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おれの家に移民       :約5000文字

作者: 雉白書屋
掲載日:2026/04/10

「……うおっ、な、な、なあっ」


 なんだ、と言おうとしたが、舌がもつれて言葉にならなかった。そのまま舌がぐるりと捻転し、喉の奥へ滑り込むんじゃないかという意味のわからない恐怖に襲われ、おれは反射的に喉元を押さえた。

 体を起こし、尻をシーツに擦りつけるようにして後ずさる。背中を壁に預けたところで、ようやく大きく息を吐いた。


 ……驚いた。朝、目を覚ますと、知らない男が床で寝ていたのだ。

 最初は死体かと思った。だが、おれが声を上げた瞬間、男はめくれ上がったTシャツの裾から覗く腹をぽりぽりと掻いた。

 どうやら生きているらしい。Tシャツに半ズボン。褐色の肌に太くて濃い眉毛。外国人のようだが、なぜおれの部屋に……。盗みに入ったはいいが、疲れてそのまま眠ってしまった……か? 馬鹿みたいな話だが、他に思いつかない。

 おれは男を起こさぬよう、できるだけ音を立てずにベッドから降りた。

 そのままそろりそろりと台所へ向かい、引き出しを開けると、中から護身用にと包丁を一本取り出した。柄を強く握りしめ、ゆっくりと男へ近づき、中腰になって肩を軽く叩く。


「おい、おい、起きろ……起きろって……おいっ」


「ンア……」


 何度か叩くと、男はようやく目を覚ました。もぞもぞと体を動かし、ゆっくりと上半身を起こした。大きく口を開けてあくびをし、顎をぐりぐりと撫でつける。それから、おれのほうを向くと厚ぼったいまぶたを擦りながら頷いた。


「……いや、何してんだよ。出てけよ。警察呼ぶぞ」


「プラペシペシラ……」


「うおっ!」


 男は何かをぼそぼそ呟き、立ち上がると、あくびをしながら平然とおれの横を通り過ぎていった。すれ違った瞬間、酸っぱい匂いが鼻を突き、おれは思わず顔をしかめた。

 男はそのまま台所へ向かい、冷蔵庫の前で立ち止まった。扉を開け、中からペットボトルのお茶を取り出すと、キャップを捻ってごくごくと喉を鳴らして飲み始めた。


「な、なんなんだよ……。おい、出て行かないとただじゃおかないぞ、おい!」


 包丁を突き出して怒鳴ると、男は片手をひらひらと振ってみせた。顔をしかめたが、どうやらおれに向けたものではなく、お茶の味が気に入らなかったらしい。男は渋い顔でペットボトルを睨んだ。

 それから男はポケットを探り、折り目のついた一枚の紙を取り出し、おれに差し出した。名刺のようだった。


「なんだよ、これ……」


 おれが訊ねると、男は人差し指と親指で電話の形を作り、耳元に当てるジェスチャーをした。そして、おれの肩をぽんと叩くと何事もなかったかのように床にどっかりと腰を下ろし、リモコンを手に取ってテレビを点けた。

 どうやらここに電話しろということらしい。

 おれはテレビを見始めた男を横目で警戒しながら、スマホで名刺に書かれた番号に電話をかけた。


『はい、こちらJICOのイワミです』


「あ、あの……朝起きたら変な男が部屋にいて、それでこの名刺を渡されたんですが……」


 話しながら、スマホを手にしたなら最初から警察に通報すればよかったのではないか、と今さら後悔が湧いた。電話の向こうの男は『あー』と気の抜けた声を出し、軽く笑った。


『あなたの部屋がステイ先に選ばれました。おめでとうございます』


「は……? どういうことです?」


『おや、ニュースはあまりご覧にならないのですか? では簡単に説明しますね。そこにいる方は――という国の出身でして、政府は移住と就労を希望する方々の受け入れ先として、あなたの市を故郷都市に指定したのです。これは文化外交の深化および経済成長の促進、労働力の確保を目的とした戦略的取り組みの一環で――は私たち、JICO国際協力組織の成果で――高度で革新的な才能を持つ若者向けに特別なビザを創設し――開発途上国への国際協力を担い――日本には約一億数千万人が住んでいますが、高齢化により――そこで彼らには「故郷ビザ」を申請してもらい――互いの文化を学び、互いの言語を理解――外国人は市内で自由に働き、事業を営むことができ――家族とともに移住し、日本の健康保険制度に登録して、地元の人々と同様に日本の医療サービスを受けることができ――この計画を成功させるため、政府は子供がいる家族、特に在日日本人と結婚した異人種間のカップルを支援――』


 話が長く、寝起きということもあって、まったく頭に入ってこなかった。

 だが、どうやらこの外国人は移民で、しばらくの間おれの部屋に住まわせなければならないらしい。大家はすでに了承済みで――鍵ももらったのだろう。玄関には奴のものらしき大きなバッグが置かれていた――文句があるなら、この部屋を出ていくのはむしろおれのほうだという。


「……いや、ありえないだろ。こんなのあれだ、人権侵害だ!」


『あらら。では、その方の住む場所はどうなるんですか? 外国人の人権は無視してもいいと? これは政府公認の制度なんですよ。他にもいくつかの町がホームタウンに指定されており、皆さん受け入れているんです』


「だからって、こんな急に……」


 おれはちらりと男を見やった。奴は床に足を投げ出し、つま先をゆらゆらさせながらニュース番組をぼんやり眺めていた。


『ああ、彼には毎月助成金が支給されますので、食費などの心配はありませんよ』


「そんなの当たり前だろ……」


 そう言った直後、脳裏にさっき勝手にお茶を飲まれた光景がよぎり、おれは不安になった。


「じゃあ、あいつの分の光熱費は? 水道代とか、そういうのもちゃんとあいつが払ってくれるんだろうな?」


『それは当事者同士で話し合って決めてくださいよ』


「話し合うったって、言葉が通じないんだぞ……」


『ははは、今は翻訳アプリがあるでしょ。それに、いい機会じゃないですか。相手の文化を学び、相互理解を深めてください』


「何を他人事のように言っているんだ……」


 怒りを通り越して呆れが込み上げてきた。もう一度男のほうを見ると、今度は床の上で座禅を組み、両腕を大きく広げて低い声でぶつぶつと何かを唱えていた。宗教的な祈りのようだった。まさか、毎朝あれをやるのだろうか。


「……あんたの家でも移民を受け入れてるのか?」


『はい?』


「だから移民だよ。あんたの家にもいるのか?」


『ははは』


「受け入れてないのか……?」


『まあ、こちらは指定都市ではありませんので』


 めまいがした。次いで、幻聴まで聞こえてきた……かと思ったら、違う。外国人の男の声がさっきよりも大きくなっていただけだった。

 通話を切ると、手の中のスマホが急に重くなったように感じた。いや、全身が重いのだ。おれはベッドに腰を下ろし、深いため息をついた。

 まるで虎を乗せたヨットで海の真ん中を漂流しているような気分だった。


「なあ……なあって」


「プサスササシムスオパルティ……」


 祈りの時間はまだ終わらないらしい。男は片手をビシッとおれに向け、それから口元に一本、指を立てた。

 警察に通報しても無駄だろう。役所に訴えてもきっと同じ答えが返ってくるに違いない。

 おれはどさりとベッドに倒れ込んだ。共同生活を受け入れるしかない。そう思った途端、体の力が抜けた。


 だが、それから何日経っても奴との距離が縮まることはなかった。翻訳アプリを使い、まるで五歳児に言い聞かせるように根気強く説明しても、男はおれの言うことをまったく聞かず、気の向くままに振舞うばかりだった。

 自国のものなのか、強烈な香辛料の匂いを部屋中に撒き散らしながら、正体不明の料理を作っては後片付けをせず、鍋も皿もその場に放置。風呂に入らず、体臭と香辛料の匂いが混ざり合い、部屋の空気は常に淀んでいる。

 深夜になっても電気を煌々と灯し、安物のスピーカーから耳障りな音楽を大音量で流す。さらには仲間を呼び寄せ、部屋の真ん中で花火を始めた。

 顔ぶれを入れ替えながらも、常に三人は居座っていた。


 ある日、おれはとうとう頭にきて、一人の腕を掴んで玄関まで引きずろうとした。だが背後から他の連中に肩を殴られ、突き飛ばされた。床に手をつき、振り返った瞬間に見えた、奴らの呆れたような顔。まるでこちらがおかしいと言わんばかりの表情だった。どうしようもない無力感が押し寄せ、結局おれは何もできなかった。

 その翌週には人数が五人に増えた。さらにその翌週には七人になった。

 そのうちの一人はにこにこと笑いながらおれに話しかけてきた。言葉は相変わらず分からなかったが、優しい顔つきだったので少しだけほっとした――が、その男が差し出した一枚の小さな紙を見た瞬間、おれの背筋は凍りついた。

 それは、あの名刺だった。どうやら他にも何人かおれの部屋がステイ先に指定されているらしい。


「プラペシリモンテ」

「サステナブルサンス」

「トウキョ」

「ブナハハハハハハ!」

「チーノ!」


 いつまで経っても耳に馴染まない言葉が絶え間なく部屋の中を飛び交い、甲高い笑い声が壁や天井を叩いた。あるいは本当に手や足で叩いているのかもしれない。

 ついにはベッドまで占拠され、おれの居場所は風呂場だけになった。ただし、湯船の中には連中がどこからか持ち込んだ鯉や鰻が数匹泳いでいるので、おれは半分閉じた風呂蓋の端に腰掛け、スマホをいじるしかなかった。だが、それすら邪魔だと言わんばかりに押しのけられることもあった。

 引っ越し先を探そうと、不動産サイトを片っ端から見て回ったが、どこも満室だった。ようやく空きを見つけても、決まって移民との同居が条件だった。

 夜になると、駅前や公園にも連中の姿が目につくようになった。騒々しい音楽と意味の分からない叫び声があちこちから噴き上がっていた。


「ひひ……ひひひ……」


 笑い声なのか嗚咽なのか。自分でもよく分からない声が喉の奥から漏れた。胸の奥がひび割れ、欠片がぽろぽろと口からこぼれるようだった。

 おれはもう限界だった。


 その夜、おれはドラッグストアに立ち寄り、棚に並んでいる燻煙剤を端からカゴに放り込んだ。

 ああ、久しぶりに晴れやかな気分だ。

 帰り道、おれは鼻歌を歌いながら歩いた。最初はかすかな旋律だったが、やがてはっきりとした歌へと変わった。ただし、口を衝いて出たのは連中が流していたあの音楽だった。そのことに気づいた瞬間、胸の奥がむかっとしたが、他の歌が思い浮かばず、おれはそのまま歌い続けた。

 そんなおれを奇怪に思ったのだろう、通行人たちが足を止めていた。中にはスマホを構えている者もいた。でも、おれは構わなかった。構わないのだ。何もかも。おれは歌い続けた。歌詞も分からない歌を歌い続けた。やがて、どこからか音楽が聞こえ始め、一瞬だけおれの歌とぴたりと重なった。妙な一体感に胸をくすぐられ、おれはさらに大きな声で歌った。


 帰ってきた。

 アパートの前で、おれは足を止めた。ドアの隙間から笑い声と音楽が漏れている。いつも半開きなのだ。

 おれはゆっくりと近づき、ドアの脇にしゃがみ込んだ。そして、一本目の燻煙剤に火を点け、それを部屋の中へ投げ入れた。

 続けて二本目、三本目――火を点けては投げ込む。

 五本目を投げたあたりで、部屋の奥から咳き込みながら何人かが転がるように外へ飛び出してきた。

 煙がもうもうとあふれ出し、室内が白く霞んで見える。残りは二本。おれはそれを両手に一本ずつ握りしめた。そして、そのまま部屋へ突撃した。


「キイイイアアアアア!」


 喉が裂けんばかりに声を上げながら、両腕を振り回す。白い煙が視界を覆い尽くし、目が焼けるように痛む。涙と鼻水が止まらず、顔がぐしゃぐしゃになった。

 連中は声を張り上げながら、我先にと部屋の外へ逃げ出していった。

 部屋にはおれ一人だけが残った。

 静かだ――ああ、この静けさ、久しぶりだ……。

 腹の底から笑いが込み上げ、おれは泣きながら笑った。真っ白な煙に満たされた部屋は妙に広く感じた。壁も天井も存在しないみたいに。

 おれは両腕を伸ばし、その場でゆっくりと回った。ああ、夢みたいだ。

 おれは燻煙剤を握ったまま床に膝をつき、激しく咳き込んだ。このまま死んでも別に悪くない。そんな考えがじんわりと浮かび上がった。

 おれは目を閉じ、項垂れた。その姿勢が連中の祈りのポーズに少し似ていることに気づき、おれはまた笑った。


 そのときだった――突然、腕をぐいと掴まれた。

 顔を上げるやいなや引きずられ、そのまま部屋の外へ連れ出された。夜の空気が肺に流れ込み、おれは地面に倒れ込んで激しくむせ返った。

 顔を上げると、おれを引きずり出したのは最初に部屋に来た男とあの気さくに笑っていた男の二人だった。

 助けられたのか――いや、これから仕返しか……。

 おれはその場で亀のように体を丸め、来るであろう暴力に身を固くした。


 が……肩を叩かれた。ぽんと。優しく二回。

 おそるおそる顔を上げると、男は中腰になって夜空を見上げていた。他の連中もまた口を開けたまま同じ方向を見上げている。

 男はゆっくりと背筋を伸ばした。

 おれも立ち上がり、夜空を仰いだ。

 いや――夜空に浮かぶ、それを。


 星々の光を覆い隠すほどの巨大な円盤。

 それを見つめながら、おれはそっと隣に立つ男と手を握り合った。

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