2 「咲ちゃんの右は世界狙えるんじゃないかと思うよ俺」
やはり少なめなお弁当では、一時間と持たなかったようだ。
空腹を訴える腹を抱えながら、咲は五時間目のチャイムとともにダッシュで校舎を飛び出して、人気のない校舎裏へやってきた。目の前には校舎をぐるりと囲む、高い高いコンクリートの塀がある。
植樹されている木は新しい葉をつけてざわざわと風に揺れていて、草木独特の匂いが鼻をくすぐった。
しかし夏の気配漂う香りなんて、いまの咲にはどうでもいいことだった。
パンと両頬に一発気合を入れ、咲は一気に塀に駆けより地面を蹴った。ここを越えて少し走ればコンビニがある。急げば余裕で休み時間内に戻ってこられる。
しかし。
「ちょっと待った」
「はえ?」
もう少しで塀のてっぺんに手が届く。というところで、突然腹部に腕が回った。
失速したことにより咲はバランスを崩し、身体がぐらりとかたむく。
「うっ、わ――」
地面に倒れこみそうになった身体は、抱き込んできた腕にしっかりと支えられ、最悪の状況は回避された。はーと安堵の息を吐いた咲は、突然現れた男をキッと睨んだ。
「い、いきなりなにすんのよ侑紀!」
本当に、本当に、びっくりしたのだ。
ちょっと目のふちに涙をため、心臓がバクバク言わせたまま侑紀を怒鳴りつけたが、侑紀は心外だとでも言うように眉をひそめた。
「咲ちゃんのこと助けただけだよ」
「危険に晒したの間違いでしょーが!」
地面と衝突事故寸前だったのだから。
「ねぇ咲ちゃん。この塀の向こう側で事故があったのはしってる?」
咲の突っ込みは無視して、侑紀は勝手にしゃべりだす。身体をしっかり捕まえられている咲は、逃げることも出来ずに憮然とその話に付き合うしかない。
「……緑校の生徒でしょ。先月だっけ?」
いまでも色々な噂が飛び交っているが、パトカーと救急車がやってきたのは、咲の記憶に新しい。
新学期がはじまってまだ間もない頃だ。ここから少し離れた進学校の男子生徒が、塀の向こう側で大型のトラックにひかれた。
その少年の家が事故現場とはまったくの別方向にあることや、彼の友人がこの付近にいないらしいこと、まだ授業のある時間だったことなどが生徒の間で話題になって、中には面白おかしく話を作り上げて笑っているひともいた。
この近くの人妻と不倫していたんじゃないかとか、薬の売人がいて買いにきたんだというような、ゴシップ誌の顔負けの根拠のない噂話だ。
「そうそう。その事故があってから、この向こうの道は頻繁にパトカーが巡回してるんだよ。だから迂闊に出てったら危ないよって言ってるの」
「……それはわかったんだけど、いつになったら離れてくれんの?」
塀を乗り越えてるところをお巡りさんにみつかるのはマズイ。それは理解したが、咲と侑紀はいまだにくっついたまま、社交ダンスでも踊れそうな距離にいる。
「咲ちゃんが俺のこと好きになってくれるまで。とかどう?」
にこやかな笑顔が近づいて、反射的に咲は右拳を突き出した。
「……おおおお、咲ちゃんの右は世界狙えるんじゃないかと思うよ俺」
「やっかましい! この万年セクハラ男!」
「セクハラってひどいな。ただの愛あるスキンシップなのに」
腹を押さえてうずくまったまま侑紀はふと真剣な表情を浮かべて、咲の袖口をつかんで引っ張ってきた。
「――咲ちゃん、あのさ」
「なによ?」
よくよくみると侑紀の顔は青ざめていて、咲の背後を注視していた。なにかあるのかと振り返りかけ、罠かもしれないと思いとどまる。
「……いや、なんでもない。とりあえず、いこっか」
自然な動作で肩を引き寄せられた咲は、校舎へ連れられそうになっていた。
「ちょっ、戻るんなら一人でいけっつの!」
抵抗しても空腹のせいで力は入らないが、侑紀はその抵抗さえ煩わしいのか、咲を軽々と抱え上げた。
「ちょっと本気でなにする気よ! おーろーせーこの変態!」
力いっぱい抵抗しても、侑紀は咲を下ろそうとはしなかった。ぽかすか殴ってもだ。しかも校舎ではなく、ひとなんて絶対こないだろう方角に走りはじめた。
「後で理由は言うから、いまはおとなしくしててって」
珍しく真面目な口調はかえって演技っぽくもみえるし、解放される様子もない。どうしたものかと思案をした咲は、ふと下ろした視線の先にあるものをみてぎょっとした。
「ゆゆゆゆゆゆゆゆーき!」
思わず抵抗をやめて侑紀にしがみつき、これは夢だろうかと疑った。
「ひひひひひとが、仰向けのまま高速移動してるぅぅぅぅぅぅっ!!」
カサカサカサカサと黒光りする生き物を彷彿する動きに、そのひとが半透明で土の地面や雑草が透けてみえることより、生理的な嫌悪から咲は全身の毛を逆立てて叫んでいた。
「うぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「……咲ちゃん。俺はまだ耳がキンキンいってるよ」
「うん、ごめん」
今は使われていない焼却炉の傍に場所を移した咲と侑紀は、焼却炉の影にしゃがみこんでぼそぼそと話をしていた。
もうオンボロの焼却炉は、全体的に錆びていて汚い。咲が入学したときにはすでに使われなくなっていて、焼却炉の他には雑草が好き放題伸びてる以外なにもないから、存在は知っていたがきたのは咲も初めてだった。
「いやいいんだけどね。うっかり落っことしたら危なかったり、先生にみっかったら色々面倒になるとかね、あるじゃんさすがに」
「うん、だからゴメンってば」
そんなふたりを半透明なひとがオロオロと見守っていたが、それは全力でスルーしていく方向でふたりの意思は一致していた。
『あの』
「ところで、今度のデートはいつにする?」
「あ。そーだねぇって、どさくさにまぎれてなにありえない事実作ろうとしてるわけ?」
『すみません』
「えー、いいじゃない。一緒にお風呂に入った仲なんだし」
「事実を間違った方向に誘導するのもやめてよね。それだって小学生までじゃん」
「でもいまの咲ちゃんと小学生に、大きな違いはないじゃない」
「……なんの話を」
『――憑き殺しちゃいますよ?』
存在を忘れ去りそうになっていたものが、突然そんなことを言ってくるから、思わず咲と侑紀はぴたりとその口を閉ざした。
『ああ、よかった。これでちゃんとお話が出来ます』
そう言ってほっと胸を撫で下ろしたのは、丸い眼鏡をかけたおとなしそうな少年で、真面目なひとなのか、緑山高校の学ランのボタンを、きっちり一番上までしめていた。
でも、透けている。
先ほどの笑えない発言に石のように固まっている咲と侑紀をみて、彼は心底申し訳なさそうに頭を下げた。
『あ、すみません。憑き殺すっていうのはほんの冗談です。でないと、話を聞いてもらえないと思ったものですから』
「……は、はぁ」
『はじめまして。おふたりのことは以前からしっていました。僕は金田友成と言います』
「あ、これはご丁寧に」
正座でぺこりと頭を下げられ、思わず咲もそれにならって頭を下げる。
「ええとそれでそんな金田さん? が、あたしたちになにか用ですか?」
完全に話が通じていることがばれてしまえば、もう無視することも出来ないし、悪い幽霊でもなさそうだ。そう思い直した咲がしっかりと友成をみつめれば、彼は弱々しく笑って首を振った。
『金田さん。なんて呼ばないで下さい。僕はおふたりと同い年ですし』
「じゃあ、友成くん?」
「って、ちょい待ち咲ちゃん。なんでそんなに順応性早いかな」
がくりとうなだれた侑紀に突っ込まれ、習うより慣れろだと宣言したら、ぬるい笑みを向けられた。用法が違っていたらしい。
けれど侑紀はすぐに立ち直ったようで、あぐらをかいて友成を睨んだ。
「最初に言っとくと、咲ちゃん俺ンだから」
「こいつ目を開いたまま寝言とか言うけど気にしないで」
肘で侑紀のわき腹をつついた咲は、表情を変えないまま友成に話の続きを促す。友成はといえば、困ったように咲と侑紀を交互にみて、説明が先と判断したらしく頷いた。
『僕の話が聞こえてきたので、たまらず出てきてしまいました。なんかご迷惑かけてるみたいですみません』
「あ。あーあーあー。もしかして」
さっき侑紀と話していた、事故に遭った緑高の生徒とは彼のことなんだろうか。
『はい、そうなんです』
すまなそうに視線を落とす彼はみるからにしょんぼりとしていて、怖いという感情もどこかへ飛んでいってしまった。
『……買い物を邪魔してしまったこと、せめて謝りたくて』
「友成くんが悪いわけじゃないよ。悪いのはこのバカだし」
慰めるように笑って侑紀を指させば、難しい顔の侑紀が口を開いた。
「……金田は、なんでまだ茅ヶ崎に残ってるんだ。事故現場なのはわかるけど、そんなに思い入れのある場所じゃないはずだろ」
「侑紀?」
侑紀の口調はケンカ腰ともとれるほどツンケンしていて、いきなりそんな態度をとっては友成に失礼だろうと思ったが、友成はなにかを噛みしめるようにうつむいているだけだった。
「友成くん?」
『あ、ああすみませんっ。あの、名波くんの言うことはもっともなんですが、何故だかこの学校から離れられないんです。成仏とか、出来ればいいんでしょうけど』
「は? お前なに言って」
「なんか心残りとかない? そういうの解消したら成仏するとか、漫画とかでみるけど」
侑紀の言葉を遮るように、咲は身を乗り出した。侑紀はなにが気に食わないのか、友成にやたらと横柄だ。
「そんなのどうでもいいじゃん」
「よくない」
事故からもう一ヶ月が経つ。その間、無関係な学校から離れることも出来ず、成仏もできないでいるなんて寂しすぎるじゃないか。
「でも俺らにはどうしようもないでしょ。てーわけで、いくよ」
休み時間が終わると言って、侑紀は咲を促した。どうしても咲をこの場にとどめたくないらしい。
「ひとりで戻れば?」
「てね。咲ちゃんわかってる? 彼幽霊よ」
呆れ顔で友成を指さされた。確かに半透明だし、多少浮いているようにもみえる。でもそれだけだ。
「自分に好意を持った女けしかけて、幼なじみ囲い込ませるような男より、害はないと思うけど」
ねぇ? と友成をみれば、オロオロと自分たちのやりとりを見守っていた。侑紀は彼を警戒しているが、咲にはそんなに悪いひとにみえない。普通の、どこにでもいそうな男の子だ。
「よっし、なんとかしてみよう」
「はぁっ!?」
「困ったひとがいたら、助けてあげないといけないじゃん」
拳を作って、咲は高らかに宣言をする。
「そんな勝手な」
「別に侑紀はいいよ付き合わなくて。アンタがいたって面倒なだけだし」
『そんなっ、名波くんはすごいひとです!』
唐突に友成が割り込んできて、びっくりして視線を向ければ、彼は気まずげに口元を押さえていた。
「……友成くんて侑紀のこと、好きなの?」
「ちょっ、なんつーこと聞いてんの」
侑紀の発言は丸々無視して、友成だけをみた。別にそうならそうで咲はかまわない。
友成は少し迷ったように侑紀をみて、それから視線を落とすと、小さく囁くような声で告げた。
『……憧れ、なんです』
「アンタって、男にもモテんのね」
「俺はまったくさっぱり微塵も嬉しくない」
淡々と侑紀が言うのと同時に、休み時間終了のチャイムと、一緒に咲の腹が鳴った。
「コンビニに、いくの忘れてた……」
「そこでさ、恥ずかしがったりしないのが咲ちゃんのすごいとこだよね」
「うん、間に合わない授業のことを考えるのは非建設的だから、友成くんについて考えてみよう」
侑紀の突っ込みと、ぐーきゅるるるると鳴り続ける腹はなかったことにして、咲は改まるように正座をして友成をみる。友成もつられたように正座をして咲をみた。
「あ。よくみると足あるんだね」
『はい、僕もそれには驚いてるんです』
幽霊は足がないもんだと思っていた咲は、早速脱線して友成の足をじろじろとみた。
『じっとみられるとなんだか照れますね』
「あ、ごめん」
『いえっ、不快なわけじゃないです』
慌てたように手を振る友成に、咲はふと思った。
「そういえばあたし、幽霊みたのはじめて」
「言われてみると俺もだ」
『僕も、こうなってから誰かと話をしたのは初めてです』
「じゃあ、初めて同士だ」
ね。と、笑いかけて、友成をみた。
「ねぇ、聞かせてもらえないかな。友成くんのこと」
『え?』
「あたし、友成くんのことなにもしらないからしりたいの」
「俺は咲ちゃんの腹の音が気になるけど」
「うるさいなぁ! って、友成くん?」
友成が俯いて黙ってしまったから、咲は四つん這いになって友成の顔を覗きこんだ。
「大丈夫?」
『す、すみませんっ。僕、そんな風に言ってもらえたの、はじめてで……』
咲には一瞬、友成の顔が真っ赤になって目に涙をためているようにみえた。けれど実際は、顔をくしゃくしゃに歪めているだけで、涙なんか一粒も流れていない。
それがかえって辛そうで、苦しそうにみえて、触れられないのを承知で咲は友成の頭に手を伸ばした。
「……よしよし。落ち着いたらゆっくり話そうね」
頭を撫でるような仕種をしてやるが、咲の手は宙をいったりきたりするだけで、友成の身体には触れられない。
たしかにここにいるのに。
手をぎゅっと握りこんだままの友成をみていると、だんだん切なくなってきてた。
幽霊って、泣けないのか。
出かかった言葉は、苦い気持ちと一緒に飲み込んで、咲は友成が落ち着くまで手を動かし続けた。