9、偽りの言葉
新婚初夜の翌朝、サーシアの顔をのぞき込むレオの瞳にあったのは、兄のように温かな目を向けてくれた幼馴染のセラのそれと同じものでしかなかった。
“まあ、観念することだね。──王様には誰も逆らえない”そう言って見せた、セラのあきらめを含んだ笑みを思い出す。あれは、サーシアとの結婚を望んでいない表情だった。
──わたしのプロポーズを受けてくれるかい?
レオは確かにそう言った。セラとは違って、サーシアとの結婚を望んでくれた。
けれどセラと同じように優しさしか映さないレオの瞳に、サーシアの不安はつのる。
わたしは、本当は愛されたわけではないの?
だとしたら、声が戻らないのも納得できる。魔女のおばあさんはレオの心を射止めたら声を返してくれると言っていた。心を射止めたら──それは好きになってくれたらということ。好きになってもらえていないのなら、声が戻ってくるはずはない。
悲しみに暮れそうになったサーシアは、慌てて自分の考えを打ち消した。
いけない。あきらめてしまったら、その悲しみが体を海の泡に変えてしまうと言われたじゃない。
嫌われているわけじゃない。だったら好きになってもらうための努力をすればいい。
サーシアは自分にそう言い聞かせる。
「すばらしいですわ、王妃様!」
教師に手放しでほめられて、サーシアは頬を染める。
ニンゲンのダンスの練習を始めてまだ二カ月だが、見る間に上達していった。今ではゆっくりなら難しいステップも踏める。
このままだったらどうしようと思っていた体の重みは、陸で暮らしているうちに気付かないうちになくなっていた。体が陸に慣れたのだろう。おかげでダンスも優雅な歩き方も、教えられたようにこなすことができるようになった。
「シーナはとても頑張り屋さんね」
ダリスが近づいてきて、長い間踊り通しだったために額に浮かんだ汗を、ハンカチで拭ってくれる。「休憩にしましょう」と言われてお茶の支度の整ったテーブルに着いた。
以前教えられた通り脇をしめてカップを持ち、取り分けてもらったケーキをフォークで小さく切り取って口に運ぶ。
「テーブルマナーはもう教えることがなくなったし、文字を覚えるのも早いわ。子供向けの書物なら、一人で読めるほどだっていうじゃない?」
ダリスにもほめられ、サーシアは嬉しくてはにかむ。
忙しいレオの代わりにいつもサーシアの側にいてくれるのが、レオの幼馴染だというダリスだった。
都合がつく限りサーシアと一緒に食事をしてくれて、自分の意思をうまく伝えられないでいるサーシアのために意思の疎通の橋渡しをしてくれたりその方法を皆に教えてくれたり、教師がいない時間も文字を覚えたがるサーシアに付き合ってくれたりもしている。
ダリスがいなかったら、もっと苦労していたに違いない。サーシアはダリスに対して感謝の念でいっぱいだ。
思えば海で暮らしていた時、サーシアはこんなに頑張ったことはなかった。勉強が嫌いで、やりたくないことは世話係のリリアに口酸っぱく言われてしぶしぶするくらいだった。
でも今は、未知の世界を知ることが楽しい。親身になってくれるダリスに喜んでもらえるのが嬉しい。
そして何より、王妃として必要な勉強をして、レオにふさわしい王妃になりたいという目標があった。
結婚式から三週間が過ぎようという頃から、レオは時間が取れるようになったと言って、サーシアと一緒に朝食を食べてくれるようになったり、夜も早めに寝室に来るようになった。
でもまだ忙しいらしい。連絡を受けて朝食の途中で席を立ったり、寝室に顔を出したもののまだすることがあるからと言っておやすみのあいさつだけをして自分の部屋に戻ってしまったりする。
レオも王様の仕事を頑張っているのだから先に寝てしまっては申し訳ないと思い、本を読みながら待つのだけれど、昼間の疲れもあっていつの間にか寝入ってしまっていることが多い。そうした夜は、翌朝気付けば毛布の中に体を横たえられていた。
レオは相変わらず優しい。先に眠ってしまうサーシアを責めたりはせず、先に眠っていてくれればいいからとさえ言ってくれる。
でもその瞳に、鏡に映るサーシアの瞳に灯るような、恋にとろけるような色は映らない。
今夜は、サーシアがこの城を訪れて三度目の満月だった。
厚いカーテンを開き、月明かりを頼りに膝の上に広げた書物の文字を追う。
扉が開く音がしてはっと顔を上げると、夜着の上にガウンを着たレオが入ってきて、苦笑しながらサーシアに近づいてきた。
「どんなに明るくても、月明かりだけで本を読んでいたら目が悪くなってしまうよ。目は痛くならないのかい?」
サーシアはにっこり笑って応える。
目はまだ人魚の時のままのようで、サーシアには今夜のような月明かりくらいが目にちょうどいいくらいだった。昼間の日差しは明るすぎて、頭が痛くなったりたまにめまいがしたりもする。
とはいえレオに心配をかけたくないので、サーシアは素直に本を閉じた。立ち上がり、サーシアのために寝室内に置かれた小さな本棚に、本をしまいに行く。
本を棚の空いているところに差し込んで振り返れば、サーシアが座っていたところにレオが座っていて、自分の傍らを軽く叩いた。
「おいで。少し話をしよう」
夜着に着替えているということは、今夜はもう自分の部屋に戻らないのだろう。就寝前のひとときをサーシアのために使ってくれるらしい。
サーシアは戻って、レオの傍らに座る。レオはサーシアの肩に手を回した。
「なかなか君との時間を持てなくてすまないね」
声も表情も申し訳なさそうにするレオに、サーシアは気にしないでというように笑顔で首を横に振る。
レオが忙しいのはわかっている。ダリスやリヒドが教えてくれるからだ。
今日は午前中に何人かの貴族と謁見、午後は他国の使者との会談が二つ。その合間に裁可を下したり報告書を読んだりといった政務を差しはさんでいるといったことを聞かされれば、休憩どころかいつ食事をとっているのかさえ心配になる。
そんなに忙しくしているのに何とかサーシアとの時間も作ってくれようとしていることが、申し訳ないと思いながらも、嬉しくてしかたない。
「今まで母の補佐をしていたが、補佐と先頭に立って政務を執り行うのとでは勝手がまるで違ってね。即位してから二カ月が過ぎたというのに、まだ慣れることができないんだ。もう少し手際よくこなすことができるようになれば、君との時間をもっと取れるようになる。それまで待っていてくれるかい?」
もちろん待ちますという気持ちを込めて、サーシアはこくこくとうなずく。レオは嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
この笑顔に、サーシアの胸はきゅんとうずく。どんな表情をしていてもレオは素敵だけれど、サーシアはレオの笑顔が一番好きだ。
日の光を思わせる見事な金髪。この城から見下ろせる海の色のような深い青色の瞳。まっすぐで高い鼻梁。男の人らしい精悍な顔立ち。
サーシアが一目で恋に落ちたその人は、近づけば近づくほどサーシアの恋心を高まらせた。
この人が好き。もっともっとこの人のことが知りたい。
そう思うのに、サーシアは尋ねることができず、レオは自分のことを話そうとせずすぐに黙りこくってしまう。
サーシアはこの沈黙が怖かった。このまま会話が一切なくなれば、レオの心がどんどん自分から離れていってしまうような気がして。
沈黙に耐えられなくなって、サーシアは急に立ち上がった。レオの正面に回ってダンスの姿勢をとると、今日の昼間にほめられた難しいステップを踏んでみせる。
ちゃんとステップを踏めていたらしく、レオはすぐに気付いてくれる。
「そんな難しいステップを踏めるようになったのかい? ダンスはここに来てから初めて踊るようになったのだろう? なのにすごいな」
レオは立ち上がり、サーシアの手を取った。
「少し踊ろうか」
サーシアは頬を染めてこっくりうなずく。
「場所もせまいし、簡単なステップだけにしよう」
レオのゆっくりしたリードで踊り出した。
ダンスの先生とは違うリード。労るようなリードはサーシアを練習の時よりも上手に踊らせた。
「最初は全然踊れなかったって聞いているけど、すごく上手じゃないか。たくさん練習したのかい?」
そうよ。レオ様にほめられたくて頑張ったの。
そう伝えたいのに、しゃべれないから伝えられない。こくこくうなずくと「そうか。よく頑張ったね」とほめてくれる。
こうやってレオは察してくれる。言葉なんかなくったって、気持ちはちゃんと伝わることだってある。
このままずっと踊っていたい──そう思っていたら、レオはふと足を止めた。どうしたのだろうと顔を上げれば、レオの顔が近付いてくる。サーシアが瞳を閉じるとすぐに感じるレオの唇が唇に下りてきた。
薄い唇は固くて冷たいイメージがあるのに、実際はやわらかくて、そしてあったかい。ついばむように繰り返されたあと、耳元でささやかれた。
「こんな格好で踊っていたから体が冷えてしまったようだ。……寝台へ行こう」
熱くかすれた声。サーシアの胸がどきんと跳ねる。
ひざ裏をすくい上げられ、抱きかかえられて運ばれた。寝台に下ろされてすぐ、レオがおおいかぶさってくる。
再開したキス。今度は軽く触れ合うだけではなくとても深くて。
レオの手はサーシアのガウンと夜着を乱し、レオの唇はサーシアの頬から耳元、首筋から胸元へと優しいキスを降らせていく。
反応を見るかのように時折向けられる瞳の中に、サーシアは熱っぽいゆらめきを見る。
サーシアとの時間を多少なりとも取れるようになってから、レオは幾夜かサーシアを抱いた。
最初のうちは慣れなくて余裕のなかったサーシアも、回数を重ねるうちにわずかずつレオの様子をうかがえるようになって、レオの瞳の中にゆらめくものがあるのに気付いた。
それは、恋するサーシアの瞳に映るもののようで、けれども全く違うもの。サーシアを見ているようで見ていない、サーシアに快楽を与えながら自身もそれを追い求める瞳。快楽を味わい尽くせば、たちまちそのゆらめきは瞳の中から消えてしまう。
サーシアをさんざん昂ぶらせたレオが、サーシアの瞳をのぞきこんでささやく。
「愛しているよ、シーナ」
甘い言葉をささやくレオの瞳に宿るのは、はかなく消えてしまうゆらぎばかり。
口づけがまた下りてきて、サーシアは胸に痛みを覚えつつもまぶたを閉じ、レオの首に腕を回した。
サーシアに与えられた王妃の部屋からは、崖下の浜と城からそこへ至るための階段が見える。
ある日サーシアは、遠目でも何となくわかる人影に気付いて、こっそり部屋を抜け出しその人物を追った。
サーシアが浜にたどり着いた時、その人物は岩の影にたたずんでいた。
お忙しいはずなのに、何故こんなところにいらっしゃったのかしら……?
それはレオだった。近習のリヒドも連れず、波打ち際に立ってひたすら海をながめている。
やがてため息をつくと、レオは懐から何かを取り出し、手のひらに置いてじっと見つめた。それが何なのか知りたくてついつい距離を詰めてしまうと、足音に気付いてレオがはっと振り返る。
こわばった表情は、近づいてきたのがサーシアだとわかると、ほっとしたように和らいだ。
「シーナ」
優しい呼びかけに近づいてもいいのだと感じて、サーシアはさくさくと砂を踏みレオの傍らに立った。そしてレオがとっさに握りしめてしまったこぶしをじっと見つめる。
「気になるかい?」
サーシアはこくこくとうなずく。
「……君にだったらいいか」
レオがためらいがちに開いた手のひらの中には、なつかしいピンクの色合いを持つ一枚のうろこがあった。
「誰にも内緒だよ。──これは人魚のうろこなんだ」
サーシアは目をみはり、レオを見上げる。レオはいたずらっぽく笑った。
「嘘じゃないよ」
サーシアが驚いたのは、信じられなかったからじゃない。
レオを助けたあの夜、手当を受けている際にリリアからうろこがはがれていると言われた。その時の一枚がレオの手元にあり、レオがそのうろこを人魚のものだと確信していたからだ。
やっぱりあの時見られてたんだ……。
にわかに心臓が嫌な鼓動を打つ。レオに人魚の存在を知られてしまっていた。どうするつもりなのだろう。人魚を手に入れられれば、きっと国益になるだろう。国を治め発展に尽力する王が、人魚の存在を見過ごすとも思えない。
「大丈夫。このうろこの持ち主は、とても優しい人魚なんだ」
サーシアが表情を曇らせたことで、人外の存在に怯えたと思ったのだろうか。レオはサーシアを怖がらせまいとするように、いつもよりさらに穏やかに話して聞かせる。
「今から三カ月ほど前、あれは満月の夜だった。船の上でパーティーが催されてね、……わたしはうっかり酒を飲み過ぎて、船から落ちてしまったんだ。その時助けてくれたのがこのうろこの持ち主なんだ。わたしが意識を取り戻したことに驚いて、跳ねるようにして海に戻ってしまったんだけどね。その時彼女の下半身に魚のような尾ひれがあるのを見たんだ。それに普通の魚は、こんなに大きなうろこを持たない」
レオはうろこをいとおしむように指先でなでる。
「船はここの沖合に出ていたんだけど、海流の関係であそこで海に落ちながらここに流れ着くのは考えられないことなんだ。助けられた夜の記憶はあいまいだけど、人魚の驚いた顔や大きな尾ひれ、冷たい水の中で感じた腕のぬくもりは、今でも鮮明に覚えている」
サーシアは更に信じられないものを見た。
レオの表情に浮かぶ、寂しげだけれどしあわせそうな笑み。
“シーナ”には見せることのない表情を、ここで見ることになるなんて。
今、レオの瞳に宿るのは、寝台の中で刹那に見られるゆらめきに似た、熱にうかされたような熱いゆらめき。
サーシアも自分の瞳の中にそれを見たことがあるからわかる。
レオは恋をしているのだ、人魚だったサーシアに。
サーシアは嬉しさに跳び上がってしまいそうになった。
レオ様はわたしが好きなんだ……!
だったら話は早い。サーシアが──“シーナ”があの時の人魚だとわかってもらえばいい。
サーシアは喜々として、うろこと自分を交互に指差して見せた。
このうろこの持ち主はわたしなの。わたしがあの時の人魚なのよ!
そう伝えたいのに、レオは困ったように目尻を下げる。
「これが欲しいのかい? ごめんね。これはあげられないんだ」
違う! 欲しいんじゃないの! これは以前のわたしのものだったの!
首を振り、もう一度同じしぐさをしてみるけれど、レオはますます困った顔をして、子どもをあやすようにサーシアの頭をなでる。
「君もこの浜で見つかったということは、きっとその人魚が助けてくれたからだと思うんだ。わたしたちは人魚に助けられたんだよ。だから、恩人である彼女たちの平和を乱さないために、このことは内緒だよ」
どうして、どうしてわかってくれないの……?
サーシアはうろこが自分のものであったと訴えるのをあきらめ、レオの肩口に頭を抱え込まれるようにされ、もたれかかって震えるまぶたを閉じた。
どうしたら、わたしがあの時の人魚だと伝えられるだろう……。
得意ではないけれど、サーシアは絵を描いてみた。上半身はニンゲンで、下半身は魚。髪はサーシアと同じく腰までの長さにして、ちょっと恥ずかしかったけど貝の胸当ても描いた。
それを夜、レオが寝室に訪れた時に見せる。
「これは……人魚?」
やはりわかりづらかったらしく、レオはしばし考えてから尋ねるように言う。
よかった、通じた。
わかってくれたのが嬉しくて勢いよくうなずくと、サーシアは人魚の絵と自分を交互に指差す。
けれど、レオは昼間のように困った顔をしただけだった。
伝わらない……。
サーシアは寝台の上によじ登ると、横座りをして足を投げ出し、両足をそろえて人魚だった時泳いでいたように足をばたつかせた。それからもう一度自分の描いた人魚の絵を指差す。
「……人魚になりたいの?」
違う、と首を横に振ろうとしたけれど、その前に寝台に上がってきたレオが覆いかぶさってきて、サーシアの唇に唇を重ねた。
「恩人のようになりたいなんて……かわいいことをいうね」
サーシアに否定をさせないまま、レオは二度三度とサーシアにキスをする。
「君は、君のままでいていいんだよ。十分かわいいから」
サーシアの素肌に触れながら、レオはささやくように言う。
「愛してるよ、シーナ」
いつものように紡がれる、偽りの言葉。
どうして伝わらないんだろう……。
レオを受け入れながら瞳を閉じたサーシアのまなじりから、一筋の涙がこぼれた。






