車の中。
一時間ちょっとの時間が、あたし達が会える唯一の条件だった。
安達君には奥さんがいる。可愛い子供も二人いる。
そしてあたしにも、夫がいる。
あたし達は、不倫の関係だった。
「…なにか、かけようか」
そう言って、安達君はケースから器用にMDを取り出す。
ボタンを押す無骨な指に、通り過ぎてゆく街灯が優しく影を落とした。
――安達君と初めて出会ったのは、中学二年の時だった。
まともに喋るようになったのは、二人で同じ委員会になってから。
今でも覚えてる。
「よろしく」と差し伸べられた、安達君の手のぬくもりを。
その時、初めて安達君がクラスの女子から人気がある理由が分かった気がした。
中学二年にしては高い背、誰とでも仲が良いし、責任感も強い。
部活でサッカーをしている時は、普段の何倍も輝いて見えた。
――初恋、だったのかも知れない。
退屈だった委員会の時間がとても意味のあるものに見え、席替えの時期は一喜一憂したりした。
中学生の、淡い恋だった。
好き、という言葉を、あたしは結局一度も口に出すことはなかった。
安達君を見ているだけで、ホントに幸せだった。
それからあたしは高校、大学と進み、職場で知り合った今の夫と結婚した。
中学を卒業してから、あたし達が会うことはなく、友達から
「安達君が結婚した」ということを聞かされても、
遠い記憶の中のかすかな思い出くらいにしか感じることは無かった。
優しい夫と、あったかい家庭があって、あたしは凄く幸せだった。
それが、一番の幸せだと思ってた。
――二カ月前、再び安達君に会うまでは。
久しぶりに出席した同窓会で、あたしは13年振りに安達君と再会した。
当時の記憶だけが頼りなのに、彼は真っ先にあたしを見つけてくれた。
「――児島!」
呼ばれて、胸がむずむずした。
今は誰も呼ばなくなった旧姓で呼ばれるのも、歳はとったけど安達君の笑った顔が昔とおんなじなのも。
その日のことは、正直あんまり覚えていない。
誰と会って、なにを話したのか。
ただ、安達君が言った
「実はオレ、児島のこと好きだったよ」という、冗談混じりの告白が、いつまでもあたしの頭の中に響いていた。
――あたしもね、あたしも好きだったよ。
安達君のこと、見てるだけしか出来なかったけど、すごく、すごく好きだったよ。
そう口には出さなかったけど、思わず泣きそうになってしまったあたしを見て、
安達君は困ったように、でも優しい顔をして、笑った。
――それが、今から二カ月前の出来事。あれから、あたし達は数回に渡る深夜の密会を繰り返してた。
とは言っても、ドライブをしながら中学当時の思い出話や、他愛もない話をするだけの、
手すら握らない中学生のままごとのようなものだったけど。
――きっと、お互いこれ以上踏み入れたらいけないってことを分かってるから。
踏み入れたら、二度と戻れないということも。
安達君。
だから今日、あたしはさよならを言いに来たの。これでもう、会うのは辞めようって。
始まってしまう前に、終わりにするの。
「――ほら、見て」
安達君の低い声が車内に響き、あたしは現実に戻された。
安達君の指差す方向に目をやると、国道の脇を固める大きなコンビナートが目に入った。窓を少しだけ開けると、ゴォー…という低い機械音と共に、湿った風が吹き込んで来る。
ゆっくりと規則正しく点滅するオレンジ色の光が、夜のパレードのように思えた。
「綺麗でしょ。嫌なことがあったら、昔からここにきて、ずっとこの景色を眺めてた」
安達君の言うとおりだった。
ホントにここから見る景色は綺麗で、月とか星なんかよりずっと現実的で、無機質で、それがいいと素直に思った。
「――中学の卒業式の夜も、自転車でここに来たんだ」
安達君はゆっくりと走らせていた車を道路脇にとめ、そんなことを言った。少し丘を登ったそこからは、コンビナート全体がよく見えた。
オレンジ色の点滅が、あたしの呼吸と重なる。
「…卒業式に、なにか嫌なことがあったの?」
あたしは、卒業式の風景を思い出そうとしながら聞き返した。
そして、安達君はゆっくりと口を開く。
「――児島に、告白出来なかった自分を責めたよ」
工場特有の匂いがする風が入ってきて、あたしの髪と心を静かに掻き乱した。
「……そ、んな」
――そんなこと、今更言わないでよ。
今日は、さよならを言うって決めてたんだから。
あたし達はもう、昔みたいになんにも知らない子供じゃないんだから。
始まってしまう前に、終わりにしないといけないの。
「…自分でも、良く分からないんだ。
児島と、どうしたいのか。どうなりたいのか。
オレはただ、中学時代の記憶に溺れているだけなのかも知れない」
もしあの時、想いを児島に伝えていれば、
もしあの日、同窓会で再会しなければ、
もしオレ達が、最初から出会っていなければ。
でもそんなのは、全て仮定でしかないから。
そして安達君は言葉を続ける。
「…ただひとつ、分かっているのは、
オレは今、児島に触れたいと思ってることだけ」
――ズルいと思った。一方的だと思った。
「……な、んで?そんな、こと…今更言うの」
「……ごめん、児島。ホント、ごめん」
ねぇ。
あたし、今どんな顔してる?
泣いてる?笑ってる?怒ってる?
13年前にその言葉を聞いていたら、今のあたし達はなにかが変わっていたのかな。
ねぇ、安達君。
なんでそんな顔するの。泣きそうな顔なんて、して見せないでよ。
あたしはもう28で、冗談が通じるような歳じゃないの。
「……こじ、ま」
なのに。
安達君の震える指先が、あたしの頬に触れるから。
さよならの、その言葉は、
あたしの世界から音を消した。
end.