11、孤独の人魚姫
今日もサーシアの元を訪れてくれているダリスが、サーシアの手元を見つめながらため息をついた。
「やっぱり事故の後遺症のようね……」
お腹が空いているのか、空いていないのか。たったそれだけのことですら書こうとすると文字が乱れてしまうサーシアの様子を見て、ダリスはそう納得してくれようとする。
懸命に教えてくれているけど、きっとサーシアは自分の気持ちを書き出すことはできない。
魔女のおばあさんは、こんな風に言っていた。
──これは試練さ。想いを伝える手段を持たずに相手の心を射止められるか、あんたを試したいのさ。
“想いを伝える手段”それは文章を書くことも含まれていたのだろう。おばあさんは声だけでなく、簡単なやりとり以外の、想いを伝える様々な手段をサーシアから取り上げたのだ。
そんなこと聞いていない、約束違反だと思うけど、サーシアは海に戻っておばあさんに文句を言える体ではなくなっている。そもそも、おばあさんの所まで行けたとして、文句を伝えられるのかどうか。
「お医者様は、これは一時的なものだと言っていたから、焦らず気長に戻るのを待ちましょう」
励ましてくれるダリスに申し訳なくて、なかなか顔を上げられない。
紙の上で固まってしまったサーシアの手から、ダリスはそっとペンを取ってペン立てに戻した。
それからサーシアの手をテーブルの上で温かく包んで尋ねてきた。
「ね……レオは優しくしてくれる?」
心配そうなダリスの表情に戸惑いながら、サーシアはこっくりうなずく。
「あなたを、ちゃんと愛しているかしら?」
この言葉に、サーシアはぎくっと体をこわばらせる。
うなずくことも首を横に振ることもできずにいると、ダリスはまたため息をついた。
「話そうか話すまいかずっと迷っていたけど、やっぱり話すことにするわ。……シーナにはつらい話になってしまうかもしれないけど」
そう前置きを置いて、ダリスは話し始める。
「この国では結婚していなければ王に即位できないって話は前にしたわよね? レオは即位が予定されていた二十歳の誕生日になるまでに結婚相手を見つけられそうになくて、あなたが現れなければわたしがレオと結婚するところだったの。言っておくけど、レオとわたしは幼馴染であって、お互いに恋愛感情はまったくないから、そのことは安心してね。わたしは自分を愛してくれない男と結婚するなんてごめんだったから、毎日のように結婚相手を見つけて来いってレオにせっついたわ。
そんな時にシーナはやって来たの。レオは、わたしがレオと結婚しなくてもすむように、身寄りを亡くし故郷に帰るあてもないあなたがレオと結婚することで新たな身元を得て新しい人生を歩めるのならって理由で、あなたにプロポーズした。──ごめんなさいね。あなたにつらい思いをさせてしまうくらいだったら、わたしがレオと結婚していればよかったわ」
サーシアははっと顔を上げ、ダリスの手を握り返して首を横に振った。
ダリスがレオを拒んでくれたおかげで、サーシアがレオと結婚できたというのなら、感謝こそすれ謝ってもらう必要はない。
けれどダリスは、いっそう申し訳なさそうな顔をして話を続けた。
「あいつね、誰か想う人がいるみたいなの。隠してるつもりみたいだけど、わたしにはバレバレ。でも、その人をあきらめなくてはならなかったみたいなの」
ダリスはふと苦笑を浮かべ、おどけて言う。
「人妻か、こっぴどく振られて国外逃亡でもされちゃったんでしょうね。まったく、そんな相手にほれちゃうなんて、あいつも要領が悪いったら。──レオはあなたと結婚した時に言っていたわ。あなたを愛してしあわせにすると誓うって。だからもう少し辛抱してやって欲しいの。レオが恋をあきらめてあなたを愛するようになるまで」
サーシアはうなずくしかなかった。
レオが恋している相手はわたしなの。
そう伝えたくても、伝える手段がない。
レオは自分が想う相手がサーシアだと気付かないから、いつまで経っても想いは通じ合わず、声も、想いを伝える手段も戻らない。
小さくではあったけれど確かにうなずいたサーシアを見て、ダリスはほっとしたように表情をゆるめた。
「シーナ様、お茶のお代わりはいかがですか?」
侍女が声をかけてくれる。こくりうなずくと、温かいお茶を淹れてくれる。砂糖を一さじにレモンを添えて。本当はもうちょっと甘い方が好きなのだけど、微妙なさじ加減を伝えられなくてこれがシーナに出されるお茶の定番になった。
自分の気持ちを細かく伝えられないから、わがままもできない。
──つまんなーい! わたしのためのお祝いなのに、遊べないなんて!
──サーシア様のお祝いだからこそです。サーシア様が式典や催し物に出席してくださらなければ、お祝いは始まりませんわ。
海を離れてまだ四カ月ほどしか経ってないのに、口うるさい世話係のリリアとのやり取りがなつかしくて仕方ない。
ここの人たちは優しい。ダリスも世話をしてくれる侍女たちも、レオも。
でも寂しい。
意思を満足に伝えられないというだけで、サーシアは孤独にさいなまれる。
たくさんの人たちに囲まれているのに、それでもたったひとりっきりでいるような気がして、たまらなく寂しいのだ。
その寂しさは、夜寝支度が済んで侍女たちが出ていってから、レオが訪れるまでのわずかな時間に一番強くなる。
誰かが側にいても寂しい。でも誰もいなくなるともっと寂しい。
言葉がしゃべれるときはこんなことはなかった。しゃべれるようになればこの寂しさからきっと解放される。
サーシアは喉に手を当て、口を大きく開いて声を出そうとした。でも声はまったく出ない。空気は喉をただ通り過ぎるだけで、何の音も紡ぎ出さない。それでも声を出そうと懸命に喉を震わせようとするけど、喉はかろうじてひゅーひゅーと音を立てるだけ。
そのうち何かの拍子にむせかえってしまった。「げほんげほん」と咳は音になるのに、どうして声にはならないのか。
しばらく咳き込んでいると、寝室にレオが慌ただしく入ってきた。早足で近付いてきて、窓辺の椅子に座るサーシアの背をやさしくさする。
「大丈夫かい?」
うなずいた後もしばし咳き込んでいたサーシアは、喉が落ち着いたところで身を屈めて傍らに立つレオを見上げ、声を出そうと口を開き息を出した。すると先程の咳込みがまだ残っていたらしく、むせ返ってしまう。サーシアの背中に置かれていたレオの手が、またさすりはじめた。
「無理をしない方がいい。医者も言っていたじゃないか。喉に問題はなさそうだから、根気強くしゃべれるようになるのを待とうと」
サーシアは咳き込みをこらえてかぶりを振る。
今しゃべりたいの!
あなたにわたしがあの時の人魚だって、あなたの想い人はわたしなんだって伝えたいの!
目尻にじんわり涙をためたサーシアをあやすように、レオは抱き上げて寝台に運んだ。
寝台から毛布をはがしガウンを脱がせたサーシアを寝かせると、自分もガウンを脱いでその隣に横たわり毛布を引き上げる。サーシアの肩まで毛布をかけて、その上からやわらかく抱きしめた。
「この頃食欲もないみたいだし、昼間疲れたように居眠りしてしまうことがあると聞いているよ。ずっと頑張ってくれていたから、体調を悪くしてしまっているのかもしれない。……明日医者に診てもらおう。今晩はこうしていてあげるから、もうお休み」
レオの優しさに泣きそうになりながら、サーシアはそっとまぶたを閉じた。
どんなに優しくても、レオはサーシアを愛してくれない。人魚に恋焦がれながらも、その人魚がサーシアであったことに気付かない。
レオが寝入ってから、サーシアはそっと寝台を抜け出した。
これ以上耐えられない。
自分の気持ちを周囲の人に伝えられない、愛している人に愛されない、身を裂くような孤独。
海に帰りたいと心から思った。海に帰れば、自分の体が泡となって消えてしまうとしても。
寝室をこっそり抜け出し、サーシアは細い月の薄い明かりを頼りに、こっそり崖下の浜に下りた。
レオと初めて視線を交わした思い出の場所。
泡となるならこここそふさわしいと思ってやってきたけど、これから自分が消えるんだと思うと、怖くて足が踏み出せなくなった。
でも戻ったって苦しみが続くだけ。
行くことも戻ることもできず立ちすくんでいると、海から呼ばれた。
「サーシア様!」
リリアの声だ。驚いて海を見渡すと、波打ち際から少し離れた暗い海の中から、水しぶきを上げてリリアが顔を出した。リリアだけじゃない。兄や姉や、幼馴染のセラも。
「よかった! 出てきてくれて。ずっと待ってたのよ。あなたが一人でここまで来てくれるのを」
「前に出てきた時は王子も一緒だったから声をかけられなくて、やきもきしたんだから!」
姉たちが口々に言う。なつかしい顔と声に、サーシアは泣きたくなる。
「魔女から聞いたわ。あなた、自分の声を引き換えにニンゲンになる薬を手に入れたのよね。母さま譲りのきれいな声を引き換えにするなんて……そんなにニンゲンの男に会いたかったの?」
サーシアはこくんとうなずく。
「王子と仲良さそうにしていたけど、まだしゃべれないのね……心は手に入りそう?」
ここで首を横に振れば、みんなを悲しませてしまいそうでできない。でも、答えなくてもわかってしまったようで、誰もが悲しそうに表情を歪めた。
「想いが通じなければ、海の泡になってしまうのでしょう……?」
姉の言葉を聞いた途端、リリアは身をひるがえして海に潜ろうとした。それをセラが引き留める。
「どこへ行く、リリア!」
「魔女のところです! サーシア様を海の泡なんかにさせるものですか! 魔女に頼んでサーシア様を人魚に戻すの! たとえこの命を要求されたって……!」
暴れるリリアの二の腕を掴んで、セラは言い聞かせるようにゆさぶった。
「馬鹿なことを言うな! 君が死んだって悲しむ人はたくさんいる! そのことを忘れるな!」
「セラ様、でも……っ」
冷静さを欠いたリリアの声に、姉の声がかぶさる。
「セラの言う通りよ。誰も犠牲になっちゃいけない。サーシア、あなたもよ。まだあきらめないで。あきらめなければ海の泡にはならないのでしょう? 少しの間辛抱してちょうだい。これからみんなで魔女の所へ行って、あなたをもとに戻すようお願いしてみるわ。みんなが少しずつ何かを差し出せば、あなたを助けることができると思うの。だから、あきらめずに待っていて」
「シーナ──?」
その時、遠くからレオの呼び声が聞こえた。
サーシアははっと城を見上げ、すぐさまみんなを振り返ると厳しい表情を見せて隠れるように手を振る。
みんなが急いで波間に消えたのとほぼ同時に、岩陰にレオが姿を現す。
「よかった、みつかって。ここにいるような気がしてたんだ。──どうしたんだい? こんな夜更けに浜に下りたりして」
優しくほほえみかけながらサーシアに言うと、不意に辺りを見回し始める。
「さっき人の話し声が聞こえたような気がしたんだけど、ここに誰かいるのかい?」
サーシアは慌てて首を横に振る。
ランプをかざしてみても人影が見当たらないことを確認すると、レオは片方の腕でサーシアを抱き寄せた。
「ガウンも着ないで……体が冷え切ってるじゃないか」
冷えた肩に心地いいぬくもりが触れる。
ところが、突然サーシアは気持ち悪さを覚え、レオを押しのけて岩の側で前屈みになって吐いてしまった。
レオの大きな手のひらが背中をさすってくれる中、サーシアは何度もえずく。
これは一体何なのだろう? 今まで、人魚であった頃にもこんなふうになったことはなかった。
自分の体調の悪さに、サーシアは怖くなってくる。
わたし、一体どうなっちゃうの……?
サーシアが落ち着いてくると、レオは足元にランプを置いてガウンを脱ぐと、サーシアの口元を自分の夜着の袖で拭いてからガウンをサーシアに着せかけた。
落ち着いたとはいえまだ気持ち悪さがあるのに、サーシアの顔をのぞき込んできたレオは何故か嬉しそうに笑う。
「ダリスがもしかしたらって言っていたけど、きっとそうだ」
何が?
戸惑うサーシアに、レオは話を続ける。
「心配しなくていい。気持ち悪いのも、食事があまり食べられないのも、そのうちに治る。── 妊娠したんだ」
妊娠? ということは……。
サーシアは実感がわかないまま、お腹に手を当てる。その手にレオの手が重なった。
「そうだよ。ここにわたしたちの子どもがいるんだ」
子ども──。
驚きに目を見開くサーシアに、レオは足元のランプを拾って持たせ、サーシアの体をレオの大きなガウンでしっかりくるんで抱き上げる。
「医者に診せてみないと、本当かどうかわからないけどね。妊娠しているのなら、ますます体を冷やしてはいけない。子どもが生まれるまでは浜に出るのは禁止だよ。昼間でも海風は冷たいからね」
そうしてサーシアは、人魚のみんなに挨拶できないままレオに城まで運ばれた。
深夜だというのに医者が呼ばれ、サーシアは診察を受ける。
診察結果は、翌朝レオの母である王太后をはじめとする城の人々に報告され、城から国中へ、そして国外へと広まった。
王妃の懐妊。
人々が喜びにわく中、その中心にいるサーシアただ一人が喜べずにいた。