7、戻らない声
夢みたい……こんなに簡単に恋が叶うなんて。
真っ白できれいなドレスを着てレオの傍らに立ちながら、サーシアは未だに信じられないでいた。
──・──・──
薬を飲んで気絶した後、次に目覚めた時にはサーシアは見知らぬ部屋の中で大きな入れ物に入れられ、泡の立つ温かい水で体をきれいにされていた。
「気付かれましたか? お加減はいかがですか?」
若い女の人が親切に声をかけてくれたけれど、サーシアは返事をしようとして声が出ないことに気がついた。
ホントに声を取られちゃったんだわ……。
魔女のおばあさんが、どうやってサーシアの声を自分のものにしたのかが不思議でならない。
何かを話しかけたかと思うと、喉を押さえて何もしゃべらないサーシアに、サーシアの体を洗ってくれていた女の人たちは心配そうに顔を見合わせた。
「わたしが何を言っているかわかりますか? わかるようでしたらうなずいてください」
言葉はわかる。サーシアは言われた通りこくんとうなずいた。
「喉が痛いのですか? しゃべれますか?」
今度は首を横に振る。しゃべれないけど、喉は痛くない。
「と、とりあえず後でお医者さまに診ていただくことにして、入浴を済ませてしまいましょう。いつまでもお風呂に入っていたら、疲れてしまいますわ」
ここはお風呂といって、こうして体をきれいにするのは入浴というのか。海の中で暮らしていたサーシアに経験のないことだったので、興味深く思いながら彼女たちのするに任せる。
「立ってください」
そう言われてどきっとした。立つのも初めての経験で、吟遊詩人の語った物語の千の針を差すような痛みという件を思い出してしまう。
「滑りますから気を付けてください」
女の人たちが手を貸してくれてそろそろと立ちあがってみたけれど、足の裏には一本の針に刺される痛みすらなかった。それよりも、水から出たことによる体の重みのほうがつらい。
体を支えてもらったまま体についた泡を流してもらって、お風呂から出ると、ふわふわな布で体の水分を拭われた。
支えがなくては立っていられないサーシアを見て、女の人たちは体調が悪いのだと思ったのだろう。
「大変お疲れのようですね。急いで髪を乾かして休みましょう」
柔らかい服を着せられて鏡の前に座らせられ、髪を拭いてもらっている最中に、最初の幸運は訪れた。
新たに部屋に入ってきたのは、サーシアが二度と海に戻れなくてもいいから会いたいと思った人だった。
「し、失礼」
そう言って行ってしまおうとする男性に、サーシアは何とか立ちあがって近づいた。
待って! わたしはあなたに会いに来たの!
そう言いたいのに、声が出ない。この時初めて、声が出ないことにもどかしさを覚えた。
「君は──」
その後女の人が駆け込んできて言い合いになって、もう一人の女の人が現れて、サーシアが会いたかった人は行ってしまった。追いかけようとしたのを、お風呂の時からずっといた女の人たちにやんわりと止められる。
「後でお会いできますから、身支度を済ませてしまいましょう」
驚いたことにまた服を替えさせられる。ニンゲンの服にはいろんなものがあるらしい。サーシアが今着せられた頭から被る服と、周りにいる女の人たちが着ている服はまったく違う形だ。
そうして柔らかい寝台の中へ追い立てられるように入れられると、また知らない人が顔を出した。そう白髪の人のよさそうなおじいさんは医者だそうで、サーシアの脈を取ったり喉をのぞき込んだりして、いくつかの質問をしてきた。それに対し、喉は今痛くないことと、以前は喋れていたということをうなずいたり首を横に振ったりすることで伝えると、「お大事に」と言って部屋から出ていった。
その後サーシアが会いたかった男の人が部屋に入ってきたけど、話しかけてもらえなかった。男の人のすぐ後にやってきた女の人に質問攻めにあって。
この時、しゃべれないことがとても都合よかった。本当のことなど当然言えない。だから女の人の質問にうなずいたり首を横に振ったりしながら、話を作り上げていった。
サーシアはこの国の人たちの知らない遠い遠い国の生まれで、長い航海の途中で嵐にあったということに。一緒の船に家族も乗っていたことにしたら痛ましい顔をされてしまい、それだけは申し訳なく思った。
それから熱い食事をもらって、お腹が空いていたから熱いのを我慢して食べ終えると、食事の最中席を外していた二人がまた戻ってきた。
そしてサーシアの想い人から思わぬことを言われたのだ。“わたしのお嫁さんにならないかい?”と。
もちろんサーシアにとって願ってもないことだったから、何度も何度もうなずいた。
再会してすぐプロポーズされるなんて、こんな幸運なことがあってもいいのだろうか?
サーシアがうなずくと、彼は女の人たちにサーシアの身支度を頼み、ドレスという上半身は窮屈で下半身はひらひらとした服を着せられて、彼と一緒に部屋を出た。
向かったのは、寝室でちょっとだけ見た女の人のところだった。
「母上、わたしは彼女と結婚することにしました」
「この子と!? あなた、ダリスは──」
「ダリスは、本当はわたしと結婚したくなかったのです。ですがわたしが結婚相手を決められないのを見るに見かねて、母上の提案に対し黙っていただけなのです。彼女はわたしとの結婚に同意してくれました。母上はわたしに、好きな人を結婚相手に選んでいいと言ってくださいましたね? その気持ちが今も変わらないのでしたら、彼女との結婚を認めてください」
“好きな人を結婚相手に”
この言葉にサーシアの心は舞い上がる。
この人はわたしを好きになったから結婚相手に選んでくれたのだわ。
魔女のおばあさんはとても難しいことのように言っていたけど、好きな人の心を射止めるのなんて簡単なことだったじゃない。
でも、サーシアの想い人が王子だったことは、魔女のおばあさんが言った通りだった。
ここブリタリア王国唯一の王子で、あと一週間で二十歳の誕生日を迎え、国王に即位するのだという。国の昔からの決まり事で、その際に結婚していなければならず、サーシアは結婚式の準備のため、あちらこちらと引っ張り回された。
──・──・──
助けてもらった日の次にサーシアの想い人──レオ王子とまともに会うことができたのは、結婚式当日だった。教えてもらった通り儀式をこなし、サーシアの頭上に王妃の冠が載せられる。
これからパレードだと言われ、服を着替えて城の玄関ホールに出ていくと、たくさんの人たちに歓声で出迎えられてサーシアは怯んだ。
サーシア自身がニンゲンになったことで、ニンゲンが怖くなくなったと思っていたのだが、やはり大勢のニンゲンを目の当たりにすると恐怖に足がすくむ。
階段の上で立ち止ってしまったサーシアを、先に来て待っていたレオが階段を上がって迎えに来た。数段下に立って、サーシアに手を差し伸べる。
「わたしがいるから大丈夫。行こう、シーナ」
シーナ──レオが、自分の名前を名乗れないサーシアにつけてくれた名前。
レオが好きだと言ってくれたのに、サーシアの声は戻らなかった。
魔女のおばあさんは、レオの心を射止めれば声を返してくれると言っていたのに、約束を破られてしまったのだろうか。それとも、心を射止めるだけでは足りないのかもしれない。結婚式を最後まで終えなければならないとか。
声を返してくれるというのは嘘で、このまま一生しゃべれないで終わるかもしれない。そんな不安もよぎる。
でも、こうして手を差し伸べてくれるレオがいるから大丈夫。
サーシアはレオの手のひらに自分の手を重ねる。
しゃべれなくても、レオとちゃんとやっていける。
この時のサーシアはまだ、レオの優しさを信じ切っていた。
慌ただしい一日が終わると、サーシアは新しい部屋に案内された。
「今宵からこちらが王妃様のお部屋になります」
今まであてがわれていた客室より広くて豪華な部屋。テーブルやソファの間をぬって、奥にある扉まで通される。
「こちらが寝室になります。王様と一緒にお使いいただくことになります。どうぞ中で王様をお待ちください」
サーシアが中に入ると、背後で扉が閉じられる。
寝台の脇にあるランプ一つで照らされた部屋は、窓に厚いカーテンも下りていて薄暗かった。天蓋付きの大きな寝台が中央に置かれただけの部屋。これから毎日、レオとここで一緒に眠ることになる。
いや、ただ眠るだけじゃない。
そのことを思い出し、サーシアはかぁっと頬を火照らせる。
レオの幼馴染であるダリスという女性から、夜の夫婦生活というものを多少教わっていた。世継ぎを産むために、寝台の中でレオに身をゆだねなければならないのだと。
待つようにって言われたけど、ど、どうやって待ってればいいのかしら……?
寝台に入って? それとも腰掛けて?
寝台の側で立ったまま悩んでいると、サーシアが入ってきたのとは反対側の扉が開く。
入ってきたレオと目が合うと、レオは照れたようにサーシアから少し視線を外した。サーシアをあまり見ないまま側まで歩いてくると、サーシアの肩を抱いて寝台の端に腰かけさせる。レオもその隣に腰掛けて、緊張をほぐそうとしているかのように大きく息をついた。
「こう改まってしまうと、何とも照れくさいものだね」
苦笑じみた声が聞こえてきてサーシアがレオのほうを向くと、レオもサーシアを見ていてまた視線が合った。
「その……今からすることについて、何か聞いてる?」
目元を赤くしたレオに尋ねられ、サーシアは恥ずかしくてうつむき加減に目をそらすと、小さくこくんとうなずいた。
「……怖い?」
うつむいたサーシアに、レオは声をひそめて問いかける。
初めてはすごく痛いと聞かされたけど、怖くなんかない。レオのすることだったら、喜んで受け入れられる。
けど恥ずかしくてレオの顔を見られないまま小さく首を横に振ると、レオはそっとサーシアを抱きしめてきた。
「大丈夫。優しくするから、安心してわたしに身をゆだねて」
うなずいて返事をする代わりに、サーシアはレオの背に腕を回す。レオの背は大きくて、サーシアの腕はかろうじて手と手が重なり合うくらいしか届かない。そうしてぎゅっと力を込めると、不意にめまいのようなものがして、サーシアはいつの間にか寝台に横たえられていた。
レオの顔が間近に迫り、唇を重ねられる。
二度目のキス。一度目のキスは結婚式で。
重なったかと思ったら、すぐに離れていく。もう少しして欲しいと思っていたら、レオがささやくように言った。
「愛してるよ。シーナ」
サーシアの胸はときめく。
わたしも愛してます、レオ様。
そう返したいのに、声が出ないのがもどかしい。
結局結婚式が終わっても、サーシアの声は戻らなかった。
何が足りないんだろう。やっぱり魔女のおばあさんに騙された? ……ううん、こういう機会をくれたおばあさんに感謝こそすれ、声を返してもらえなかったからといって怒る筋合いはない。おばあさんが本当に欲しいものは何なのかわからないけど、サーシアは声以外に取られたものは何もないのだから。
それに、今からすることを終えてからでないとレオの心を射止めたことにはならないのかもしれない。
愛の言葉をささやいた直後、レオは再び唇を下ろしてきた。今度はついばむように唇を動かし、やがてサーシアの唇を割って舌を滑り込ませてくる。
口づけが深くなっていくのと同時に、レオの手のひらがサーシアの体の線をなぞり、ガウンの合わせ目をほどいていく。
サーシアは壊れそうなほど胸をどきどきさせながら、レオの動きを受け止めていった。
小鳥のさえずり。
これも海で暮らしているうちは聞いたことのないものだ。
可愛らしい鳥の声が聞こえてきて、サーシアはゆっくりと目を覚ます。傍らにぬくもりを感じてそちらを見ると、レオが目を閉じて穏やかな寝息を立てていた。
目覚めて一番最初に、愛しい人と会える。
そのしあわせをサーシアは噛みしめる。
教えられた通り、レオに愛される行為は最初とても痛くて、今も体の節々が痛み全身にだるさを感じる。でもそれすらもレオが与えてくれたものだと思うと、愛しくてならなかった。
あ、そうだわ……。
サーシアはそっと体を起こし、喉に手を当てて声を出してみる。
昨夜は終わった後すぐに寝てしまったから、まだ確かめていなかった。
声は戻っているだろうか?
しかし、ちゃんと声を出しているつもりでも、サーシアの喉からはかすかな呼吸の音しか響かなかった。
戻ってない。どうして?
「シーナ……起きたのかい?」
レオのけだるい声がしたかと思うと寝台が揺れて、サーシアはレオにむきだしの肩を抱かれていた。
「おはよう」
そう言ってレオはサーシアの額に口づける。
「体は大丈夫?」
昨夜の行為を思い出し、真っ赤になりながらサーシアはこくんとうなずく。
「今日は一日ゆっくりしているといいよ。昨夜が初めてだったんだから、無理しないほうがいい」
気遣ってくれているのはわかるけど、こういうことを聞かされるのは恥ずかしすぎる。顔を上げられないでいるうちに、控えめなノックの音が聞こえてきた。
「王様、起きてらっしゃいますか? 本日より政務を執り行っていただかなくてはなりません。お早く起床願います」
レオの従者で、レオが即位したのと同時に王の近習に昇格したリヒドの声だ。
「わかった。すぐ行く」
返事をしてサーシアの肩を抱いていた腕をほどくと、寝台からするりと下りる。裸身に夜着をまとうと、シーツで胸元を隠したサーシアを振り返り、唇についばむだけのキスをしてきた。
「愛してるよ、シーナ」
そう言って扉の向こうに消えていく。
一人残されたサーシアは、寝台の上で、レオに口づけられた時のそのままの姿勢で、体をこわばらせていた。
レオは優しい。
大勢の人に怯えるサーシアに手を差し伸べてくれたし、痛みを伴う行為の最中もずっといたわってくれた。
そして繰り返してくれた愛の言葉。
けれど、愛の言葉を口にするレオの瞳には、サーシアとの結婚を父王から言い渡されて“観念することだね”と言って肩をすくめた幼馴染のセラと同じ優しさしかこもっていなかったのだ。




