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後悔しない、ごめん



 私立姫之條女学院で、母琳城美世子はどういった存在だったのか。

 息子白嶺響は美しく微笑む少女の肖像を睨みつけて胸のざわめきを抑えていた。

 寮にも校舎にも琳城美世子の姿があった。入学式の挨拶でも何名かがその名を口にした。異様な環境の中にあって、響は母から『響ちゃん』と呼びかけられる既視感をたびたび覚えた。

 男子でありながら女子高で娘を騙る響に寄せられる崇拝と、翻って隣にいる女の子に向けられる悪意。

 あの人ならばもっとうまくやれたのだろうかと考えると、迫り上げる吐き気で視界が白んだ。


「話しかけられたくないからって、そこはよくないんじゃないかな?」


 ストレスのせいか時折視界に光が紛れ込むようになっている響は、千鶴の柔らかなメゾソプラノにようやく本来の呼吸を取り戻し、頬を緩めて歩み寄った。

 千鶴の周りはチラチラと眩しくない。その笑みで見つめられると赦しを得たように心が軽くなる。


「呼び出し、なんだったの?」

「うーん、要領得なくて。『体調大丈夫ですか?』ってことだと思うんだけど……」

「具合悪いの? 熱とかない?」

「大丈夫! 帰ろう、響くん」


 放課後に保健室に寄るように言われていたときからあった不安は、千鶴の屈託のない声に一旦収めることにした。

 女の子の優しさと明るさと愛おしさを抽出してできたのが千鶴なのではないかと半ば信じてしまえる響は、身長差実質二センチ、踵の上げ底込みで約一〇センチの違いを屈むことで縮めた。

 ぱちぱちとまばたきをするかわいい女の子。スカートの裾を翻してひらひらと逃げ惑う千鶴の手を取って肩を軽く当て、彼女にしか見せない笑顔を浮かべる。


「歩きにくいよ響ちゃん」

「我慢して。私はこうしていたいの」

「しょうがないね、甘えんぼなんだから」


 この笑顔を絶やしてなるものかと決意を強固にする。

 髪を一つ結びにしている千鶴の染まった耳に気をよくして指を絡ませた。

 女子は一目ではわからないように邪魔者を排除しようとしていた。響が細かく警戒していなければ見過ごすような些細な敵意は陰湿で狡猾だ。千鶴が『大人しいほうだと思うよ』とフォローするからさらに義憤に駆られていく。

 見た目こそお姫様と侍女だが、プリンセスの本質は初恋の女の子にしゃかりきになる一般男子だ。今日も響に話しかけながら千鶴の足を踏む姑息な女に姫之條憎しが高まっていた。


「怖い顔」


 つん、と頬を押してからかってくる幼馴染みがすべてになりそうな現状は、ひどく危うく、視野狭窄だと理解はしている。

 しかし琳城美世子の娘として性別を偽って生活し、贋作の少女に媚びを売る女達に群がられるのは日々激しい嫌悪を催させるのだ。

 千鶴が唯一の清涼剤。癒やし、救いだ。

 格好が格好だけに男として意識されていないのかと心配にもさせられるが、横顔の恥じらいや微かに漏れる吐息が、異性として意識してもらえる自尊心を響に与える。

 夕暮れの帰り道は石畳に木々の陰が伸び、舞い散る薄紅の花びらが幻想的な演出を凝らしていた。


「千鶴ちゃん──」

「あ、志座(しざ)さんだ。志座さーん!」


 石段となだらかな坂道が繰り返しの道半ば、女の響の手の早さを言いわけに頬に触れたかったが肩透かし。

 好きな女の子はすり抜けていって、響は繰り返し起きる衝動に短く息を吐く。


「ごきげんよう、亜咲さん、白嶺さん。今お帰りですか?」

「うん! 志座さんも寮に戻るとこ?」

「えぇ」

「急に現れたから驚いたわ。この先に、なにかあるの?」

「倉庫がいくつか。私が所属している部活で使うものがあったので取りに寄っていました」

「そう。お疲れ様ね」


 森の奥に入っていく小路を振り返った女子生徒は、響の不信感に萎縮することもなく千鶴に向き直っている。

 志座(かすみ)は同じ月桂樹寮の寮生で、クラスメートだ。

 どこにでもいそうな地味を体現している凡庸な女子だが、彼女は希有な存在とも言うべきか、響より千鶴に関心を持っている。

 その視線はどこか熱を帯びていて、かえって響の焦りを煽っているが、正真正銘の同性であるからか千鶴はまったく気にしていない。そういった熱視線は、千鶴には珍しくもないのだ。

 志座の制服についた葉っぱを取ってやる千鶴の無防備さにヤキモキしてしまう。

 響が模造少女なだけに同性同士のたわむれにやっかんでしまうのだが、志座の目には明確な排除意思が見えたのだろう。静かに千鶴から一歩引いた。


「私は先に行きますね」

「もうちょっとだし、一緒に行こうよ」

「いいえ。またのちほど」


 同級生なのに丁寧に頭を下げて先を行く志座は、名残惜しげな千鶴を断って坂の上を行く。

 性別詐称で発生している矮小さに項垂れないように、響もまた寂しげな千鶴と歩き出した。


「デート中だから遠慮してくれたのよ」

「やっぱりわたし達、そういう風に見られてるのかな?」

「そうでしょう?」

「……そうじゃないでしょ?」

「似たようなものよ。私はあなたしか見ていないもの。千鶴も、他の子に浮気しないで」

「響ちゃん、饒舌なのはいいけど、また呻くことになるからやめたほうがいいよ」


 別人格琳城響にスイッチを切り換えているとき、響は軽薄な女誑しになる。対象が一名なぶん一途ではあるが、美貌と甘い言葉にものを言わせて誑し込もうとしている事実に変わりない。ふと我に返ったあと『千鶴ちゃん忘れて……!』と悲痛に叫んでしまうくらいには男の自分から乖離してしまっている化けの皮被りだった。

 女の響で女の子の千鶴をうっとりさせたい、という目標を掲げたのが大いなる過ちだったが後悔先に立たず。やるからにはやり込むとあれよあれよと努力した成果だが、基準を間違えたのは言うまでもない。


「それに──、わたし、男の子の響くんにドキドキしてるんだよ」

「えっ……。なに、いきなり殺されかけてんだけど」

「物騒」

「自慢じゃないけど俺わりとヘタレだよ? しかも……母親離れできてないじゃん」

「お母さんの呪縛でしょう。──響くん、わたしとお母さんのどちらかしか選べなかったら、きっとわたしのこと選んでくれると思う。だから……」

「そりゃそうだよ。俺は君と未来を生きたいんだから」


 闘い抜く三年間は、その先に待つ二人の人生が輝かしいものだと信じられるからだ。

 娘を望んだあの人の墓前に切り離した長髪を供えたら、晴れて響は自由になれる。

 遂げたいと掲げる目標は偉大だ。

 両想いの女の子とのハッピーエンドが待っているからがんばれるのだ。長期お預け計画にも腹を括っている。


「なんで走るの千鶴ちゃん!」

「響くん……、わかってない!」

「なにが! もう──千鶴? 待ちなさい、千鶴」


 走り出した刹那の表情は険しかったが、本気で駆けていない彼女に追いつくのは簡単で後ろから腕を回した。

 小さく跳ねた千鶴のしょんぼりとした瞳が愛らしく、響は恍惚として抱きすくめた。至近距離で通じた響の興奮と躊躇に身が跳ねている千鶴が愛おしくてならず、平常心を取り繕うべく呼吸に滲ませる色を替える。


「俺達、相当なバカップルだよね」

「女の子同士にしても、度が超えてるかも」

「俺、メチャクチャ偉くない?」

「ノーコメント」


 額を合わせて視線を逸らさせない甘えた仕草も手練手管も、女友達の座すら譲りたくない独占欲からきている。

 月桂樹寮の扉を開けた途端に渋い面構えになった響は、最上階の部屋に到着した途端繰り返しで大後悔をして千鶴に笑われた。


     §


 寮の規則は非常に窮屈で、夕食以後も制服着用が義務づけられている。パジャマや部屋着が許されるのは大浴場からの戻りと室内のみだ。

 風呂、それは一日で最も緊張する時間と言っていい。

 壁を数枚隔てた向こうで好きな子が一糸纏わぬ姿になっているとあっては、響は初日、動画アプリを起動して延々と般若心経を聞いてしまった。

 一応は順調に運んでいた寮生活も、やや慣れてくると希望が芽吹くもの。

 寮母の佐倶江は響が男だと知っている模様で同室の千鶴にも大浴場には行かなくていいと言ったが、好奇心旺盛な幼馴染みは、一端のスーパー銭湯も斯くやな設備に心惹かれているらしい。


「やっぱり、ダメかなあ?」

「反対。千鶴ちゃんが行くとなんで俺が来ないのかって話になるでしょ」


 響が極端なムッツリスケベであるから千鶴の入浴の音を聞く回数を確保したいのではなく、大浴場にけっして入れない事情を持った(おんな)への影響を懸念しているのだ。

 対個人だとそこそこ友好的であるらしいが女子の同調圧力をまざまざと見せつけられている以上、千鶴を気楽に送り出すことはできない。

 入寮して一週間、響のスマートホンの検索バーには『女子 いじめ 嫌がらせ』といった単語が並んでいる。

 危うきに近寄らず、近寄らせずで、千鶴の大浴場行きを阻止したい。

 俺は千鶴ちゃんと入れないのに──という感情がないわけではなかったし大きくあるものの、千鶴が断るに断れずに響まで女子風呂行きを決められてはたまったものではないというのが大義名分である。


「千鶴ちゃんには不自由な思いさせるけど、ごめん、許して。卒業したら温泉旅行行こう」

「はぁい。じゃあわたし、シャワー浴びてくる。明日からはまたお湯入れるけど、今日はなしでいいよね?」

「ぜんぜん平気。いってらっしゃい」


 マメな千鶴は異性との同室生活で気まずさが生じないように、室内間移動であっても衣装袋に着替えを入れる。

 髪をほどくのも脱衣所からで、それが余計に風呂上がりの威力を上げしているのだとは気づかない。

 響は後ろ姿を見送ったあとは即座にノイズキャンセリングの高性能イヤホンを装着し、自分の中に『無』をつくる作業を厭わない。

 お年頃である。

 白嶺響はお年頃だったが、亜咲千鶴とその家族に誠実でありたい真面目な心意気で彼女に不快な思いはさせまいと努力を怠らないのだ。


 記憶と結びつかせたくないから適当な洋楽を流し、目を閉じてベッドの上で胡座を掻く。

 千鶴に倣って通学用制服と部屋着用制服に分けているが、室内用は毎晩不格好な皺が寄っていた。

 脱衣所脇のボックスに入れたらクリーニングして戻ってくるシステムだが、四着ずつ用意されている制服の扱いが響はつねに雑だった。

 根底にある物臭はいくら足運びが優雅になろうと直らない。

 掃除は自分でしなくてもいいし、整理整頓は千鶴がしてくれている。優しくて少々お節介な女の子が響の心理的負担を軽くしてくれるなら、響の目下の行動理念は『千鶴ちゃんを害さないこと』に尽きるのだ。

 千鶴はストイックだと褒めてくれるが、とんでもない。

 響は己の下心を十二分に知っているから油断しないように堰き止めている。


「ひーびきくん」

「うわっ……。もぉ……、こっち入ってきちゃダメって何回言えばいいの」


 何度注意しても部屋の中心から左に入ってくる千鶴は、響の忍耐強度を増す実験でもするように接近してくる。

 肩をトントンされても強く叱れない恋人未満にくふくふと笑うような小生意気な顔をして、ヘッドボードのコンセントにドライヤーを差した。

 向かい合ってにこりと微笑む千鶴は風呂上がりの思い人に動揺している響に大層ご機嫌だ。恨めしく睨んでも鼻歌を歌っている。

 音程外れ気味、でもかわいい、性懲りもなく毎朝毎晩かわいいと思っている。

 驚かせてやりたい気もするが鋼の理性でポイポイと着替えを用意していき、バスルームへ向かう。

 深窓の令嬢らしからぬTシャツとスウェットをカゴに入れ、蓋が閉まっているランドリーボックスの隣にある色違いのボックスAに制服を放り入れた。

 女性ものの下着を脱いだあとは改良を重ねたシリコンバストを剥ぐ。

 長髪で色白の男の裸体を浴室内の鏡に映し、毎夜繰り返す。


「俺は男だ。白嶺響は男」


 高校生活の三年間、男でありながら女でもあり続けなければならない。

 長い髪は断てないが、たしかに自分は男である視覚情報を得て人心地つき、同時に、大切な女の子にとって力で勝ててしまう男であることを忘れない儀式をする。

 千鶴は軽々しく同棲なんて言ってくれるが、響は日本男児として彼女の家族に仁義を貫きとおすのだ。

 ナイトルーティンを終えたら手っ取り早く烏の行水で済ませ、ベッドルームに戻るまえに一呼吸。


「千鶴ちゃん、出たよー」


 事故的な鉢合わせがないように徹底して声をかけるが、千鶴からの返答がない。

 もう一度呼ぶが戻ってくる声がないため「出るよ」と警告してからスリッパをフローリングの床で鳴らす。

 響のお姫様は、明かりも落とさずに眠りの国だった。


「寝るなら電気消せばよかったのに」


 うとうとして、目を閉じたら眠ってしまったというところだろうか。

 千鶴ちゃんも寝落ちするんだな、と微笑ましくなってから、彼女の枕元でコードを束ねられた美容家電に思い悩む。

 この部屋にドライヤーは一台しかない。

 背の半分以上を覆う長い髪は乾かさずとも艶を失わずおかしな寝癖がついたりもしないが、そのままにしていると首筋が冷たくて煩わしい。

 千鶴の体に覆い被さるようにして取らなければいけない一大事。

 冷静な響が窓側に回り込めばいいと訴えるが、彼女が眠っている今、しょうもない煩悩が湧いてしまうのは摂理だった。


「ごめんねー、千鶴ちゃん……借りるよ~……」


 机のライトを点けて、部屋全体を照らしていた照明を落とす。

 抜き足差し足忍び足で近寄ってから、ベッドに膝を乗せて彼女の上を跨いだ。

 とても、いけないことをしている気がしながら、ドライヤーを手前に置き直してから布団をかけた響は、やっとのことで異常を検出した。


「…………千鶴ちゃん?」


 すうすうといつも安らかな寝息を立てている彼女の胸が上下していない。

 息を呑み、唇に指を添えても呼気の振動を感じられなかった。

 混乱に自身の鼓動の音を体内で反響させていたが、か細く息を吐いて千鶴の細い首筋に手を添える。脈の測り方は小学校の授業で習っていた。

 手首からも確かめた。感じ取れなかった。

「千鶴……千鶴…………?」


 心拍を聞かせてほしかった。

 わずかな煩悶を払い除けて耳を押し当てたが、縋る願いは打ち砕かれた。

 彼女の心臓は動いていない。亜咲千鶴の肉体は生命活動をやめていた。


「なんで…………? どうして」


 絶叫するでもなく茫然自失とつぶやいた響は、手の甲に濡れ髪の滴が落ちてくるまで思考を停止させていた。

 薄曇りの視界で千鶴が眠っている。

 どうしたら目を覚ますのだろうかと無機質な眼を動かす。

 頭を埋め尽くす疑問に粟立ち、急激に怯えきって恐る恐る彼女の顔を覗き込もうとすれば、響の常識を一気に塗り替えるように窓が開け放たれた。

 夜の風によって桜の花びらが雪崩れ込み、蒼白い光が記憶の底に沈めていたかった人の姿を形成していく。


「──母さん」


 琳城美世子の亡霊がそこに在った。

 禍々しいまでの純粋無垢さに気色ばみ、響は立ち塞がると小首を傾げる女に吐き捨てた。


「あんたのせいか」

「響ちゃん」

「俺はあんたの娘じゃない。千鶴ちゃんになにをした」

「どうして響ちゃんはママを困らせるの?」

「困らせたくて……っ、男に生まれたんじゃない」


 言い連ねてもあの人の耳には届かなかった真実。

 白嶺美世子は望むものすべてが手に入る人で、彼女は娘を欲しがっていた。

 だが生まれてきたのは響。男の子。受け入れられないまま母は逝った。

 琳城美世子の肖像には必ず共通した名が添えられていた。

 姫神──まるでこの地を統べる女神のように、彼女はその名で祀られている。

 響は少女の面影のある母親の幻覚に、この地に呼び寄せられたわけを直感した。


「あんたの跡を継げってか。女になって? なんで千鶴ちゃんまで巻き込んだ」

「怖い顔しないで響ちゃん……。ママ悲しいわ」

「いい加減わかれよ。俺は男だよ。千鶴ちゃんが好きな男だ。あんた、なんでいつも千鶴ちゃんを──」

「汚い言葉でしゃべらないで。ママのお姫様、笑ってちょうだい」

「笑える状況? あんたが千鶴ちゃんを殺したんだろう!!」

「怖いことはなんにもないわ」


 言葉が通じない、いつもこの人はそうだった。

 琳城美世子には彼女の正しさしか存在しないのだ。彼女が思うこと以外は間違っていて、悲しそうな顔で従わせようとする。

 加害者でありながら被害者ぶる穢れを知らないお姫様。

 この人と同じ顔をしているのが狂おしく、かつては自慢でもあったが、底にこびりついていた情も朽ちてしまう。

 とっくに母親は化け物だった。

 化け物に取引を持ちかけるならば生け贄がなければ話にならない。


「ママ」

「なあに、響ちゃん」


 超常現象で昏迷している暇などないのだ。

 白嶺響が支払える対価は一つだけ。男というアイデンティティーを失えば好きな子は泣くだろうけれど、響にも譲れないものがある。

 亜咲千鶴によって生かされた少年の生だ、終わりが来るならば、彼女の笑顔を守り抜く。

 究極的にエゴイストなのは母親に似たのだろう。響は躊躇うことができなかった。


「響、女の子になる──これで満足よねママ。だからもう、千鶴ちゃんには手を出さないで」

「響ちゃん、あぁ……、やっと悪夢が終わるのね。私の愛する天使──ママね、ずっとひどい夢を見せられていたのよ。あなたが男の子だって」

「なに言ってるのママ。響は女の子だよ」


 悪魔めいた人だったが響はこれでも母への愛情があったつもりだ。

 ほろほろと涙をこぼして歓喜する美世子に、響は愛されたかった息子を殺して魔物を正面に見据えた。


「響はママとの約束破らない。響がお姫様だから千鶴は私の王子様。女の子同士だけど、愛し合ってるならいいよねママ?」

「ええ、すてきなことね。お式は二人ともドレスかしら?」

「ママみたいなウェディングドレス、今から着るのが楽しみよ。時間になったら呼びにいくから、それまで待っていて」

「響ちゃん、ママの愛する一人娘──幸せになって」

「ママの娘に産まれたんですもの。私はずっと幸せよ」


 唇を寄せられた額を皮膚が抉れるまでこすりたかった。

 子どもへの愛情なんてこれっぽっちもない人だった。娘にしか愛情を持たない偏屈な女。

 いっそ憐れに思ってしまう。この人の望みは死んでも叶わない。


「愛してるわママ──バイバイ」


 蒼白く発光した桜の花びらが渦となり虚空で輝き霧散した。

 床の冷たいフローリングと首筋を覆う髪が現実であることを知らしめるが、いやに非現実な静けさに浮かされて響は窓を閉めにいく。

 冴え冴えとした月夜だ。後悔がまったく湧かない。明日自分の体が女になっていても一切悔やまないことだけはわかるから『響くんは男の子だよ』と何度も言ってくれた女の子に償いもできない。


「千鶴……ちゃん。息してるね」


 柔らかな唇をなぞって、息の生ぬるさに喉奥が震えた。

 今夜だけは境界線を無視して眠れるお姫様の髪を撫でる。

 温かい、生きている、だから絶対に後悔しない。


「俺、寝て起きたら女になってんのかな。これが最期の男の子? 見納めかもよ千鶴ちゃん」


 眠るのが怖くなろうとも、響は幸福感に浸れていた。千鶴が響は女であっても愛してくれる自信があるのだ。

 とうとうあの人に屈したが、自己犠牲に耽っていれば幸福と同等。


「千鶴ちゃん、ごめん。君を喪うぐらいなら、女になろうと人形になろうと構わないんだよ。ここ、床借りる。一晩だけ君の傍にいさせて」


 琳城の琳は青という意味がある。あの人は幼少期に青色ばかりを着せられた怨念が募って、響に執拗に白やピンクや赤を着せたがった。

 苺のショートケーキのようなパジャマを着ている千鶴は、穏やかな息遣いで静かに眠っている。

 足元の床に座り込んで天井を見上げた。

 こんなときに食べたくなるのがママの手づくりタルトタタンなんて、マザコンもここに極まれりだ。


「男として君が好きだった。でも、もう言えない。これで最期。ごめんね」


 人外と契約を交わしてしまった。

 響が男として亜咲千鶴を愛しいと請えば彼女に魔の手が及ぶのだろう。

 それだけは許せないから、打ち切るように瞼を合わせる。

 紛れもなく白嶺響が、男である自分を殺した夜だった。


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