4、芽生える恋
海に落ちたのは覚えている。
だが気付いた時、目の前には月の光を浴びた少女がいた。貝の胸当てと肩に薄衣を羽織っただけの半裸の姿。つぶらな瞳、小さくてかわいらしい鼻、唇は小さくてもふっくらとしている。
レオと目が合うと、少女は怯えたように顔を引いた。
「君は……」
かろうじて一声声をかけると、少女は跳ねるようにしてレオの視界から消えた。重い頭を何とか上げて少女が消えた先に目をやると、大きな魚の尾をくねらせて、少女が海に飛び込むシルエットが見えた。
……人魚?
確認できたのはそこまでだった。泥酔し溺れかけた疲労が襲い、レオは再び昏倒した。
「レオ! この馬鹿! しっかりして!」
なじみのある女性の声に罵倒され、体を強く揺さぶられる。
「ダリス様、揺すってはなりません!」
この声も知っている声だ。体を揺すっていた手が離れ、手首や首筋に大きくごつごつした手が当てられる。
「レオ王子が見つかったぞ!」
「急いで女王様に報告を!」
人の声や砂を踏む音などで、周囲が騒がしくなってきた。それらの音に引きずられるようにして、意識が浮上する。
レオはうっすらと目を開けた。
「レオ!」
リヒドを押しのけるようにして、幼馴染のダリスがレオの顔をのぞき込んでくる。いつもは勝気な彼女が、レオと視線が合った途端、両目からはらはらと涙をこぼした。
「ほんとに心配したんだからぁ!」
わんわん泣きながら、ダリスはレオの胸にしがみつく。
「ごめん、ダリス」
「王子、お加減はいかがですか? 頭が痛いとか、具合が悪いなどは」
リヒドが安堵と不安の入り混じった表情をして尋ねてくる。
「少々疲労が残るくらいで、他は問題ない」
「歩けますか?」
「ああ」
そこまで言葉を交わしたところで、リヒドの表情はようやく安堵だけになった。
「船から落ちるほど酔っていたのなら、何故そう言ってくださらなかったのですか。王子があのまま見つからなければ、女王様がお許しくださっても俺は自分で首をくくりましたよ」
「悪い。自分でもそこまで酔ってるとは思わなかったんだ」
ダリスの細い肩に手を置いてなぐさめつつ、レオはゆっくりと体を起こす。めまいのする頭を軽く振った時、砂浜にピンク色に光る何かを見つけた。拾わなくてはならないという想いに駆られて手を伸ばす。
それは、金貨ほどの大きさもある、普通の魚ではありえないほど大きなうろこだった。
「何?」
ダリスがレオの胸元から顔を上げて、レオの手のひらをのぞき込もうとする。
「何でもない」
そう言って、さりげなくうろこを握り込んだ。
城に戻ると、知らせを受けた母女王が駆け寄ってきた。いつもはきっちりと結い上げている髪は乱れ、ドレスもどこか着崩れている感じがした。いつも身だしなみをしっかりしている人だからこそ、その様子から身だしなみに気を回せないほど心配してくれたのだとわかる。
「レオ! レオ! 無事だったのですね!」
母クローディアは、砂まみれのレオの両腕にすがり、どこも怪我はないかと全身を見回す。
「心配をおかけして申し訳ありません。母上」
しっかりとしたレオの声に、クローディアはほっと息をついた。
「報せを受けた時は心臓が止まるかと思いましたよ。こんなことになるなら留守居などせずあなたについていけばよかったと── いいえ、最初から船上でパーティーを催さなければ」
言い募るクローディアを、レオは話しかけることで止める。
「母上。招待した皆様は、船上でのパーティーを楽しんでくださっていました。それなのにわたしの不注意で水を差してしまい申し訳ありません。招待客の皆様はいかがしましたか?」
「あなたが海に落ちた後すぐに船を戻し、城内で十分なもてなしをしているわ。どなたもあなたのことを心配してらしたけれど、あなたが無事だったことをお知らせするよう指示を出しましたから、起きて無事を祈ってくださっていた方々は今頃安心してくださっていることでしょう」
「何から何までありがとうございます」
「ともかく、体の汚れを落として休みなさい。後のことはそれからです」
レオはリヒドに連れられてすぐさま自室に戻り、湯で全身の汚れを落とし夜着に着替えてベッドに入る。
「隣の部屋に控えておりますので、何かございましたらお呼びください」
そう言ってリヒドは退室する。
ベッドに横になったレオは、傍らの窓の外を見上げた。
茜色のまだ少し残る空。朝早い時間なのだろう。この時間に見つけてくれたということは、夜通し探してくれていたのかもしれない。従者のリヒド、有力貴族の娘でレオの幼馴染でもあるダリス、母クローディア。他にも多くの者たちが捜索に奔走し、招待客をはじめとした多くの人々がレオの安否を気遣ってくれたに違いない。
全員に謝罪と礼を言って回りたかったが、体がひどくだるくて母の言葉に甘えるしかなかった。
一休みしてから、礼を尽くそう。
そう考え眠りにつく前に、レオは手のひらに握りこんでいた物を目の前に掲げる。
普通の魚ではありえない大きさの、ピンク色の一枚のうろこ。
この存在が、あやふやだったレオの記憶を確かなものにする。
あれは人魚だった。
海流からして、船から落ちてあの浜辺に流れ着くことは考えられない。とすると、レオを助け浜辺に連れてきてくれたのはあの人魚だ。
人魚なんて伝説の生き物で、存在を信じるほうがおかしいとも思う。だが誰かに助けられなければありえなかった状況と、残された不思議なうろこに確信を得ていた。
幼い顔立ちをした、愛らしい人魚。レオが気付いたのに驚いて逃げてしまったが、できることなら呼びとめて、せめて礼の一言は言いたかった。
もう一度会いたい。会って礼を言って、そして……。
レオは再びうろこを握りしめ、ベッドの上に腕を降ろして目を閉じると、すぐに眠りの世界へと引きずり込まれていった。
それから三日間、レオは寝込んだ。
濡れた衣服をまとったまま一晩中過ごしたつけは、次に目覚めた時高熱という形で現れ、なかなか熱が引かなくてまたもや周囲の人々を心配させた。
そして四日目。ようやく起き出して執務室にいる母のもとを訪れたレオは、母から聞かされた話に呆然とする。
「母上、今何とおっしゃいましたか?」
執務の手を止めた母女王は、机の上に腕を置いてもう一度レオに言った。
「一カ月後のあなたの誕生日に、あなたとダリスの結婚式を行います」
「ちょっと待ってください! ダリスとですか!?」
焦って執務机に両手を突いたレオを、母は意外そうな顔をして見上げる。
「ダリスだと何か不都合があるのですか? 身分のつり合いがとれて、幼馴染で気心が知れていて、先日あなたが行方不明になった時も、誰よりもあなたを案じ夜通しの捜索に加わり、まっさきに見付け出してくれました。誰もあの海岸で見つかるとは思わなかったのに、捜せる場所はすべてあたるべきだと主張したのもあの子です。これも愛情の成した奇跡。今まであなたがダリスを選ぼうとしなかったことが、不思議なくらいです」
「ですがわたしには──」
言いかけて、レオは口をつぐむ。
「何ですか?」
「いえ、何でもありません……」
視線を降ろし引き下がったレオに、母クローディアは常より厳しく言い放つ。
「ともかく、今から妃選びをやりなおしている時間はありません。国民はあなたの即位を心待ちにしているのです。世継ぎの義務として、二十歳の誕生日に必ず即位しなければならないということを忘れないように」
「……はい」
レオは反論も何もできず、そのまま退室した。
廊下に出ると、壁にもたれていたダリスが近寄ってきた。
レオより二歳年下のダリスは、未婚ということあって髪は上のほうを軽くすくって結っているだけで、ドレスも娘らしく若草色を基調にしたフリルのたくさんあしらわれた華やかなものを身にまとっている。整った顔立ちをしていて目が少々つり上がっているため、美しいけれどどこか近寄りがたいきつい印象があった。
その顔立ち同様、性格も多少きつくて、思った事は何でも口にするところは長所でもあり短所でもある。
「あなたは幼馴染だから大事だし、だから他の人に止められても夜通しの捜索に加わったけど、結婚するとなったら話は別だわ」
頭半分ほど背の低いダリスは、レオの真正面に立って顔を見上げてくる。
「あなたはわたしを愛していない。そうよね?」
挑発的に顔を近づけられ、レオは上体をわずかに反らして距離を取りながら答えた。
「ああ。わたしもおまえのことを幼馴染として大切に思うが、恋愛感情は……」
「わたしもあなたに恋愛感情はないわ」
きっぱり言い切ると、ダリスは口の端を上げ、不敵ともいえる笑みを見せる。
「わたしは愛のない結婚なんてまっぴらごめん。誕生日までの残り一カ月足らずの間に、何とかしてわたしじゃない別のお相手を見つけてね」
言いたいことだけ言って、ダリスはひらひら手を振りながら去っていった。
帰国した招待客に謝罪の手紙をしたため、捜索にあたってくれた各部署の長に感謝を述べて回った後、レオは自分が倒れていた浜辺に降りていった。
大きな岩と岩に挟まれたようなその小さな浜辺は、真っ白な砂が波によってきれいにならされ、小石は多少あるものの、他は貝殻一つ──うろこ一つ落ちていない。そしてその浜辺から見える海は遠くに地平線が見えるばかりで、波間に何も見つけることはできなかった。
背後から、従者のリヒドが遠慮がちに声をかけてくる。
「王子、あの夜に何かを失くされたのですか?」
あれは、失くしたと言えるだろう。
怯えた顔をした、愛らしい人魚。
熱にうなされていた三日間の間に、思い出したことがある。冷たい海の中で、レオは懸命に自分を抱き寄せる小さな体を感じていた。
間違いない。わたしはあの娘に助けられた。
もう一度会えたら、言いたいことがある。
あの時は驚かせて悪かった。助けてくれてありがとう。
そして、そして──。
ここまで考えたところで、レオの思考は止まってしまう。
あなたを一目で好きになりましたと告げて、どうなるというのだろう。
自分は人間、彼女は人魚。
陸で暮らすことはできないであろう彼女を妃に迎えることはできない。それに人魚の存在が人々に知られてしまったら、どんな騒ぎが起こるかわからない。不思議な姿形から、手元に置きたいと目論む好事家たちが捕獲しようと躍起になるだろうし、人魚の肝が不老不死の妙薬になるという伝説から、人々はこぞって繰り出し海を荒らして回るようになるかもしれない。
人魚に助けられた者として、沿岸の国に生まれ海を愛する者として、海の平和が乱されることだけは避けたかった。
だから、人魚に恋をしたなどと言い出すことはできない。たとえ、レオが一番に信頼を置くリヒドであっても。
「いや、何も……」
レオは寂しげに答え、小さな砂浜を後にした。