3、月明かりの出会い
サーシアは、ニンゲンを必死になって浜辺に引っ張り上げた。
そのニンゲンが月を見上げている姿を、サーシアは海の上に浮かぶ大きなもの──船が作り出す真っ黒な影に隠れて見つめていた。
美しいヒトだと思った。遠目であまりよくは見えていなかったけれど、それでも。
手すりにもたれかかる崩れた姿勢でありながら、それは彼の、全身からあふれる気品を損なうものではなく。端正な顔に浮かぶ物憂げな表情は、サーシアの胸を締め付けて。
だから、ニンゲンが海に落ちていくのを見て、とっさに落下地点に向けて泳ぎ出していた。
大きな音。上がる水柱。
サーシアは、落ちた勢いのまま沈み行こうとする人間を、追いかけた。
何とか服を掴み、沈降を食い止めたサーシアは、ピンクの尾びれで力強く水を蹴って海面へと引き上げた。
海上に顔を出すと、船上は大騒ぎになっていた。
「水音がしたのはこっちか!?」
「小舟を出してください! これは王子の靴です! レオ王子は先程までここで休憩をなさっていたんです!」
レオ王子……この人はレオ王子と呼ばれるヒトなんだ……。
両腕に抱え込んだ意識のないヒトの顔をのぞき込み、名前を知った喜びを噛みしめる。だが、そうしていられたのも一瞬のことだった。ばしゃんという音がして、水面をたたくような音が次第に近づいてくる。
ど、どうしよう……。
サーシアは慌てた。このままではニンゲンに見つかってしまう。
ニンゲンは海の中では生きられないと聞く。だからサーシアはニンゲンが怖くなかった。見つかったら海の底に逃げればいい。そうすればニンゲンは追ってこれない。でも、自分から近づけばどうなるかくらい、サーシアにもわかっている。
助けが近づいているのだから、このニンゲンをここに置いて去ればいいと思ったのだが、サーシアが手を離すとあっという間に沈み込んでしまう。
サーシアは仕方なく、ニンゲンの服の襟足を両手で掴んで、海の中を全速力で泳ぎ出した。
「見つかったか!?」
「こうも暗くてはよく見えない! もっと明かりを!」
「落ちていないかもしれない! 船の中もお探ししろ!」
離れるにつれ、ニンゲンたちの怒号が遠ざかっていく。
船から一番近い浜──お城の真下にある小さな砂浜は、ほとんどが砂の粒でやわらかい感触さえあったが、陸地に上がるようにできていないサーシアの体を傷つけるものでしかなかった。海の中よりもずっしりと感じる体の重みに下半身を覆ううろこは傷つき、強い痛みが伴う。けれどそれに構わずサーシアは浜に這い上がり、渾身の力を込めてニンゲンを引っ張った。
乱暴ともいえるその振動が刺激になったのか。上半身が波にかからないところまで引き上げられたところで、ニンゲンは体を跳ねさせるようにして海水を吐き出し、息を吹き返す。
ニンゲンが突然動き出したことに驚いて、サーシアは襟首から手を離した。ニンゲンが体の正面をサーシアのほうに向けようとするので、サーシアは下半身を勢いよくずって距離を取る。
体を折り曲げてむせ返っていたニンゲンは、やがて咳が落ち着き、ゆっくりと目を開けた。
「君は……」
姿を見られてしまったことにサーシアは驚き、尾ひれで砂浜を思いきり蹴って海へと飛び込んだ。
──君は……。
咳込んでかすれた低い声。もう耳には残ってないはずなのに、何度も頭の中で鳴り響き、心臓の鼓動を早くする。
あの声で名前を呼ばれてみたい。あのニンゲンにほほえみかけて欲しい。
サーシアが思っていた通り、美しいヒトだった。月の光に輝く金色の髪、まっすぐで高い鼻梁、男の人らしい鋭角なラインを描く頬とあご。開かれた双眸は、月の光が届かずどんな色をしていたかわからないけど、ぐったりとして弱々しいながらもまばたき一つせずまっすぐサーシアを見つめた。
あのヒトの瞳はどんな色? かすれてない時の声は? どんなことを好み、どんなふうに笑うの?
知りたい。けれど、それは叶わぬこと。知りたいがために近づけば、サーシアはニンゲンたちに捕らわれ、どんな目に遭わされるかわからない。
もう二度と会うことすらできないのだと思うと、サーシアの胸は張り裂けそうになった。
やみくもに泳ぎ続けて、どのくらいの時間が経ったのか。
「サーシア様!」
名を呼ばれ、腕を掴まれた。掴んだのはプリンズランド城を守る衛士を示す赤い薄衣をまとった男性の人魚だ。
「王様が大層心配なさっています。城へ戻りましょう」
サーシアにやさしく話しかけた後、衛士は周辺に向かって声を張り上げる。
「サーシア様がいらっしゃったぞ!」
その声にたくさんの人魚たちが集まってきて、サーシアを取り囲み守りながら一緒に城へ戻りはじめる。
「ご無事でよかった」
「本当に」
周囲の人々の安堵の声が城に近づくにつれどんどん多くなっていくのを、サーシアは胸の痛みに耐えることばかりに気を取られて、他人事のように耳にしていた。
サーシアを叱りつけようと玉座の間で待ちかまえていた父王は、サーシアの姿を見て怒りを忘れた。
暗がりでは確認できなかったが、四方から数を集めた夜光虫の光に照らされると、サーシアの痛々しい有様がよくわかる。やわらかい肌の上半身は細かい傷だらけで、下半身のうろこも傷がついてところどころつやを失い、小さいが血のかたまりがあちこちについている。
「何があったのだ?」
心配のあまり王が玉座を降りてサーシアの側まで泳いできても、サーシアは口を開くことができなかった。
決まりを破って海上に出てニンゲンと会ったなんて、自由奔放なサーシアでも父に叱られるだけでは済まされない罪であることはわかっている。
そしてこの胸の痛みも、誰にも決して知られてはならないのだ。
憔悴した面持ちで固く口を閉ざすサーシアの様子から、父王はこう解釈するしかなかったのだろう。
「そんなに嫌なのなら、セラとの結婚の話はなかったことにする。── 部屋に戻って、リリアに手当てしてもらいなさい」
サーシアはかろうじて小さくうなずく。
近寄ってきたリリアに背中を押され、サーシアは玉座の間を後にした。
ぬぐった途端あらたな血をにじませる傷口に、サーシアの世話係リリアは眉をひそめた。
「うろこまではがれてしまって……どのようにしたらこんな怪我ができてしまうんですか?」
責めを含んだ言葉は、サーシアに反省を促すものにも、いつものようにサーシアをむくれさせるものにもならなかった。
「ごめんなさい……」
うなだれたまま、つぶやくように謝る。
今までに見たことのない憔悴ぶりに、リリアはいつものようにお小言を続けることはできなくなった。手を止め、横からサーシアを抱きしめる。
「お願いですから、もう二度と今回のようなことはなさらないでください。いくら捜しても見つからないと聞いて、胸が張り裂けそうでした」
胸元に回る腕に、サーシアはそっと手を添える。
リリアに悪いことをしたと想いながらも、心の大半は別のことを考えていた。
リリアの胸が張り裂けそうになったのと、わたしの胸が張り裂けそうになったのは、同じようなもの? それとも……。