8話 ラーズの過去
部屋の照明がつけられ、暗闇に慣れた目が痛むほどに光を拒んだ。しかしそれも一瞬のこと。しばらくすれば、今度は明るい環境に適応していく。
目が光に慣れれば、寝室の状況も確認できた。大きなベッドには、憮然とした様子のアイリスが掛け布団を肩まで上げて恵体を隠していた。肩が素肌ということは、布団の下はそういうことなのだろう。加えて大きな枕が綿を露出させながらベッドに横たわっている。包丁で感じた手応えの正体はあれだったようだ。
目の前に立つ蒼銀の少女は、薄青色のネグリジェを可憐に翻した。表情は依然として柔らかい笑顔だ。
「これでハッキリしたわ。最近の貴族や地主の連続不審死の犯人はラーズ……あなたね!」
リオンは人差し指の先端を俺に向けた。さながら探偵小説の主人公のように、誇らしげな顔で。
「だったらどうする。俺を糾弾して殺すか? それとも公安に突き出すか?」
「なんでそんなことするのよ」
あっけらかんとしたリオンの態度に瞠目した。が、すぐに意識を正す。
「こっちだって言いたいことがあるぞ。お前は吸血鬼だろ」
「うん」
リオンは子供のように首肯した。
吸血鬼。それは、この世界をかつて支配していた化け物たち。
彼らは生まれながらにして一つの超常的な特異能力を持つ。リオンの場合、いま俺を縛り上げているこれだろう。
「血の操作……いかにも吸血鬼な能力だな」
「そうね。私もそう思うわ」
どこか他人事のようなリオンの口ぶりに、思わず口をつぐんだ。
リオンは続ける。
「吸血鬼である私をどうする? 公安に突き出す?」
吸血鬼の覇権は長くは続かなかったと歴史書は語っている。吸血鬼は三〇〇〇年も生きる種族と言われるほど寿命が長い。その分、繁殖への欲求の大きさは人間と比べたら塵のようなものらしいのだ。
対して人間は百数年前から人口を爆発的に増やし、産業を大発展させた。それにより、吸血鬼の覇権は終わりを告げた。今では吸血鬼の存在を知らない人間がほとんどである。かくいう俺も、昔俺を飼っていた爺さんの歴史書を読んで、初めてその存在を知ったのだ。
だから公安に突き出したところで、どうにかなる問題じゃない。いやそもそも……
「生殺与奪の権を握っているのはお前だぞ」
「そうね。不敬にも主人に噛み付いた奴隷の処遇を決めるのは、他でもない主人である私よね」
リオンが俺に向け手を伸ばした。瞬間。
「ぐぁぁっ!」
俺を縛る血の縄が、有刺鉄線のように牙を剥いた。血の針が肉を抉り取り、どくどくとした鮮血を流し出す。全身を襲う鋭い痛みに、俺は言葉を失った。やがて血縄による拘束は解かれ、俺は床を這いつくばる。身体に空いた無数の穴に冷や風が流れ込む冷たさを感じた途端、たちまち俺にできた無数の傷は塞がっていった。
肉と肉がつながり、失った多量の血は体内に帰還し、痛みは過去のものになる。
「そう、あなたやっぱり真祖の力を持っているのね」
俺の秘密が、蒼銀の探偵もどきによって明かされた。
「お前はこの力のことを知っているのか」
「ええもちろん。だからあなたに声をかけたのだしね」
「どういうことだ。何を言っている」
「出会った時に言ったでしょう。ちょっと臭いって。あなたからは真祖の力の匂いを感じた。その匂いを隠せない半端者であるともわかった」
「すまない、何を言っているのか本当にわからないんだが」
「話しなさい。あなたの過去を。真実を告げてあげるわ」
紅蓮の瞳はいつしか再び燃えるように、切迫するように輝いていた。
俺はその力に屈し、口を開く。眠らせた記憶を思い出させる。
今まで誰にも話してこなかった過去を、口にする。
◆
俺が初めて主人を殺したのは、十歳になった時だった。その主人は奴隷に対して暴力的なことで有名で、また多くの奴隷を飼っていたことでも有名だった。
労働奴隷、家事奴隷、サンドバッグ奴隷、性奴隷。さまざまな奴隷たちと馬小屋で共同生活をし、俺は奴隷としてのスキルを高めていった。
そこでは知り合いが死ぬのは日常茶飯事であった。時に病気で、時に労働災害で、時に主人に殺されて。理由はさまざまだが、奴隷としては平凡な結末を辿るものが多かったのである。
俺が八歳の時、当時の奴隷のリーダー的存在が大人奴隷を集めてこう言った。
『主人を殺そう。俺たちで革命を起こすんだ』
結論から言うと、その計画は失敗した。奴隷はろくな食事も与えられず、栄養状態もよくない。そんな身体で、ちょっと重労働しているくらいの奴隷がボディーガードをつけた金持ちを殺すことなど出来はしないのだ。
しかし、大人たちの行動は俺の頭に一つの選択肢をもたらした。
……そうか、いまの主人が気に食わなければ殺せばいいんだ。
そして十歳になったとき、俺は初めて主人を殺した。その頃の俺は剣闘士としても働かされており、職場から剣を持ち出していたのだ。そして研鑽を積んだ俺は、子供ながらにボディーガードすらも倒すほどに成長。見事革命を果たした。
奴隷たちは解放された。財産を盗んで店を開くもの、藁にもすがる思いで就職するもの、重労働で汗水を流し、給料を得るもの。彼らの新しい人生が始まった。
対して俺は、新たな主人に奴隷として迎え入れられていた。強制されたのではない。俺は自らその街の奴隷市場に赴き、次の主人が現れるのを待ったのだ。
俺は主人を殺した。奴隷という身分に嫌気がさしたのではない。むしろ奴隷は気が楽だった。自分の人生で、何を考えることもなく、レールを与えてくれるのだから。
しかし、将来の不安は残った。手に職のない老人奴隷がどんな結末を迎えるか、何度もこの目に焼き付けてきたからである。それと同時に、身につけたスキルに自信は持っていた。
……家事に労働、剣闘士やスパイまでこなせる。俺はもう、奴隷の中の奴隷。プロと言っても差し支えない。
そう思った俺は、次の主人も、また次の主人も、俺に足らない人間だと思ったら殺した。主人を殺して、殺して、殺す。主人を変えて、変えて、変える。
俺は奴隷であり続ける。奴隷のプロであり続ける。目標は、奴隷としての賞味期限が切れる二十五歳までに、人生を捧げるに足りる主人を見つけること。その人に飼われること。もしそんな主人であれば、たとえ暴力を振るおうとも横柄だろうとも構わない。
様々な貴族を殺した。怪しまれると、街を移った。この時代、どの街でも若い奴隷は必要とされる。だから新しい主人を見つけるのは容易かった。そして一月が経てば、審判によって不合格となった主人を殺した。
そして月日は流れ、二年前。
俺はとある老人に飼われることになった。その老人はギリギリ白髪は残っているが、もう禿頭といっても過言ではない男だった。骨が露出しているのではないかと錯覚するほどの痩身は病的に映った。あの衝撃は今でも忘れはしない。
「儂はもう長くない。介護を頼むぞ」
「……はい。お任せください」
飼われたその日から、老人のことは殺す気だった。
だってこの老人はもうすぐ天寿を全うするだろうから。俺の人生を捧げるに足る人物であったとしても、俺より先に死んでは意味がない。
老人の屋敷には古い書物がいくつも置いてあった。興味を持って読んでみると、やけに吸血鬼のことが書かれていた書物が多かった。伝説上の生き物だと思っていたが、歴史書として吸血鬼の話をまとめられると信じざるを得なかった。俺は学びの機会を与えてくれた老人に感謝して、武器も持たずに夜襲を仕掛けた。
「うぐぉっ!?」
散りざまは一瞬だった。
椅子の後ろから首に手を回し、病的に細い首の骨を折るだけ。一撃必殺の、暗殺術だ。
「はぁ、また就職活動か。今度こそいい主人に出会えるといいんだが」
「はは、お前の腑がここまで黒いとはな」
「……なんだと!」
俺は目を疑った。先ほど確実に殺した老人が、俺を哄笑しているのである。
……首を折ったつもりでしくじったのか?
冷静な判断で、次いで俺は手刀で老人の腹を貫いた。
「ぐおぉっ!」
うめき声をあげた老人が絶命したのを今度は念入りに確認して、俺は踵を返した。
その時だった。ついさっきまで血にまみれていた老獪が、乾いた笑いをこぼしたのだ。
「ふははは、いやここまで簡単に殺すとは恐ろしいガキよ」
「……なんだ。何者なんだあんたは!」
「お前に殺されるまでもなく儂はもうじき死ぬ。不敬にも噛みついた犬には呪いを与えよう」
血はどこかへと消え去っていた。そして老人は自らの指を切り、流れ出る血を俺の口へと突っ込んだ。
「ぐぇっ」
嘔吐反射で吐き出そうとするが、血はすべて飲み込んでしまった。
その瞬間。確かに心の臓がドクンと大きな鼓動を打ったのを感じた。
「過激な吸血鬼はお前の力を狙って襲いかかってくるだろう。追われるがいい。逃げるがいい。もう二度と大都市には行かないことだな」
「何を言って……」
「行け。お前にもう用はない」
「…………」
不気味すぎるこの老人に、もう付き合うのはこりごりであった。
そして俺は、ドゥーロンの街へ流れ着く。ここは急速に発展した貿易港で、歴史がない街だったから。発展中の街は、奴隷を欲している。俺は老人のことは忘れ、新たな主人を探した。
ドゥーロンでは簡単に主人が見つかった。でも相変わらず、生涯を捧げたくなるような理想の主人は見つからなかった。
途中、またしてもコロシアムの戦闘員という荒々しい奴隷業に就かされた。いかに奴隷のプロである俺でも、無傷で勝ち続けるのは難しい。
ある日、俺は殴られ、傷を負った。その時になって初めて、老人の言う呪いの意味がわかった。受けたばかりの生傷が、一瞬で癒えたのである。まるで何事もなかったかのように、先ほどまで感じていた痛みごと、全部。
俺が俺でなくなる感覚に陥った。