5 「ひと違いですー」
翌日の天気は、かなり不安定だった。重たそうな真っ黒い雲が浮いているし、天気予報でも傘が大きく開いていて、雨が降るのは時間の問題といった感じだ。
昼休み、担任・川野の数学の授業で早弁していた罰で、クラス全員のノートを抱えて廊下を歩く咲は、そんな空を黙って見上げていた。
ノート提出が終わったら速攻で友成のところにいくつもりでいるので、せめてそれまでもってくれと空に願いながら歩く。
購買に向かっている生徒に追い越されてしまうと、対抗心が沸いて歩く速度がどんどん早くなっていく。いっそ走り出そうかというところで、咲は後ろから呼びとめられた。
「ちょっといいか?」
咲は振り向いて驚いた。自分よりも頭三つ分ほど大きな、見知らぬ男子がいた。
「……誰?」
警戒しつつ咲は一歩下がった。でないと相手が大きすぎて、全体がみえないのだ。
「俺は七組の内藤哲弘」
「七組って、侑紀の」
咲の問いに哲弘は頷いた。
「あいつに好きな子とられたとかの苦情は、受け付けてないからね」
ノートを抱え直して逃げるルートを確認した。最近はすっかり女の子メインだが、中学まではそういうトラブルもあったのだ。
「いや、そうじゃない。ちょっと侑紀を探してるんだ。かばんはあるが今日はずっと姿をみてなくてな」
至極真面目な顔で言われて、咲は警戒を解いた。哲弘の表情はさっぱり読めないが、咲になにかをしようと思っているわけではないらしい。
「侑紀が?」
朝一で友成の所に顔を出したときには、侑紀もくっついてきていたから、その後どこかにふらりと消えたということだろうか。
「ああ。アンタなら、なにかしっているかと思ったんだが」
「あたしならって言われても」
たしかに侑紀のクラスに何度も特攻をかけていたけれど、基本的には一緒に行動することはない。昨日はけっこう長いこと一緒にいたが、たまたまそうなっただけだ。
「…………」
昨日の侑紀とのやりとりを、ダイジェストで思い出して咲は黙る。せっかく今日はあまり思い出さないでいられたのに、また心臓がサンバでも踊りだしそうに騒ぎ出す。
「どうかしたのか?」
「べ、別にっ。とにかくあたしは侑紀がいない理由なんてしらない。どっかで女の子と遊んでるんじゃないの」
「それはないだろ」
すぱっと哲弘は即答した。
「あいつは自分の顔のことを色々言ってくる人間は、男女問わず嫌いだからな」
「は? そんなわけないじゃん、あいつの女癖が悪いから、あたしずっとわけわかんない難癖つけられてたんだから」
現に昨日だって、そのせいでクロワッサンサンドが食べられなかった。咲がそう詰め寄ると、哲弘は上半身を少しだけそらせて考えるような素振りをみせた。
「……あいつがなにも言わないことを、俺がどうこう言うつもりもないが、少なくとも高校に入ってからのあいつは、一度だって他の女子を、アンタにけしかけたことはないぞ」
それだけ言うと、哲弘はとっとと踵を返して歩いていってしまう。
「…………え?」
咲はそんな哲弘の背中を、呆然と見送るしかなかった。彼は誰の話をしたんだろう。
侑紀が女の子を、咲にけしかけたことないとか。だって現に昨日の女子軍団は、「咲が付き合ってくれってしつこく泣きついてきたから仕方なく付き合ってる」と、侑紀が言ったことが発端だったはずだ。
咲はそれで侑紀に苦情を言いにいったし、侑紀だってふざけるばかりで否定をしなかった。だから咲もずっと、侑紀からの告白めいた言葉はまともに取り合いたくなかった。
「――あれ」
でも、侑紀は肯定だってしなかった。
「あれ、あれ、あれ?」
バカみたいに同じ言葉を繰り返して、咲はノートを持ったまま立ち尽くしていた。
めったに使わない脳をフル回転させていたら、段々気持ち悪くなってきてしゃがみこんだ。
そもそも自分は、いつから侑紀のことを邪険にしはじめたのか。そんな考えが頭をよぎったら、止まらなくなった。
窓を叩く雨音が聞こえる。ざーっという音が耳から身体中に流れ込んできて、咲の脳みそをぐしゃぐしゃと、かき回しているような気分になる。
雨の音に侵蝕されて頭の奥がぼーっとしてきて、咲はノートを抱えたままじっとうずくまっていた。なにも、考えられなくなってしまう。
いくつかの足音が、ペースを落としながら咲の脇を通り過ぎる。そっとしておいて欲しい咲は、誰も立ち止まらなければいいと思った。なのに、明らかにすぐ傍で立ち止まった気配に、いやな予感がした。
「……咲ちゃん、どうしたの?」
おそるおそる顔を上げたら、心配そうな顔をして咲の顔を覗きこむ侑紀がいた。
「あああああああんた、いなかったんじゃないの!」
さっきいないと聞いたばかりで不意打ちだと思いながら、咲はあわあわして立ち上がった。足元にノートが散らばったが、もうそんなことはどうでもよかった。
「あー。ちょっとヤボ用でって、顔、赤いけど熱とか」
「っ、っ、そんな、あるわけないじゃん!」
バカ。そう怒鳴りつけて咲は駆け出した。
「咲ちゃんノート、ぶちまけちゃってるけど提出じゃないの?」
「ひと違いですー」
「んなわけないじゃん!」
侑紀の全力の突っ込みに、咲は全力疾走で応えた。
侑紀と顔を合わせているのがいやだった。昨日は押し隠せたわけのわからない感情が、咲にもわからない形でふきだしてしまいそうで、怖くて怖くて、侑紀から逃げた。
人通りがまばらになった廊下を、バタバタ足音をたてて走っていたら、見覚えのある巻き毛の女子集団が歩いていた。
彼女たちは咲にぎょっとした顔をして、慌てたように道を開けたが、咲は直角に方向転換をして、昨日特につっかかってきた女子の両腕をつかんだ。
「聞きたいことあんだけど!」
「ちょっとしらないわよ! なにもわかんない! だから離してよいますぐに! こんなとこ名波くんにみられたらどうすんのよ!」
「そうよ! ミキのこと離しなさいよ!」
「…………ミキ?」
思わず咲の腕から力が抜けた。咲がつかまえてる女子の名は、ミキというらしい。ランとスーもどこかにいるのだろうか。一瞬そんな考えもよぎったが、そんな場合ではないとミキを見上げた。
以前に侑紀が彼女らをそう呼んだことなど、すっかり抜けている咲である。
「アンタたちは侑紀にあたしが言い寄ってるって聞いたから、わざわざ昨日待ち伏せて拉致ってくれたんだよね?」
ぎゃあぎゃあわめく女子たちの言い分は無視して、いっぱいいっぱいになりながら詰め寄った。うんと言え。言わなくても頷け。そんな咲の願いとは裏腹に、ミキは眉をひそめてふいと視線をそらした。
「……アンタみたいなのに名波くんが夢中になってんのがムカついたから、脅しかければアンタから離れると思ったのよ」
「確かに可愛いけど、まるで小学生なあんたと名波くんじゃ不釣合いじゃない。そんなの相手にしてたら名波くんが可哀想よ!」
「どうせなんだかんだ言って、アンタだって名波くんが好きなくせに!」
彼女たちはひとりがなにか言えば、周囲も追随する習性があるらしい。口々にそうだそうだという声が上がる。
だが咲にはもう、彼女たちの言葉は聞こえていなかった。
いままで何度侑紀を好きな女子に色々言われて、何度侑紀を責めただろう。全部侑紀のせいだと言って、侑紀の言い分は聞かずに。もし、その全部が咲の思い違いだったら?
侑紀の友達の言い分、侑紀の告白、そしてまだなにか言ってる女子のたち言葉。全部しっくりきてしまうのだ。
侑紀はもしかしたら。いや、もしかしなくても、咲のことが本当に――。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁっん、この人でなしー!! 肯定してよ否定しないでよなんかあたしわけわかんなくなっちゃったじゃんバカぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
完璧に八つ当たりだったが、がくがくとミキを揺さぶった咲は、再び猛ダッシュでその場から離れた。
顔が熱かった。全身から火が噴き出しそうだと思った。昨日からおかしい自分を自覚している。なんなんだこれは。おかしい、おかしい。こんな感覚を咲はしらない。
全身が粟立つように震えるような、自分が自分でなくなる感じ。心臓が耳の中で鳴っている。ぴょんぴょんと跳ねるように弾んだリズムで、開けて開けてと、閉ざされた扉をノックするように。
走っても走っても、咲の中で暴れるなにかは収まることもなく、振り切るように走り続けた咲は、いつの間にか上履きのまま校舎を飛び出していた。
空は暗くどんよりとしていて、雨はどんどん強くなっていた。身体に叩きつけてくる雨は、咲の全身をあっという間に濡らしてしまう。
雨水を吸った髪と制服が肌に貼りついて冷やすのに、咲の全身は内側に熱をもっているのか、熱いまま一向に冷める気配がない。
走って、走って走って気がついたら、咲は焼却炉の前に立っていた。
「…………」
錆びて赤茶けた焼却炉は、濡れていても変化があるようにもみえない。息を整えるためにしゃがみこむと頭を抱えた。
そもそもなんで、自分は侑紀にあんな態度をとるようになったんだろう。きっかけは、なんだっただろう。
さっき浮かんだ問いが、また浮かんだ。
女子からなんやかんや言われるようになったのは、小学校高学年からだった。それまでは侑紀と仲がよくて、毎日一緒に泥だらけになって夜になっても遊んでいた。
「――あ」
離れたきっかけは。そう、きっかけは、あの窓だ。毎晩親に隠れてこっそり遊ぶのが楽しかったのに、それをやめようと言われて裏切られた気分になった。
侑紀がひとりで大人になっていくようで、置いていかれたような気になった。それから咲は侑紀と少しずつ距離を開けていった。
拒絶されてしまうことが怖くて。
『――咲さん?』
呼び声に思考を中断させて顔を上げたら、友成が雨から浮き出るように姿を現した。咲はすっかりずぶ濡れてぐっしょりなのに、友成はどこも濡れた様子がない。
『どうしたんですか、傘もささないで。風邪を引いてしまいますよ』
「友成くん。……ううん、なんでもない」
ふるふると首を振って視線を落としたら、芝が濡れてくたりと倒れていた。まるでいまの咲のようだ。
『なんでもないなんて、そんなこと言わないで下さい。咲さんは僕の恩人なんです、だから僕も、なにかしたいんです』
姿勢を下げて咲の視線に合わせた友成が、伺うように眉を下げて食い下がる。僕は話がしたいですと、昨日咲が言った言葉をそのまま使ってきた。
恩人なんて咲はなにもしていないのに、不思議と救われた気がして小さく笑んだ。
「――ありがとう」
ちょっと泣けてしまって、咲はスンと鼻を鳴らした。友成が目を細めて笑う。
「……うん。なんかね、なんか。侑紀いるじゃん。アイツね、あたしのこと、本当にす、すす」
『煤?』
「す、き。……好きらしい。んだよ」
『なにを今更』
咲の決死の告白を、友成はばっさりと切ってくれた。それも即答で、呆れ顔というオプションもつけて。
『まさか咲さん、いままで信じていなかったんですか?』
「なにまさかって、なんでまさかなの? あんな軽く好き好き好き好き言われたら、冗談って思うじゃん! 大体友成くんはどうなのさ、なんで侑紀に憧れちゃったわけ」
癇癪起こしたこどものように腕を振り回した咲は。ごろりと地面に寝そべった。これ以上濡れることはないと思っていたら、背中からじゅわっと水が制服越しに染みてきて、余計に気持ち悪くなったが、降ってくる雨が面白くてじっと空をみつめた。雨はまるで咲めがけて落ちてきているようだ。
『……僕が元々、名波くんのことを嫌っていたと言ったら、咲さんはどう思いますか?』
「納得する!」
本当はもうそんな気も薄れてきているが、習慣というのは恐ろしい。考えるよりも先に答えていた。友成は苦笑した気配がした。
『僕が名波くんをしったのは、高一の春でした。クラスメートのひとりが名波くんの話をしていたのを聞いたんです。勉強がものすごく出来るのに茅ヶ崎にいったって。名波なら緑高でも首席入学くらいしたはずだって』
たしかにそれは咲も思ったことだ。茅ヶ崎高校はこの界隈でも、勉強が出来る人間が敢えて選んで通うような学校ではなかった。
咲にも緑高か地方の有名校にいくよう説得してくれと声がかかったくらいだし、教師たちとは相当揉めたはずだろう。
『僕もずっと勉強だけは得意で、というより勉強しかできなくて。なので勝手に、対抗意識燃やしちゃってて。……名波くんに、会いにきちゃったことがあるんです』
「侑紀にっ!?」
思わずがばりと身を起こした。意外すぎるほど意外だった。
『どんなひとなのか、一目みるだけのつもりだったんですが結局会えなくて、代わりに別のひとと出会いました』
照れたように笑った友成は空に視線を投げて、懐かしむように話す声は雨音にかき消えそうで、咲はじっと耳をすませた。
『まだ春先なのに、真夏みたいに日差しの強い日でした。授業を初めてサボって茅ヶ崎の傍まできた僕は、校門の傍で貧血を起こして座り込んでしまったんでしまったんです。その時、僕を介抱してくれたひとがいました』
そう言って友成は、咲をみて柔らかく笑んだ。優しい優しい笑みだった。
『そのひとは、なにもしゃべらない僕になにも聞かずに、隣に立って日よけになってくれました。そのときに、名波くんのことを教えてくれたんです』
嫌いだったひとに憧れるくらいだ、よっぽどいい話を聞かされたのだろう。そう思っていたら、友成は悪戯を思いついたこどものように目を細めた。
『その話はすべて、名波くんの悪口でした』
「えー?」
とんだ肩透かしをくらった気分だ。
『そのひとは、名波くんの話ばかりしていました。よっぽど腹に据えかねていたのか、直前になにかあったのかはわかりませんが、かなり頭にきていたみたいで、僕は相槌を返すのがやっとでした』
「……そんなんで侑紀に憧れちゃったの?」
『はい、憧れちゃいました』
晴れやかに笑う友成に、咲はなにも言えなくなった。ひとの感性はそれぞれだけど悪口でって。と、視線で訴えていたらしい。
友成が苦笑して、でもと続けた。
『それが単なる悪口なら、僕だってそんな風には思わなかったと思うんです』
ひとの悪意にはそれなりに多く触れていたから、ただの悪口であったなら友成は介抱してくれたひとを嫌っていただろうと笑う。
咲にはよくわからない。悪口はどうしたって悪口だろう。
『普通ならそう思えるんでしょうけど、僕にはそのひとの悪口は、小学生くらいの子が気になる子に、ついつい嫌いと言ってしまうようなものに思えたんです』
「そのひとって、女の子だったんだ」
『はい』
そして、興味がわいたという。名波侑紀とはどんな人物なんだろうと。勉強が出来るらしいこと以外、友成は侑紀をなにもしらないのだと気づかされたと。
『名波くんのこと話したそのひとは、ずっと怒ったような顔をしていて、でも、暖かかった。胸の中を柔らかくくすぐるような不思議な感じがしてこのひとは名波くんのことが、本当に好きなんだろうなって思いました。そして、このひとに好かれる名波くんはすごいひとなんだと、そう思ったんです』
「……」
むっつりと黙り込んでしまった咲をみて、友成はこらえきれないとでも言うように、ふはっと噴き出した。
『全然気がつかないんですね』
「なにが」
『そのひとって、咲さんのことですよ』
は。と、咲の思考が止まった。
「――え、……え?」
だってそうなると、咲は友成と会って話してることになる。去年の春、確かに見知らぬ男の子を介抱した気もするが、顔も覚えていないなんてどうして言えるだろう。
それになにより。
「あたしが、侑紀のこと……す、好きって、思ったの?」
『はい』
また即答だ。気持ちがいいくらい即答だ。打ったら響いちゃったくらいの即答に、咲はうがぁと頭を抱えた。
『咲さん、大丈夫ですか? さすがに中に戻った方が』
気遣わしげな声に、咲は首を振る。こんなぐちゃぐちゃした気持ちのまま、戻れるはずもない。
いろんなことが自分の思い込みと、臆病な心から生まれたものであった以上、侑紀の言葉が真実らしいと気づいてしまった以上、咲はきっと、答えを出さなければならないんだろうと思う。
もしかしたら、傍からみるとそう思われてしまうくらい、自分は侑紀のことが好きなのかもしれない。でも、咲にはわからない。
「……友成くん。ひとを好きになるって、どんななのかなぁ?」
自分でも情けなくなるくらい、弱々しい声が出た。恋の話は友達からよくされていたけれど、咲にはわからなくて、そのたび「斉藤はそのままでいいんだよ」と笑われていた。
侑紀に好きだと言われても、その言葉はもっと神聖で尊いものだと思っていたから、いるから、深く考えないでこのままきた。
だからいきなりそういうことを突きつけられても、混乱するばかりでよくわからない。
「あたしは、よくわかんない。侑紀のことが好きかどうか、とか。だって恋とか愛とか、よくわかんないんだもん」
どういう気持ち厳密に恋と呼べるか、教本でもあればいい。そうすれば咲だって、自分のこの不確かな気持ちに名前をつけられるのかもそれない。
『僕は、勇気をもらうことだと思います。変わろうとする勇気。一歩踏み出す勇気。そういったものを、僕はもらいました』
ひざを抱えてしまった咲に、友成は労わるように優しい声で言う。
「友成くんにも、好きなひといたんだね」
照れたように頷いた友成をみて、咲はほっとしてしまった。侑紀から聞いた友成の話はなんだか寂しかったから。
「どんなひとだった? うちの学校? もしかして友成くん、侑紀にじゃなくてその子に会いにきたんじゃないかな」
そうだったらいいと思った。けれど、友成がもういないことにも思い至る。
こうやって普通に言葉をかわせるから、笑ったりしていられるから、忘れそうになってしまうが、一度思い当たってしまうと身体が冷えて縮んだように痺れた。ぎゅっと胸が痛んで、涙が出てしまいそうになる。
最初は心残りをなくして成仏させてあげたいと、そうすることがきっと友成にとってのいいことだと、そう思っていた。
でも本当はどうなんだろう。死んでしまっても友成の心はここにある。本当にこのままいなくなってしまってもいいんだろうか。
友成がいまここにいる意味、それをもっと咲は考えるべきなんじゃないだろうか。
「あ、そうだ。今日ね、侑紀と友成くんの家にいこうって話してるんだ」
暗くなってしまいそうな自分に気づいた咲は、唐突に話題を変えた。友成は不思議に思うかもしれないが、これ以上友成に心配をかけたくなかった。
「……友成くん?」
いきなり家にいくなんて言ったから、驚かせてしまっただろうか。友成の表情が急に強張ったようにみえた。
言葉を続けようとしたら、不意に咲に降り注ぐ雨がやんだ。けれど、木や草に雨は容赦なく降り注いだままだ。
かさりと草が揺れてすぐ隣りにひとの足が現れる。
大きく見開かれた咲の視界いっぱいに、真っ白なスポーツタオルが現れて、雨の代わりのように落ちてきた。
見上げれば、青いビニール傘が咲と雨との間に入り込んでくれていた。それを持っているのは、
「――侑紀」
なんで? と、見上げたら、侑紀は怒ったような顔で咲の腕を引いて立たせた。じっとりと濡れた袖をつかんだときに、侑紀が眉を寄せたことに何故だか胸が痛む。
「咲ちゃんノート投げてったから、川野サンとこ届けてきて遅くなっただけ。本当はすぐに追っかけてきたかったよ」
咲をみないまま侑紀が言う。淡々と、静かに。雨が傘を叩く音で声が聞こえ辛い。
あんなに、侑紀と顔を合わせるのはいやだと思ったのに、同じ傘の下に立つ状況は不思議と心地よくて、咲はうつむいた。
怖い。でも、嬉しい。相反する気持ちが溶け合おうとして、苦しい。
「金田。お前いつまでここにいる気だ」
唐突な侑紀の発言に、咲は驚いた。
「咲ちゃんも、とっとと戻って着替えなよ。風邪引いたらどうすんの。もうすぐ中間テストじゃん」
侑紀が怒っているのは咲にもわかった。自分を一度もみない。だからってそれが引く理由にはならないと、真っ向から対立する。
腹立たしさがなにより先にたった。
「やだよ! なんなの侑紀、いきなり友成くんにひどいこと言ったり。友成くんはここに好きでいるわけじゃないって、昨日言ってたじゃん!」
『いえ、いいんです咲さん』
「よくない!」
間に入ってくれようとしてた友成を一蹴して、咲は侑紀をキッと睨みつけた。お腹の中がぐるぐると気持ち悪い。侑紀は一度も咲をみない、それが不快感を増長させているような気がした。
「咲ちゃんの同情狙いなら成功してるけど、結局どうしたいのお前」
畳み掛けるような言葉は、真っ直ぐ友成に投げつけられる。昨日は協力してくれるようなことを言っていたはずなのに、いまはその気配さえみえない。
咲にはわけがわからなかった。今日だって放課後、友成の家に一緒にいこうと言っていたのに、その放課後よりも前に友成にひどいことを言う。
「……なんか、あったわけ?」
一変した態度になにか理由があるのなら、まずはそこから説明するべきだ。なのに侑紀は咲の問いをばっさりと切った。
「教えたくない」
「――っ」
態度から言葉からにじみ出ている拒絶に、咲はなにも言えなくなった。言葉を発して否定されることが、怖いとはじめて思った。
「あ……」
不意に雨に冷やされていた頬が、目尻からあごへ線状に熱を帯びた。手で触れても雨で濡れているだけで、おかしなことはなにもないのに。
「あれ」
『咲さん?』
真っ先に異変に気づいたのは友成だった。咲の顔をそっと覗きこんで驚いたように目をみはる。
そこで侑紀も、咲の様子がおかしいことに気づいたらしい。目を大きく見開いて、オーバーなリアクションで咲の肩をつかんだ。
侑紀の手から離れた傘を反射的に受け取った咲は、びっくりするしかない。
「え、なに。ふたりともどうしたの?」
がらりと場の空気が変わってしまった。侑紀はものすごく咲を凝視しているし、友成も気遣うような視線を向けてくる。
戸惑いながらも咲は、やっと侑紀が自分をみてくれたことにほっとしていた。
「侑紀、友成くんいいひとだよ。あたしのこと心配してくれるし、昨日だってすごく真剣に話してくれたじゃん。それでも友成くんを悪く言うなら理由くらい説明してよ」
さっきまでのすくんだ気持ちが嘘のようになくなって、自分でも不思議なほどスラスラと言葉が出た。
けれど侑紀は咲の問いには無言のまま、咲が持ったままにしていたタオルを奪い、咲の頭にかぶせてきた。
「ちょっ、なにすんの!」
ひとが真剣に話ているのに! 出かかった文句は突然抱きすくめられたことで、ノドの少し手前でぴたりと止まった。
真っ白い視界の先では、一体なにが起こったというのだろう。この状況がわからない。状況を整理したくても、頭がうまく働いてくれない。乾いたシャツの感触とか、雨と海っぽい香水の混ざった匂いとか、そんなことでいっぱいいっぱいになってしまう。
「咲ちゃん、ごめん」
耳元に囁かれた侑紀の声はかすれて、ものすごく反省してひとのようで、背を撫でるてのひらは優しくて、咲は戸惑った。
「……なんで、侑紀があたしに謝んの?」
「泣かせちゃったから」
ふぁさりと目隠しのタオルが外されて、侑紀の腕の拘束が解ける。
「ごめんなさい」
侑紀に深々と頭を下げて謝罪され、咲は思わず頬に手をやっていた。濡れていたのは雨のせいではなく、咲が泣いていたからだということなんだろうか。
「咲ちゃんが金田にかまうのが気に食わなかったんです。その延長で金田の家にも、ひとりで勝手にいっちゃいました」
「はぁっ!? じゃあさっき友成くんにひどいこと言ったのもそんなことで? っていうかなんでひとりでいっちゃうの!? 昨日一緒にいくって約束したんじゃん!」
詰め寄る咲に、侑紀は視線をそらせて言いよどむ。もごもごと口の中で小さく、なにか言っているが雨音にまぎれて聞こえない。
『咲さん、名波くんを責めないであげてください。僕も、謝らないといけないことがあるんです』
友成も侑紀の隣りにならんで、咲に深々と頭を下げてきた。
『昨日話したことに嘘がありました。事故の日にこの学校へ来たのは、会いたいひとがいたからなんです。言い出せなくて、結果嘘をつく形になってしまいました』
片方は半透明だが、雨の中男ふたりが頭を下げているというのはなんだか異様だ。
「謝らなくていい。謝る必要なんてないよ」
言いながら侑紀と友成に傘を傾けたら、さすがに狭かった。
「……その会いたかったひとって、友成くんの好きなひと?」
問いに友成は顔を上げて、少し悩んだ素振りをみせてから小さく頷いた。
「友成くん、いまからでもそのひとに会いにいかない? この学校にいるんならあたしが呼んでくるし、やっぱり伝えたいことは伝えた方がいいと思う」
その女の子は困惑するかもしれない。友成をみることが出来ないかもしれない。咲や侑紀のように逃げ出すかもしれない。
でも、もしかしたら。そんな風にはならないかもしれない。そんな可能性が少しでもあるなら、友成は想いを、残していけるかもしれない。
けれど、友成はゆるく首を振る。左右に。
『本当にいいんです。そのひとの隣りにはすでに違うひとがいて、僕じゃ敵わないってわかったんです』
「それでもいいじゃん!」
たとえそうでも、伝えるくらいはしてもいいはずだ。だって咲なら嬉しい。気持ちに応えられなくても覚えていたいと思う。
『もう本当に、僕は満足なんです』
「友成くんっ」
「咲ちゃん」
侑紀に肩をつかまれていさめられた。
「本当に、いいんだな?」
念を押すような侑紀の問いに、咲が疑問を抱くより早く友成が頷いた。
『僕は、現状に満足しています。名波くんがそうやって意識してくれている分には、存在を認めてもらえたということでしょう?』
問いに侑紀は答えずに渋面を作る。それをみた友成は、天気とは裏腹に晴れやかに笑って、どんよりと重たい雨空を見上げた。
『――なにより、僕の目的は叶ったんですから』
呟いた言葉は、清々としていた。
それは、その好きな子に会えたということだろうか。問いかけは、咲の口から出ることはなかった。
「友成く……っ」
友成の腕が、少しずつ色や形を失くしていた。友成の向こうにあった焼却炉はさっきまでおぼろげだったのに、鮮明にその姿を現しはじめている。
『ああ本当に、時間がないみたいです』
もうちょっと、持つと思ったんだけどな。 小さく呟いた友成は傘の下から出て、咲と侑紀に向き直ってぺこりと頭を下げた。
『色々と、お騒がせしました』
その姿が景色ににじむように、薄くなっていく。
「友成くんっ!」
消えてしまう。いなくなってしまう。そう思ったらいてもたってもいられなくなり、咲は傘を投げ出して友成に駆け寄った。
「あたし、……あたし」
『咲さん、ありがとうございました』
にこりと微笑んで、友成は咲に右手を差し出した。思わず咲はその手に自分の手を伸ばす。触れられなくても、そこだけが暖かい気がした。
『咲さんが。僕のために怒ってくれたり、いろいろ考えてくれたりしたこと、本当に嬉しかったんです。それだけで、この一ヶ月が無意味なものではなかった気がします』
眼鏡の奥の目が優しげに細まる。昨日泣き出しそうに思えた寂し気な顔は、いまはどこにもなかった。
「……あたし、なんにもしてないよ?」
『いえ、咲さんに会えたことに意味があったんです』
咲にはよくわからなかった。ただ、友成がいま笑っていることだけはわかる。
「……もう、寂しくない?」
『はい』
「あたしのこと、忘れないでいてくれる?」
『もちろんです』
「――友成くんと、友達になれたって思ってても、いい?」
最後の問いに友成は答えず、侑紀に伺うような視線を向けた。
なんで侑紀に。と咲が思うより、咲に傘をさしかけていたらしい侑紀が、憮然としたままため息まじりに答える。
「……別に、問題ないんじゃねーの」
友成のかすかにみえる顔が困ったように眉を下げ、笑んだ。
友成の輪郭が、どんどん溶けていく。肌のふちがおぼろげになっていき、さらさらと砂がこぼれるように姿形を失くしていく。
『――』
「……友成くん?」
音にならない言葉は、咲の耳まで届かずに雨の中かき消える。友成も、雨に溶けるように消えてしまった。
握手していた手を伸ばし友成のいた辺りを探ってみるが、友成がいた痕跡はどこにもなかった。
「……返事、聞きそびれちゃった」
「聞かなくてもわかるんじゃない。あいつ、笑ってたじゃん」
「でも、なんかちょっと困ってた」
「まぁ、トドメ刺されたもんだしね」
「トドメ?」
「ふっつーに考えて、勉強に勝てない話もしたこともない、しかも野郎に、憧れるわけがないっていうねー」
ぼそぼそとした声で、しかも咲と逆の方向をみて言うから聞こえずに聞き返した。けれど二度は言う気がないと、曖昧な表情ではぐらかされてしてしまった。
「つーか咲ちゃん、返事なら俺だってほしいよ? ちゃーんと、俺が本気だってわかってもらえたんだよね?」
唐突に矛先を変えた侑紀に、咲はうっと詰まった。せっかく落ち着いていたのに、また頭の中がぐるぐるしはじめる。
混乱しているから咲は気づかない、侑紀の余裕に満ちた笑顔も、友成にしか打ち明けていない話を、侑紀がしっていることも。
「うーあーえーっとー」
じりじりと後ずさりしながら、咲は必死に言い訳を考える。
好きか嫌いの二択なら好きなんだと思う。多分、おそらく、きっと。
侑紀の本気を感じ取ってから、咲もものすごく意識してしまっているが、これが恋なのか動揺してるだけなのか、自分でも判断できなかった。
「わ、わっかんない!」
後退したら同じだけ距離を詰めてくる侑紀に、両腕を思い切り突き出した咲が出せた答えはそれだった。
「だだだって、そんなのわかったからって急に考えられないじゃん! いままでずっとからかわれてるって思ってたんだからっ! だからっ、もうちょっとだけ待って!」
「うん、わかった」
保留と叫んだ咲に、侑紀は拍子抜けしてしまうほどあっさりと頷いた。
「ちゃんと考えてくれるんならいーよ。いままでに比べればすっごい進歩だし。それより咲ちゃん、本当に早く着替えた方いいんじゃない。今日三組って体育あったっけ?」
「…………ない」
告白云々より、もっと重要な問題が横たわっていたらしい。
さすがに下着まで濡れてしまったら、ジャージがあっても無意味かもしれない。一度意識してしまえば、靴からも歩くたびじゅわじゅわと生ぬるい水が滲み出して、靴下に再び吸収される感じが気持ち悪い。
上履きなのが、救いなのかそうでないのかは、いまいち判断できなかった。
「……今度からは後先考えよっかな」
ぽつりと呟いた咲に、侑紀がぶはっと噴き出した。
「笑うな!」
「やー、うん。ジャージは俺の貸すよ」
笑いを残した声で侑紀は言う。
自分だってずぶ濡れの咲を抱きしめたせいで、胸から下のシャツの色が変わってしまっているくせに。
「だからさ、咲ちゃんはずっとそのままでいてよ。後先とか考えないで、思ったことを思った通りにやってくれてる方が、咲ちゃんらしくて俺は好き」
「……なにそれ」
誉められてるのかけなされてるのか、わからない。しかもさらりと、好きとか言うし。
いまいち突っ込みきれなくて、咲は誤魔化すように空を見上げた。心なしかさっきよりも雨の勢いは弱くなっている。
「……友成くん、ちゃんと成仏できたかな」
成仏したら泣けるだろうか。泣けないのなら、楽しいことばかりあればいいのに。
そう侑紀に話しかけたら、なぜか気まずそうに視線をそらされた。
「あー、咲ちゃん。その件に関してなんですが、言ってなかったことがあります」
咲の顔色を伺いながら侑紀が挙手をした。
「それって、さっき言いたくないって言ってたこと?」
「関係、なくもない」
怒らないでねーと前置きをして、侑紀は誤魔化すようにへにゃりと笑った。