ある日のこと
セルシオンと暮らし始めて、ひと月が経った頃だった。
その日の朝はやけに冷え込み、嫌に静かだった。
いつもなら工場に着く頃には数人が作業を始めていて、鋼鉄を溶かす炉にも火が入っている。
けれど工場に着いた時、正門は閉ざされ、代わりに中で大勢の兵隊が屯していた。
「どうしたの?」
締め出された門の前で立ち尽くす、朝番の鍛冶職人達に声を掛けた。
中の様子に彼等は酷く狼狽えていた。
「入れないんだ。いつもの監視兵が何か仕出かしたらしい」
その言い方に、胸騒ぎがした。
毎夜酒盛りをしている兵士がいることに皆、懸念はしていた。
事故がないことを祈っていたが―――。
「昨晩ここを最後に出た者は居るか⁉」
唐突に浴びせられた大声に、ビクリと皆で肩を揺らした。
言い放った将校は、こちらに向かっていて怒り心頭の様子である。
しかも、島に常駐している兵と軍服の色が異なる。
きっと本土から来たお偉いさんだ。
その場の全員が黙った。
昨晩、最後に工場を出たのはカルディナで、いつものように待ち構えていた兵士に鍵を渡していた。
「わ、私です」
怖かったが正直に答えた。
庇おうとした職人もいたが、目配せで駄目だと伝えた。
下手に庇い立てされるより、年齢的にも多少の折檻で済まされるかも知れないと踏んだ。
「そうか。来なさい」
冷たい視線で見下ろしながら淡々と頷き、将校は門を開けた。
眼の前に迫った姿は見上げる程に大きく、背丈は百八十センチを越えていた。
黒鉄色の髪に灰青色の瞳は鋭く、引きずりそうなくらい長い外套を揺らす様は、吸血鬼や悪魔を彷彿とさせた。
「か、カルディナ…!」
「待ってください!その子は…!」
咄嗟に職人等はカルディナを守ろうと身を乗り出した。
「皆、大丈夫。皆はそのまま。大丈夫。何とかするから…」
そんな彼等を宥め、冷静に任せろと言い聞かせる。
本当は怖くて震えていた。
けれど、相手は偉い将校で抵抗したところで島民達の力では到底敵わないし、下手に反抗すれば、見せしめにこの場の全員が酷い目に遭わされるかも知れない。
今も亡き父母を慕い、危険を省みずに懸命にその忘れ形見である自身を守ろうとする彼等を護りたかった。
自分一人の犠牲で済むならばと覚悟を決めた。
職人達が心配する中、首根っこを掴まれて中へと連れ込まれる。
気分は生贄だった。
足を踏み入れた工場内では、いつも偉そうな監視兵が怯えたように縮こまっていた。
「昨晩、この中の誰に鍵を渡した?」
その言葉と同時に、拘束された十数名の前に引っ張りだされる。
答えは決まっていたが、思わず言葉を呑んだ。
彼等のその目が、答えるなとばかりに鋭くこちらを睨んでいた。
「………、そうか。協力感謝する」
暫しの沈黙の後、こちらの返答を待たず将校は頷いた。
それを合図に拘束された兵達は何処かへと連れて行かれ、気まずい雰囲気の中、呆気なく今日の仕事が始まった。
「ねえ、聞いた?あの将校さんがトップになるそうよ?」
体に響く音色の隅、いつものように砥石に向かう女達からそんな話が囁かれた。
聞けば、今朝の怖い将校は参謀本部に勤めている大佐で、今後この島を取り仕切ることから視察に来たらしい。
(私、ど偉い人に捕まったのね)
研ぎ終わった製品を箱詰めしつつ、カルディナは掴まれた首筋を擦った。
思い出したら、何だか寒気がした。
「おや、ここにいた」
そんな声に何の気無しに振り返り、ぎょっとした。
持っていた銃剣を抱きしめ、飛び退くように後退り。
沢山の将校を引き連れて現れたのは、今朝の大佐である。
「君、名前は?」
咥えていた煙草を手に取り、大佐はにこやかに訊ねる。
蛇に睨まれた蛙とは、まさにこの事だ。
暑くもないのに汗が噴き出した。
「か…カルディナ…、…シャンティス…です…」
か細く、正直に名乗った。
すると、大佐は口に寄せた煙草の手を止め、目を丸くした。
「…これは驚いた…。君、何処に住んでるの?家族は?」
大佐は怪訝そうな顔で更に尋ねた。
これは困った。
何やら興味を持たれてしまった。
「え…えっと…家族は…いません…。家は丘の城跡に…間借りして…ます…。あの…、仕事に戻っても良いですか…?」
取り敢えず、この場を離れたくて決死の覚悟で訊ね返した。
あからさまに怯える彼女に、大佐は微かに微笑むと肩を竦めた。
「これは失礼した」
そんな返答と共に革靴を鳴らして大佐が歩み寄る。
そして軍服のポケットから、手のひらサイズのブリキ缶を取り出した。
「今朝は脅かして悪かったね」
そう言って、やや強引に缶ごと渡された。
蓋にビスケットと書かれていた。
「じゃあ、またね」
去り際、そう言い残して大佐はにこやかに手を振った。
(またって…)
何やら含みのある言葉に、カルディナはまた首筋が寒くなった。