5、片思い
誕生日の大脱走を境にして、サーシアの様子はがらりと変わった。言いつけを守り城で大人しくしているだけでなく、気付けば悲しそうにため息をついている。
いつも元気でみんなを困らせることばかりしていたサーシアの豹変ぶりに、父王も、兄姉たちも心配して、いつもより頻繁に構おうとする。
「サーシア、城から出てはいけないが、何でも欲しいものを取り寄せてやるぞ」
「今は何もいらないわ、父さま」
「じゃあ街で評判の劇団を呼び寄せようか? それともサーシアはサーカス団のがいいかな?」
「兄さま、今はそんな気分じゃないの」
「お城の中全体で鬼ごっこをしましょう! 手の空いている者たちを集めれば、かなりの数になるわよ」
「姉さま、わたしもう、鬼ごっこして遊ぶ歳じゃないのよ?」
城の中を泳いでいると誰か彼かに話しかけられてしまって疲れるので、サーシアは次第に私室にこもりがちになる。
私室にこもるようになると、サーシアの気分は更に沈んでいった。
窓辺から海の上のほうを見上げ、サーシアはぽつんとつぶやく。
「海の上に出たいな……」
聞き付けたリリアは、もう何度目になるかわからないその問いに、ため息交じりに答えた。
「成人の儀式をすっぽかしてしまわれたのは、サーシア様ではありませんか。儀式は改めて次の満月の日に行われますから、それまで我慢してください。そうですわ。今街にサーシア様がお好きな話をよくする吟遊詩人が訪れているそうですよ。わたしとセラ様をお供に付けてくださるなら、外出のお許しを王様にお願いしてみますわ」
リリアは、サーシアが落ち込んでいるのは、城の外へ出してもらえないせいだと思い込んでいるらしい。それがいいとばかりに弾んだ声でサーシアに勧める。
そうじゃないのよ、とも言い出せず、サーシアは深いため息をついた。
サーシアを喜ばせることができなかったとわかると、リリアはしゅんとして調度品を磨く作業に戻った。
父よりも、兄姉よりも親しいリリアにでも言うわけにはいかない。
海の上に出て、ニンゲンを助け、そのニンゲンに姿を見られてしまったなどとは。
それはプリンズランドのみならず、人魚全体における禁忌中の禁忌だった。人魚を見たという噂がニンゲンの中に広まると、ニンゲンはやっきになって人魚を探し出そうとするという。ヒトと同じような上半身を持ちながら、ヒトとは違う珍しい生き物を手に入れんとして。その肝は不老不死の妙薬になるなどという言い伝えさえあるらしい。
ニンゲンが人魚を探して海を荒らし回るようになれば、人魚たちは決してニンゲンたちに姿を見られないよう、ほとぼりが冷めるまで海の底でじっと息をひそめていなければならなくなる。海面近くでしか手に入らない食べ物などが手に入らなくなるのだ。
なのにサーシアは、もう一度あのニンゲンに会いたくて仕方なかった。
あれからもうすぐ三週間が経つのに、ニンゲンたちが人魚を探しているという話を聞かないからかもしれない。
見られたと思ったけど、もうろうとしていた様子だったから、もしかするとサーシアが人魚だと気付かなかったかもしれない。気付いていたとしても、忘れてしまったかもしれない。そうだとしたら嬉しい。人魚が何人たりとも海の上に出ないよう厳戒態勢を布かれることはなくて、あのニンゲンをこっそり見にいくことができる。
でもどうしてなんだろう。何故たった一度会っただけの、しかもニンゲンなんかに、こうも会いたくなるのか。
「……ねえ、リリア。リリアは誰かに会いたくて仕方なくて、そのことで頭がいっぱいになってしまうことってある?」
何気に聞いただけなのに、リリアは目をまんまるに見開いて、調度品を磨いていた海藻の布をほっぽり出してサーシアの側へ泳いできた。
「まあ、サーシア様! いつの間に恋などなさったんです?」
「え?」
思わぬことを言われ、今度はサーシアが目を丸くする。リリアは両手を組んではしゃぐように言った。
「会いたくて仕方ないという気持ちは、間違いなく恋ですわ! その人の顔をずっと見ていたくて、いつでも側にいたくて、それで苦しくなるんです。サーシア様は恋をなさったから、苦しそうなお顔をなさってたんですね!」
恋──?
サーシアは呆然とする。
「お相手はどなたです? どんな方でもサーシア様がお好きになった方ですもの。きっと王様が結婚させてくださいますわ」
「……リリア、わたしそういう相手がいるなんて、一言も言ってないんだけど」
「え? 違うんですか?」
「気まぐれに聞いてみただけ。その様子だと、リリアにもそういう相手はいないのね」
言うだけ言って、サーシアは再び窓の外に目を向ける。
何でもない振りはしたけれど、サーシアの心臓はばくばくと鼓動を速めていた。
わたしが、あのニンゲンに恋?
そうなのかもしれない。サーシアは彼のことを思う度、胸があったかくなりしあわせな気分になった。そして側に行けないことがつらかった。
もう一度会うことができても、サーシアは人魚、彼はニンゲン、海と陸に隔てられて結ばれること叶わない。
「ちょっと寝てくるわ」
まだ側にいたリリアの横をすり抜けて、この部屋と続きになっている寝室へ向かう。
「まあ、お体の調子が悪いのですか? 医者をお呼びしましょうか?」
追いかけてくる声に、サーシアは振り返らず答えた。
「ちょっと気分がすぐれないだけだから、寝ていれば治るわ。しばらくの間、一人でゆっくり寝かせてね」
「わかりました」
分厚く幾重にも重なった昆布のカーテンをくぐり抜け寝室に入ると、海藻のやわらかい繊維で織りあげた肌触りのいい寝具の使われた寝台にもぐりこんだ。
恋を自覚してしまった途端、悲しくて仕方なくなって、リリアの前で泣き出さなかっただけでも上出来だと思った。
シーツを頭からかぶり、声を殺して涙を流す。
いくら父さまが偉大でも、ニンゲンと結婚なんて無理よ……。
叶わぬ恋に、胸が張り裂けそうになる。
これはサーシアを心配してリリアが感じた痛みとは違う。
苦しくてたまらない。忘れようとしても忘れられず、あきらめようとしてもあきらめられない。
どうしたらこの痛みから逃れることができるの?
恋をするのも初めての、まだ大人になったばかりのサーシアにはわからない。
「サーシアが伏せってるって?」
分厚いカーテン越しに、兄の声が聞こえてくる。
「ご気分がすぐれないそうです。眠れば治るからとお医者をお断りになられまして、しばらくゆっくりお休みになりたいそうです」
リリアが答えると、兄はぼやくように言った。
「サーシアのお気に入りの吟遊詩人が、今街に来ていると聞いてね」
「その話は先程わたしからサーシア様に申し上げたのですが、サーシア様はため息をついてしまわれて、乗り気でいらっしゃらないご様子で……」
「そうか……。一体サーシアはどうしてしまったんだろう。そんなにセラとの結婚が嫌だったんだろうか?」
「そのお話でしたら、王様はとっくになかったことにしてくださったではありませんか。サーシア様を想い煩わせていることはきっと別のことです」
兄とリリアの会話はまだ続いていたけど、サーシアは考え事をするのに集中した。
サーシアのお気に入りの吟遊詩人といえば、古今東西の恋物語をよく語ってくれる吟遊詩人だ。この国に伝わるおとぎ話もよく知っていて、サーシアはその中の一つが特にお気に入りだった。
ニンゲンの男に恋をして、魔女のおばあさんからニンゲンになる薬をもらって会いに行った人魚の娘の話。その恋は報われず、娘は海の泡となって消えてしまった。
この話のことで、姉たちから脅されたことがある。
『魔女は実在するって話よ~。何でも街外れにある渓谷に住んでいて、いつも妖しい薬をぐつぐつ煮込んでるんですって』
『ちっちゃいサーシアなんか、おばあさんに近づいたら薬の鍋で一緒に煮られちゃうんだから』
『レーメル様、アイレス様、やめてください! サーシア様が興味をお持ちになって渓谷に近づいたりしたら困ります。サーシア様、渓谷は深くて真っ暗で、何があるかわからない危険な場所ですからね。決して近づいてはいけませんよ』
── そうだ。その魔女のおばあさんが見つかったら、もしかするとあのニンゲンに会いに行けるかもしれない。
そうひらめくと、サーシアの涙は引っ込んだ。
もう一度会えばそれだけで満足できてしまうかもしれない。ほんのちょっと、一晩だけニンゲンになれれば……。
思いついたら、いてもたってもいられなくなった。
サーシアは夜まで寝室にこもり、リリアが今日の務めを終えて退室したのを見計らって、こっそり城を抜け出した。
真っ黒い穴がぽっかり空いているようで気味が悪かったため、リリアに言われなくても近づいたことのなかった渓谷。
サーシアは布に巻いて隠し持っていた夜光虫のランプを取り出し、それで前方を照らしながらゆっくりと下りていった。
おばあさんの家は簡単に見つかった。何しろ、真っ暗な渓谷の中で、一か所だけほのかに明るかったからだ。近づいてみれば、それは岩やぼろぼろの板切れなどを集めたあばら家だった。
「あのぅ、もしもし。ここは魔女のおばあさんの家でしょうか?」
「そうだよ」
中からしわがれた声が返ってくる。
……こんなに簡単に見つかっていいんだろうか。
怪しいと想って返事をためらっていると、もう一度中から声がかかった。
「ニンゲンになるための薬が欲しいんだろ? あたしゃ今手が離せないんだ。勝手に入っておいで」
ますます怪しいと思ったが、ニンゲンになるための薬と聞いて、誘惑と好奇心に誘われて海藻の入り口をくぐった。
中は、外から見るよりずっと明るかった。小さな部屋のあちこちに夜光虫のランプがはめ込まれていて、大小さまざまな壺が傾いた棚にたくさん置かれているのがよく見える。部屋の真ん中には大きな鍋があり、しわくちゃな顔をした背中のまがった老婆がひしゃくで中をかきまぜていた。鍋の下からは熱湯が吹き出しているらしく、部屋の中の海水はかなり熱い。
「おまえさんがゆであがっちまわないうちに、話を済ませてしまおうかね」
「……何でわたしが、ニンゲンになるための薬を欲しがってるってわかったんですか?」
「ひぇっ、ひぇっ、ひぇっ」
老婆は鍋の中をかき混ぜながら、不気味な笑い声を立てる。
「あたしゃ魔女だよ? ここにいながら何でもわかるのさ。のう、プリンズランドの第八王女サーシア、おまえさん、ニンゲンの王子に恋をしたんだろ?」
魔女だから何でも知っているという言葉に納得しつつ、自分でもまだ信じられないでいる恋心を言い当てられて、サーシアはうろたえる。
「えっ、あの」
「それは間違いなく恋だよ。おまえさん、王子に一目ぼれしたんだ。もう一度会えば気持ちが冷めるもんじゃない。それに、一時的にニンゲンになって、またもとの人魚に戻るなんていう都合のいい薬なんざ、あたしゃ持ってないよ」
そんなに簡単に事が運ぶはずがないか……。
肩を落としてがっかりする。そんなサーシアに老婆は言った。
「あんたにゃ、がっかりしてる暇なんかないよ。早くお決め」
「な、何を……?」
戸惑うサーシアに、老婆はにたぁと笑う。
「王子に会いに行くのか、あきらめるのかをだよ。ニンゲンになる薬を飲めば、一生海へは戻れない。だけどここであきらめたら、あんたは一生ニンゲンになれない。あんたがいなくなったことに、城の奴らはもう気付いてるからね。すぐにここまで捜しに来るよ。前回、あんたが王子を助けた日も、ここまで捜しに来たからね。あんたが掟を破って成人の儀式の前に海の上に出て、ニンゲンを助けたことは知ってたけど、捜しに来た兵士たちには黙っといてやったよ。感謝おし」
「それはありがとう。で、ここであきらめたら一生ニンゲンになれないってどういうこと?」
「気持ちのこもってない礼だねぇ。まあいいさ。想像つかないかい? あんたがこの辺で見つかったとする。そうすると、あたしの家に用事があったと誰だって気付く。あんたはおとぎ話と噂を頼りにここまで来たと、親しい者たち──世話係のリリアやあんたの姉さんたちは気付くだろう。“ニンゲンになりたいだと? 馬鹿を言うな!”と王は怒る。脱走の得意なあんたは今まで以上に厳重に部屋に幽閉されるか、始終監視付きで暮らさなければならなくなるのさ」
幽閉か監視付き……。
サーシアはぞっとして身を震わせる。
「だが、あんたがニンゲンになるっていうなら、あたしの力で一瞬にしてあんたが王子を引き上げた浜に送ってあげるよ」
要するに、捜索の手に見つからないよう、ニンゲンになれる場所まで送ってくれるということらしい。
思案らしい思案をしないまま、サーシアは答えた。
「じゃあニンゲンになります」
老婆はあきれた顔をする。
「あんた、もうちょっと考えたらどうだい? 二度と王や兄姉たちや、世話係のリリアと会えなくなるんだよ?」
サーシアは泣きそうになりながら言った。
「もういっぱい、いっぱい考えたもの。ニンゲンに会いたいなんて思っちゃいけない、忘れなきゃって。でも忘れられなかったの。父さまや、兄さまや姉さまやリリアに会えなくなっても、あのヒトに会いたいの」
「……そうかい。あんたの覚悟はわかったよ。じゃあニンゲンになる薬をやろう」
「あ、ちょっと待って」
老婆はおどろおどろしく告げて場を盛り上げようとしたのに、サーシアの能天気な声に雰囲気を挫かれる。
「さっきまで泣きそうな顔をしてたくせに、なんだっていうんだい!?」
「薬はタダじゃないんでしょ? 何が欲しいの?」
老婆は目を丸くして、それから大笑いした。
「あんたてっきり考え無しな箱入り娘かと思ったけど、物事の道理を多少はわかってるみたいだね。その通りさ。あたしも苦労して作った薬を譲るんだからね。それ相応の報酬をもらうよ。そうだね、あんたのその可愛らしい声をおくれでないかい?」
にやにや笑う老婆に、サーシアは小首をかしげる。
「それも不思議に思ったのよ。おとぎ話でも声を引き換えにしたってことになってるけど、おばあさんの声はしわがれてるわよね。報酬の声はどこへいったの?」
老婆は大きく目を見開き、それから大声で笑い出した。
「あっはっは! さすがはアガートラムの娘だよ!」
「アガートラムって、父さまのこと? 父さまを知ってるの?」
老婆はサーシアの質問に答えず、鍋から離れ、棚から小さな壷を持ってきた。
「そうさ。あたしが本当に欲しいのはあんたの声じゃない。──これは試練さ。想いを伝える手段を持たずに相手の心を射止められるか、あんたを試したいのさ。それができた時、おまえは初めて本当のニンゲンになれるし声も返してやろう。だが、想いが届かずおまえがあきらめてしまったら、その悲しみがおまえの体を溶かし海の泡に変えてしまうからね。どうだい? それでもこの薬が欲しいかい?」
サーシアはごくりと喉を鳴らし、そして覚悟を決める。
「それでも欲しいわ」
「よく言った!」
老婆はサーシアに壺を押しつける。
「浜に上がってから、壺の中身を全部飲み干すんだよ! そら! お行き!」
サーシアが壺を両手にしっかり持った途端、視界がぐるっと一変した。
……もうちょっと親切に、浜まで上げてくれたらいいじゃない。一瞬で移動させられるなら、それぐらいの手間わけないと思うのに。
波の力を借りて懸命に陸に上がりながら、サーシアは心の中でぶつぶつ文句を言う。
が、すぐに思い直した。浜に上げてもらうとしても、もし空中に移動させられてしまったら、落っこちた時すごく痛い思いをするだろう。陸に上がる苦労と多少の痛み、落下する恐怖と痛み、どっちがいいかと言ったら、どちらかといえば前者だ。
ようやく浜に上がったサーシアは、壺を両手に持ち直して考えた。
これを飲んだら父さまや皆と二度と会えなくなる。
あのヒトの心を射止められなかったら、海の泡になってしまう。
でも、見事射止めることができれば、本当のニンゲンになれるし、声も返してもらえるのよね? 心を射止めるっていうのは、つまり両想いになればいいってことかしら? そうしたらもしかしてあのヒトと結婚できちゃったりして!?
「きゃー!」
サーシアは自分の都合のいい考えに、悲鳴を上げてもだえる。
あ、いけないいけない。
そういえばこの薬、気絶するほどまずいっておとぎ話にあったような……。
サーシアの手のひらにすっぽり収まる小ささだけど、この中にいっぱい入ってるものを一気に飲み干すのは大変そうだ。
それでもここまで来たからには、後戻りなんかしない。
サーシアは息を止めて壺のフタを開け、鼻をつまんで口の中に壺の中身を流し込む。
思ったよりひどい味ではなかった。けれどひどいめまいがして、座った状態から仰向けに倒れてしまう。
薄れゆく意識の中、サーシアは思った。
そういえば、足の裏の話を聞き忘れたわ。歩くたびに千の針で刺されるような痛みがあったらいやだなぁ……。
きっぱり本当のことだと告げられても、ニンゲンになるのをやめようとは思わなかったけど。
そうしてサーシアの意識はぷっつりと途切れた。




