怪物の巣窟
宵闇に浮かぶ豪邸は伏魔殿の如く。
不気味に輝くフォレス公爵家邸別館に吸い込まれる人々は、国家の中枢を担う御仁ばかり。
化物、魔物と称される政界の大物が揃う華やかな会場で、その中に混じり、タキシードに身を包む姿もまた悪魔の異名を背負っていた。
「まあ、ハインブリッツ閣下ではありませんの…」
「流石はフォレス公ですね。陸軍の悪魔が顔を出すとは…」
久々に顔を出した姿に、貴婦人達は物珍しげ。
品定めたばかりに扇を片手に視線が送られる中、ヴォクシスは一人、目的の姿を探していた。
「おお!ハインブリッツ少将!いらしてくださったか!」
その声に振り返り、思わず笑みを零す。
目的の怪物――、フォレス中将である。
「本日はお招き頂きありがとうございます。単身での出席となり申し訳ありません。この度は御令孫の成人、心からお祝い申し上げます」
握手を交わしつつ、慇懃に謝辞を述べる。
此度の夜会が一際可愛がっている――将来フォレス公爵家の当主に期待されている孫の成人祝いとあって、中将は柔和に微笑みを浮かべた。
「なぁに、クロスオルベ侯爵がお忙しいのは承知の上。無理を言ったのはこちらだ。しかし、この所ご体調が優れないとの事ですが…」
一見、何気無しの様子で―――、否、本当は分かり切った上で、しかし、シラを切るように掛けられた娘に関する問いに、内心は激しい怒りを覚えた。
あれから約一週間―――。
仕事面での影響は出ていないものの、恋人であるノアンから強引に関係を迫られたショックは大きく、カルディナの表情には常に影が差している。
事情を知らない者達は連隊長就任という重責に因るものだと噂しているが、その実、屋敷の私室に引き籠りがちで他人との接触を極力避けたり、側仕えのフォルクスに対しては攻撃的な態度が目立ち、男性に対して恐怖心を抱いていることは明白だった。
不幸中の幸いとしては養父の自身にまで、警戒心を向けていない事ではあるが―――。
「何分、心労が重なるようで…、今は見守って頂ければ幸いです」
当たり障り無く答えつつ、相手の出方を伺う。
限りなく黒には近いが、今回の事件に対して未だフォレス中将の関与は推測の域にあり、糾弾するには証拠が不十分。
いくら弁の立つヴォクシスでも、上官で社交界の重鎮でもある怪物相手に行き成り仕掛けるのは分が悪い。
今日はこの社交場で証拠となる証言を集め、その足元を崩すに必要な手札を集める事に重きを置いた。
「成程…、確かに十九の乙女には荷が重い話ですからな…」
微かに棘を含み、中将は哀れとばかりに眉を下げる。
出来るなら怒鳴りつけてやりたかったが、振り上げたくなる拳を握り締めて必死に堪えた。
今は耐えねばならなかった。
「あれ?これは珍しい!」
そんな声に誰だと目を向け、久々に見る姿に思わず顔を歪め掛けた。
「…ディアス殿、久しぶりですね」
何とか浮かべた微笑の裏、怒りに暴れ出す腹の虫を抑えるのに苦労した。
カルディナのデビュタントの折、己への敵意から主役である彼女へと多量のアルコールを飲ませ、晴れ舞台を台無しにした事は尚も忘れない。
事態を重く見た国王の一声で王子の座を剥奪され、長らく辺境で大人しくしていたが、近頃は再び社交界への出入りが増えていることは聞き及んでいた。
「何々?まだ怒ってるの?俺もエグラン伯のことは反省してるよ?ちゃんと母上から受けたお務め終えて…、だから王都に居るのに〜」
飄々と馴れ馴れしく肩を抱きながら、元王子ディアスは不敵な笑みを浮かべる。
案の定、その目は笑ってはいなかった。
寧ろ憎悪を孕んでいた。
「ならば、娘にちゃんと謝ってください。話はそれからです」
毅然と言葉を返し、離れろとばかりに巻き付く腕を引き剥がす。
その態度にディアスは楽しげに嗤った。
「ツレナイなぁ…。あ、ねえ?従兄弟同士、久々に会ったんだから腹割って話さない?ちょっと部屋、借りてるし」
然りげ無くフォレス中将へと目配せしつつ、彼は意味深に微笑む。
その視線と鳥肌が立つほどの殺気で、長年の勘が警鐘を鳴らした。
この二人、何か大きなもので繋がっている―――。
そう直感した。
「私は構わんよ?」
何故かそう答える中将に、予感が的中している事を悟った。
――虎穴に入らずんば虎子を得ず。
罠だとは分かっていたが、ヴォクシスは望むところだと頷いた。
通されたのは宴会会場の隣に位置するフォレス公爵家本邸のサロンだった。
フォレス中将とディアスの同伴案内の下そこへと足を踏み入れてみれば、ボトル一本当たり車が買えるような酒を傾けながら、艶めかしい覆面バニーガールを侍らせ、思い思いに寛ぐ社交界の怪物達の姿があった。
「おや、これは珍しいお客人だ」
そう呟いた老人はフォレス公爵家の傘下にある古参の国家議員。
老人の声に反応して次々にこちらへと目を向ける視線の数に、ヴォクシスは自然と冷や汗が滲んだ。
予想はしていたが、この場の全員ヴェルフィアス家と敵対姿勢が見られている派閥だった。
――これはとんだ虎の穴に入ってしまった。
そう思いながらもディアスに誘われるままに開けられた席へと腰を下ろした。
「相変わらず酒は飲めず?ノンアルのカクテルもあるけど?」
バニーガールから受け取ったメニュー表を差し出しつつ、慣れた様子でディアスが訊ねる。
「生憎、真剣勝負の時は飲まない主義でね」
その一言で僅かに空気が殺気を孕んだ。
元より敵本陣に乗り込む心積もりで来た。
近頃の情勢不安で義肢は戦闘用のものに着け替えてきたし、護身用の拳銃も腰に忍ばせている。
いざとなれば武力行使で逃げ切る算段だ。
「単刀直入に訊きます。何故私をここに?」
顔触れを一瞥し、端的に彼等の思惑を探る。
隠すこと無く警戒心を見せる彼に、ディアスは運ばれて来たミックスナッツに手を付け、俄に口角を上げた。
「相変わらず固いね。まあ、こちらもその方が手っ取り早い…。今のカローラスの在り方について意見を聞きたくてね。ヴォクシス兄さんは王家派寄りだが中立の立場だろ?」
「ええ…、王家寄りですよ。ハインブリッツは身内ですからね」
敢えてそう言ったのは挑発である。
今や名前のみのディアスと、尚も第五王子の称号を持つヴォクシス。
貴族階級で言えばこちらの方が上である。
示唆された立場の違いに案の定、ディアスは微かだが苦い顔をした。
「…まあまあ、お二人共。そんなに啀み合わずに。まずはこの集まりについてお話するべきでしたな」
割って入るようにフォレス中将が隣の席へと腰掛け、待機していたバニーガールを呼び寄せる。
妖艶に歩み寄るその手には、銀トレーに乗せられたワイングラスが三つ―――。
コトリコトリと並べられたそれらへと目の前で注がれていくワインは、血のような真紅の色を揺らしていた。
「見ての通り、我々は反ヴェルフィアス勢力です。手っ取り早く言ってしまえば、王国宰相の座に居座るヴェルフィアスを牽制したいのですよ」
そう語る中将はグラスを手にし、ディアスもその手に続く。
「牽制…と言うと?」
二つの真紅が傾けられる中、ヴォクシスは訊ねる。
無論、残るグラスには手を付けなかった。
「今の政界の勢力図についてはよくご存知かと。国の中枢を担う議員の殆どがヴェルフィアス側に傾き過ぎているとは思いませんか?」
その問いには多少思うところはあるものの口を噤んだ。
確かに近年、ヴェルフィアス派の勢力は政界を牛耳っていると言っても過言ではない。
しかしそれは対抗する他政党や他派閥での汚職や不祥事が相次ぎ、議員や官僚の更迭が続いている為でもある。
ヴェルフィアス侯爵自身は宰相として議会の正浄化に尽力しているくらいだ。
「…確かに、エグラン伯派からボルボス派まで軒並み辞職しましたからね」
危険は承知で放った一言に、場の空気が凍りついた。
怒りを露わにする御仁もいたが、即座にフォレス中将が黙っていろと睨み付けた。
カルディナへの傷害容疑で失脚したエグラン伯爵は他政党の零細派閥であったが、王城襲撃を手引したボルボス中将はフォレス中将の再従兄弟に当たり、同じ派閥でもあった。
故に彼の息の掛かっていた議員や官僚はその責任を問われ、実質フォレス派は多数の辞職者を余儀なくされていた。
「…これまで我々フォレス一派が台頭し、議会における力関係の均衡を保ってきましたが、このままではヴェルフィアスの独占状態に陥ります。そうなれば政界は疎か、この国は彼等の思うままの形に塗り替えられてしまう…。貴方としても、かつてお嬢さんの家を弾圧した一族にこの国を牛耳られるのは不愉快なのでは?」
何とも嫌らしい言い方である。
過去の因縁を蒸し返す事もだが、クロスオルベをヴェルフィアスから引き離し、懐に引き入れたいという魂胆が見え透いている。
「生憎ですが今のヴェルフィアスは過去を悔い改め、娘も彼等の謝罪を受け入れています。それにクロスオルベ家は…、エルファの民は二百年も昔のことを根に持つ人々ではありませんよ?寧ろ常に未来を見据えている。志高く気高い人々です」
毅然と言い返し、傘下に下る気は無いと示した。
元よりクロスオルベ家は権力に興味を示さず、只々科学の真理を探求することに情熱を注いで来た技術者一族だ。
カルディナもまたその精神に誇りを持ち、桁違いの天才的頭脳を世のため人のために使うことを望んでいる。
そんな彼女の父親として―――、ヴォクシスが出す答えは一つしかなかった。
「私は娘の意見を尊重するだけです。政治的な利権に興味は無い。ノアン殿との婚姻も彼女が望む限りは賛同します」
「それが結果的にクロスオルベ侯を傷付ける結果となってもですかな…?」
「そうならないように見護るのが父親の役目でしょう?第一、彼女は自らの過ちに気付き、正せる賢さも強さも持ち合わせています。私は然るべき時、選択に迷う娘の背中を軽く押すだけです」
そう告げ、話はこれまでだと席から立ち上がる。
そして出口へと踵を返さんとした瞬間だった。
壁際で待ち構えていたバニーガール達が一斉に取り囲み、こちらへと銃口を向ける。
案の定の展開である。
「私をここで殺しても何の得もありませんよ?フォレス中将…」
両手を上げつつ、警告とばかりに訊ねる。
「得ならある。少なくとも目障りな青二才を黙らせることは出来る」
淡々と答えた中将は背後より歩み寄り、軽蔑の目を持って隠し持っていた拳銃を取り上げた。
「私の牽制も目的でしたか…」
「どちらかと言えば、そちらがメインだ。クロスオルベはまだ新興貴族の域にある。君という庇護者が消えれば、若輩の当主を握り潰すのは容易い」
取り上げた拳銃をバニーガールに渡し、衣服のポケットを次々に確認する中将は何とも物騒な物言いである。
しかし、ヴォクシスは動じなかった。
「カルディナはもう学生ではありませんよ?立派な陸軍将校です」
「しかし、まだ二十歳に満たない未成年だ。世間を知らず制約も多い。飲酒に喫煙、博打に売春…いくらでも不祥事は起こせる」
「あの子に道を踏み外させるとでも?一体、どうやって?」
「はっ!恋に溺れた女など簡単…!既にノアン・ヴェルフィアスは我等の傀儡だ。あんな小物に溺れた小娘など造作もない!」
――嗚呼、やはり。
その一言を待っていた。
「それはどうでしょう?」
不敵にヴォクシスは小首を傾げ、生身の拳を握って開く。
その瞬間である。
彼等の真上に設けられた換気口をぶち破り、漆黒の影が飛び込む。
咄嗟に応戦の態勢に入ったバニーガール達であるが距離が近過ぎた。
目の前を横切った一太刀に一瞬にして銃口を薙ぎ払われ、誤射した一発が防火措置に的中。
途端に屋敷中へとサイレンが鳴り響き、スプリンクラーから水が吹き出した。
「何も…っ!」
何者かと叫び掛けた中将だったが、言い切る間もなく強烈な右フックが顔面へとお見舞いされ、見事ノックアウト。
ひっくり返った当主を前に場に集っていた政界の重鎮等は呆気に取られ、その隙にヴォクシスは影に導かれて怪物の巣窟から脱出した。




