10、ままならない恋心
──結婚したからには彼女を愛してしあわせにすると誓うよ。
ダリスに伝えながら、自分自身にも銘じた言葉だった。
誓った自分の心に偽りはない。シーナを心から愛し、しあわせにしてやりたいと心から思う。
だがレオは、その誓いを守れずにいた。
シーナのことは好きだ。彼女は愛らしく、早く今の生活になじもうとする一生懸命な姿に好感がある。
そして何より、レオのことを好きでいてくれる。出会ってすぐの唐突なプロポーズだったにもかかわらず快く承諾してくれて、レオの良き妻であろうと努力する。その瞳の中に、自分に恋する熱がこもっていることに、レオは早くから気付いていた。
シーナの気持ちに応えたい。
そう思うのに、レオは彼女を愛せずにいた。
いくら愛らしくても好感の持てる人柄でも、──助けてくれた人魚に似ていても、彼女はレオが一目で心を奪われた人魚ではない。
もう一度会うことができたところで人魚との恋が成就するわけがないのに、一度は人魚への想いを断ち切ってシーナを愛そうと誓ったのに、どうしても心はレオの視線に怯え海へ逃げ帰ってしまった人魚へと向かう。
レオを追ってきたのだろう。浜に一人で下りてきたシーナに、誰にも話すつもりのなかった話をしてしまった。
シーナがレオの手のひらの中のものに興味を示したからか、あるいは、レオがそれだけ彼女に心を許しているからか。
話を聞いて怯えたシーナに、レオは自分たちが人魚に助けられたのだという話をした。すると彼女は一変して明るい笑顔になり、うろこと自身を交互に指差し始めた。
──ごめんね。これはあげられないんだ。
レオがそういってもなお、うろこを欲しがるシーナ。
人魚が恩人と聞かされて、よほど人魚に興味を持ったのか。
その夜寝室に入ると、シーナは自分で描いたらしい人魚の絵をレオに見せて、人魚の絵と自身を交互に指差した。昼間、浜辺でしていたように。
何を伝えようとしているのかわからなかった。常は意思の疎通に支障がないのだが、たまに何を言わんとしているか理解できずもどかしさを感じる。
それは彼女も同じなのだろう。レオが何も言わないので業を煮やしたのか、寝台に上がってしどけなく体を投げ出すと、両足を閉じたまま足をばたばたさせ、もう一度人魚の絵と自身を交互に指差した。
必死に足をばたつかせるシーナに誘われるようにしてレオは彼女に近寄り、覆いかぶさるようにして唇に口づけた。
人魚に助けられたと教えられ、あこがれて人魚になりたいと思うなんて、何とも可愛らしい考え方だ。十六歳──彼女の国では十六歳は成人を迎える歳だと聞くが、まだまだ幼いところがある。
日頃おとなであろうとして背伸びしている雰囲気があるせいもあってか、こうしてレオと二人きりの時に見せる年齢以上に無邪気な行動は、レオの目にとても可愛く映る。
愛せていないことは感じている。けれど、だからといって彼女に情欲を覚えないわけではない。
レオの妻であり、この国の王妃であり、世継ぎを産むべき役目を担ったシーナ。
役目を全うさせてやりたい気持ちと、自らの義務を言い訳に彼女を抱く。
そう、言い訳。
華奢で年齢より幼く見える彼女を我が物にする背徳心と、愛しているわけではないのに体を重ねるうしろめたさを、そうした言葉でごまかしているだけだ。
愛する心はないけれど、体はすでにシーナを求めていた。
「ねえ、レオ。あなたシーナと二人の時間をちゃんと作ってるの?」
幼馴染のダリスは、周囲に近しい者たちしかいない場所では、以前のようになれなれしく話しかけてくる。レオもダリスに臣下の礼を取られるのはこそばゆいし、然るべき場所ではきちんと立場をわきまえるから、あえてとがめたりしないようにしている。
最近のダリスの用件はいつもこれだった。今日もリヒドしかいない時を見計らって執務室にやってきてレオにお小言を言う。
「言われた通り、ちゃんと作ってるよ。最近は夜までかかる仕事が少なくなって、早めに寝室に入れているし」
少々投げやりに答えると、ダリスは眉間にしわを寄せた。
「言っとくけど、二人の時間っていうのは心の交流を図るものであって、さっさと寝台に入って体の交流を図るものじゃないからね」
ダリスのあけすけな物言いにげんなりして、レオは執務机に肘を額に手を当てた。
「ダリス……おまえは女性なんだから、もう少し慎みというものを」
レオの苦言を、机を挟んで正面に立ったダリスは途中でさえぎる。
「わたしだってこんなこと言いたくないわよ。でもね、レオ。あなたちゃんとシーナのことをわかってあげてる? あの子は遠い異国の地から知人が一人もいない国にやってきたばかりで、言葉を話せなくて周囲の人と満足に意思の疎通を図れなくて、心細い思いをしているのよ」
「意思の疎通は、ダリスがよくしてやっているんだろう? おまえが教えてくれた二者択一で彼女の気持ちを問う方法は、彼女と会話をするのにとても役立っている」
ちょっとだけれどほめ言葉を口にしてみたのに、ダリスはそれをぴしゃりとはねのける。
「それはありがとう。でもね、人間の心は複雑にできているの。言葉を使っても互いを理解し切ることは難しいのに、二者択一だけで理解できることなんてたかだか知れているわ。きっとシーナは自分の思っていることを思い通りに伝えられなくて苦しんでいると思うの。あの子は遠慮して自分の思っていることを言い出さないところもあるから、こちらから尋ねてあげて察してあげなくてはならないのよ。そしてそれを一番しなくてはならないのは、夫であるあなたなのよ? ……シーナはあなたを愛しているわ。気付いているんでしょう?」
「……ああ」
「でも、あなたの心はシーナにはない」
切りつけるように突きつけられた言葉に、レオは自嘲の笑みを浮かべる。
気付いていたか……。
ダリスは察しがいいし、長年の付き合いがあるからお互いのことをよく知っている。気付かれていないとは思ってなかったけど、実際に告げられると以前ダリスに言われたことを思い出していたたまれない。
──愛すると誓ったからって愛せるようになるほど、人は単純じゃないのよ?
結婚式の翌朝ダリスに言われた言葉が、日を重ねるごとに重くのしかかってくる。
シーナをいくら可愛らしいと思っても、その体を求める気持ちがあっても、彼女を愛する気持ちは生まれない。人魚と目が合った瞬間に燃え上がった恋の炎に、シーナに抱く淡い気持ちは敵わない。
レオを凝視して返答を待っていたダリスは、やがて答えが返ってくることはないと見切りをつけて、小さくため息をついた。
「無理やりにでもシーナを好きになれなんて言わないわ。言ったところでどうしようもないことだってわかってるもの。でもね、意思を通わせることだけは絶対にあきらめないで。シーナがしゃべれない──自分の意思を伝える手段を持たないから難しいとは思うけど、だからといって放棄したりしないでね」
「そういえば、彼女は言葉を覚えるのが早いと聞いたが、筆談はできないのか?」
ふと気付いて尋ねると、ダリスは表情をかげらせる。
「それが、本は読めるようになったし、こちらが言った言葉を書くことはできるようになったのに、自分の気持ちを文章にすることは何故かできないのよ。お医者様によると、これも事故のショックによるものなのかもしれないって」
「そうか……」
言葉を交わすことができるようになれば、もしかすると彼女を愛せるようになる糸口をみつけることができたかもしれないのに。
言葉を交わせるようになったら、シーナに聞いてみたいことがある。
浜辺でうろこと自身を交互に指差していた彼女。
あれは、うろこが欲しいという意味ではなかったのかもしれない。
もしかすると、人魚に会いたくてたまらないレオの気持ちに気付いて、自分が人魚の代わりになりたいということだったのかもしれない。そうだとしたら、あの夜彼女が人魚の真似をしたことも無邪気な考えだったわけでなく、レオをなぐさめたいという彼女の優しさだったといえる。
あるいはレオの人魚を想う気持ちに気付いて、人魚ではなく自分を愛して欲しいと訴えてきていたのか。
だとしたら、レオを好きでいてくれる彼女はどれだけ傷ついていることだろう。
謝りたい。けど、彼女がそう思っていたとは限らなくて謝れない。謝ることで彼女に気持ちがないことを暴露して傷つけたくないから。
一番いいのは、レオがシーナを愛せるようになることだ。
だが、どうしても心は彼女に向かわない。
ダリスの言う通りだ。自分の気持ちだというのに、思い通りにならない。
恋心とは、どうしてこうもままならないのだろう。