2話 リオンの館
リオンに案内された洋館は、まるで探偵小説から飛び出してきたようにクラシックな洋館だった。石造りの壁は地面から近いほどに濃く苔むしており、この建物が生きた歴史を深く感じられた。
洋館に備えられた木枠に嵌め込まれた窓の一つ一つに月光が当たり、黄金色の光を反射して洋館のシルエットを美しく彩っている。
二階建ての小ぢんまりとした出立ちに俺は面食らった。もう少し豪奢な建物か、それともこれが新築であれば良かったのだが、これでは新しい主人の経済力を疑わざるを得ない。
内部に足を踏み入れると、そこもまたクラシックな情調があった。高い天井からは気持ちばかりの小さなシャンデリアが吊り下げられ、部屋全体を優しい光で包み込んでいる。壁面には重い絹糸のカーテンが掲げられており、黄金色の淡い光を通してシャンデリアの光とデュエットを奏でていた。
エントランスとリビングが繋がっているようで、すでに机の大きさや椅子からここにいる人数を推測できた。おそらく主人たる人間はリオン一人。奴隷も一人か二人だろう。それだけ家財は最小限にとどまっていた。
「最近引っ越してきたのよ。どうかしら?」
「クラシックな雰囲気が漂う、よい屋敷ですね」
「そうでしょうそうでしょう?」
リオンは子供のように胸を張る。厚いフリルが織りなすドレスからでも、その膨らみは確かに観測できた。
「しかし驚きです。我が主人は今時なものがお好きなように映りましたので」
俺の言葉にリオンは頬を膨らませた。柔肌の頬肉が膨らみ、もちっとした饅頭のような顔形に思わず顔が綻びそうになるのをグッと堪えた。
「どうかなさいましたか? 何か無礼を働きましたでしょうか」
「そうじゃないわ。でもラーズが敬語なの、ちょっと嫌かも」
「嫌ですか」
「そう、嫌」
我儘な童女のような態度にまたしても面食らう。初対面の緊張感をわざと喪失したような主人は、そうだと呟いて俺の顔を深く覗いた。
「これからラーズにルールを言い伝えます」
「ルール、ですか」
「そう。絶対に破ってはいけないルールよ」
「というと?」
「一つ、敬語を使ってはならない。一つ、家事奴隷としての責務を全うする。一つ、他の奴隷と仲良くする」
三つのルールを言い切ったリオンは満足げに息を吐いた。その次の瞬間、何かを思い出したようにルールを続ける。
「奴隷のプロを自称するなら、私の要望にはすべて答えてみせてね」
計四つのルール……いや、最後のルールのせいで実質無限にできたルールが俺に課された。それが主人の望みなのだとしたら、叶えるのが奴隷の仕事というもの。
「わかった。これでいいかリオン」
要望に応えた形で正誤を尋ねると、リオンは頬を瞳の十分の一ほどの濃さで赤らめた。
「……ちょっとドキッとしたわ。ラーズのこと好きになりそうだった」
「あまりにもチョロすぎるわ。気をつけろ」
主人が悪い男に引っ掛かりでもしたら笑えない。できれば彼女には独身でいてもらって、その財産をすべて当代で使い切るか、それかより金持ちな男と結婚して欲しいものだ。
「ダメな男に引っかかりそうになったら助けてね。それかラーズがお婿さんでもいいわよ」
「前者はともかく後者はないな」
「むっ、抗議を示したいのだけれど?」
奴隷と主人のラブストーリーなど、小説の世界の中だけで十分だ。実際に起きれば誰もが不幸になる、最悪の選択に他ならない。
俺が口をつぐんでいると、リオンは特に気にしていない様子で月明かりが照らす階段を指差した。
「ラーズの寝室へ案内するわね」
「寝室なんて上等なもの、俺にくれるのか」
「当たり前よ。私、そんなに冷血にみえる?」
「そんなことは一切ないな」
リオンは奴隷である俺に敬語を禁じた。それだけで奴隷を蛆虫以下に見ていることは否定される。
奴隷を友人や愛玩ペットのように扱うものは稀にだが存在する。そういった人間は孤独に喘いでいることがほとんどだ。しかしリオンはまたそれとも違う何かを感じる。その正体までは掴めないが。
二階に上がると部屋を三つ確認できた。一つは大部屋で、対面のあと二つは小部屋。俺はもちろん小部屋へと案内された。
「ここがラーズの寝室よ。今日は疲れたでしょう。ゆっくり寝てね。でも明日の八時までに朝ごはんを作ること。三人前ね」
「わかった。とびきり美味しい朝ごはんを用意してやる」
「楽しみにしているわ。じゃあおやすみ、ラーズ」
「おやすみ」
俺たちは手を振って別れた。
案内された寝室の中央には、温かみを感じさせる木製のベッドが佇んでいた。押すと反発するマットレスに、ふかふかの枕。寝るための環境としては過去最高とも言える。
壁側に鏡が置いてあるのだが、奴隷にどう使えというのか。おそらく撤去のし忘れだろう。
これまでに自室を与えられたことはあった。しかし唐突に毒粉が部屋に撒かれたり、巨漢たちが押し入ってリンチされたりした経験がある。まだ油断はできない。
とはいえリオンの顔が浮かぶと、それも杞憂である気がした。なんとなくだが、彼女はそういうことをする人間ではない。そう思う。
……いや、そう思いたいだけなのかもしれない。
俺はマットレスに飛び乗った。これが干し草なら皮膚をズタズタにしていただろう。でも、ここではそうはならない。数時間で環境が一変するとは、寒暖差のある激動の一日だ。
「……生乾きの匂い」
家事奴隷を欲している理由が少しわかった気がして自然と笑みが溢れてきた。
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