15話 vsラングレット:序
……腰が痛い。これが背筋が凍るという感覚か。
多大なストレスを身体中に受けるなか、カラスのように黒い男から目が離せない。
「不敬な人間どもよ、さらばだ」
一方的な別れの通達が送られた瞬間、リオンは血相を変えて。
「机に身を隠して!」
切迫した金切り声が店内に響いた。対面に座る俺は、ブルーの蝶ネクタイをリオンに掴まれて、机の下に伏せられた。刹那。
「〈屠殺風仭〉」
ひどく冷たい声が発せられた直後。男のコートから、風が視認できるほどに黒く染まって打ち出された。それはときに鉄砲玉のように、ときに刃のように。
喫茶店の壁が、窓が、テーブルが、椅子が。そしてたまたま居合わせただけの客たちが、無差別に襲いかかる黒い風に飲み込まれる。貫かれる。裂かれる。
俺が隠れ蓑にした丸テーブルもいとも簡単に裂かれ、半月状になってしまった。それだけであの男の異常性が理解できた。
「吸血鬼……」
無意識に漏らしたその言葉が真実であると疑わない。人智を超えた力を目にし、何を疑うというのか。
「出てこい略奪者。この程度で死ぬ魂ではないだろう」
「ずいぶん手荒なご挨拶ね。ティモシー・ラングレット」
リオンが立ち上がり、瓦礫と埃を払った。紅蓮の瞳は血色に澱み、ラングレットと呼んだ男に向けられた。
「ほう、俺の名を知っているのか」
「革命軍の過激派。自称一番槍の脳足りず……噂通りの男ね」
「貴様もだ略奪者。紅蓮の瞳を燃やし、高潔に振る舞ううつけもの。耳にした通りの愚か者だ」
リオンに次いで、俺も立ち上がった。刹那、視界に広がった喫茶店の惨状に、胃酸が込み上げてくる思いだった。
先ほどまで軽食とコーヒーを楽しんでいた客たちは肉塊となり、その血は絵画にべっとりと飛び散っていた。不意に足元から水音がしたので恐る恐る目線を下げると、他人の血同士でブレンドされた血の海が広がっているのがわかった。
仰ぐように、縋るように、俺は主人の横顔を覗いた。並び立つものがないほど美しいその相貌には、焦りと困惑、そして激しい怒りが張り付いているように見えた。そしてラングレットに反抗するように、言った。
「愚か者はあなたよ。こんな派手に戦闘を行なってどうするつもりなの?」
「そこは俺の知ったところではない。俺は略奪者であるお前を殺し、血骸を取り返す。それだけだ」
二人のやり取りに、俺はついていくことができない。略奪者の意味も、血骸とは何かも、すべて理解の範囲外にあった。
会話を終えた二人はやり残したことはないと言わんばかりに、一瞬その視線をぶつけ合う。そしてどこかの瓦礫が崩れて鈍い音が響いたその瞬間。
「だあっ!」
叫ぶリオンは両碗を振り下ろした。刹那、ラングレットの背後から凝固した血の槍が弧を描いて降り注ぐ。改めて主人の姿を捉えると、足からほんの少しだけ流血していた。その血を利用したのだと推察するのに時間はかからなかった。
「余計な手間を」
悪態をつくラングレットのコートから、再び黒い風が刃となって打ち出された。それは血の槍を切り裂き、打ち砕き、無に帰した。
一連の戦闘でようやく目が覚めた。ハッとしたのも束の間、俺は自分の使命を思い出す。
俺は、奴隷のプロだ。相手が誰であろうと主人を守るのが、奴隷の使命。すわなち奴隷のプロである俺にとっての至上命題。
「かけさせるなよ略奪者!」
次いで、ラングレットの標的はリオン本体へと移り変わった。今度は黒い風が鉄砲玉のように無数に打ち出され、リオンの身体に襲いかかる。
心臓が跳ねる。冷や汗が止まらない。それでも、それでも動け、俺の体!
「リオン!」
叫んだ瞬間、置いてけぼりの俺の足がついに動いた。黒い弾丸から主人を庇うように、両手を広げてリオンとラングレットの間に立つ。
ドスッ、ドスッと、肉に弾丸が撃ち込まれる音が脳内に響いた。すべては一瞬のこと。その瞬間に俺は絶命した。
が、すぐに再生が始まる。リオン曰く〈血皇再生〉という能力で、風穴の空いた肉が塞がり、流れた血が帰還し、砕けた内臓が蘇る。
「貴様っ!」
その様を見届けたラングレットが、ついにその声に抑揚を持たせた。
同刻、立ち上がる俺の肩にリオンの手が置かれる。
「ありがとうラーズ。さすがは奴隷のプロね」
「当たり前だ。奴隷のプロはいつだって主人を守るものだ」
だが痛いものは痛い。少なくとも今のは人生で一番痛い死に方だった。それこそ再生を拒む気持ちが生まれるくらいに。
目の前のラングレットは激しく狼狽している。笑って、怒って、また笑う。頭が壊れた人間のように振る舞う彼は、しかし凄みを持たせた視線を俺に送ってきた。
「真祖の力が二つも揃っているとはな! やれる……俺たちは吸血鬼革命を起こせるのだ!」
吸血鬼革命。それはリオンが掲げていた野望だ。
なぜこの男もそれを目指すような発言をする? 同じものを目指して、なぜ対立している?
わからないことだらけだ。わかることはただ一つ。こいつを殺さない限り、俺たちが死ぬということ。
俺は極めて冷静に、主人に問うた。
「あいつに勝てる見込みはあるのか?」
「……今の私だと五分五分よ」
「なら十分だ」
「どこが十分なのよ、五分五分ということは半分は負けるのよ!?」
「だって俺がいるだろ。奴隷のプロたる俺がいれば、五分五分も八分以上に持っていってやる」
「ラーズ……そうね」
紅蓮の瞳に炎が灯った。
「殺しましょう。ラングレット、私の居場所をどう突き止めたのかは知らないけど、どのみち生きて帰れないことはわかっているでしょう?」
「驕るなよ略奪者が。ああ、煩わしい! 蹂躙だ」
ファンタジー小説の竜が叫ぶが如く。それが激戦再開の合図となった。
騎馬隊の一斉突撃のような轟々と吹き荒れる黒い風が、刃となって半壊のカフェを駆け巡る。徐々に範囲を狭めていくそれは、命のカウントダウンのように感じた。
「クソ野郎がっ!」
床を蹴り、加速。
瞬で届いたラングレットの懐に、コロシアムの戦闘員時代の経験からなる拳を打ち込んだ。
「ぐっ、ぬあっ!」
ラングレットがよろめくのも一瞬のこと。次の瞬間には両碗を振り下ろし、俺の頭蓋を粉砕した。
二度目の死。しかし時間を稼ぐには十分だ。
「〈血操大帝:紅槍(ブラッドアンぺラール:レッドハバリーナ)〉」
俺の死体を踏み台に、リオンは血の槍を再び振り下ろした。
毒々しくも美しい。美しくも禍々しい。そんな槍がカラス色の男をすり潰さんと推進力を得た。
「舐めるな略奪者ぁ!」
闇色の風との再戦。しかし完全に不意をついた血の槍は、闇色の風もろとも押し返してラングレットの肉を切り裂き、血の雨を降らせた。
打ち上がったその血飛沫は喫茶店の天井を赤く染め、物々しさに拍車をかけた。しかしそんな雰囲気など忘れてしまうくらいに、俺は高揚していた。
「やった……やったぞリオン!」
再生能力があるとはいえ、本気で死を覚悟した。吸血鬼と向き合うとはどういうことか、それを叩き込まれた気がする。
それでも勝った。辛くも勝った。俺の二死で済んだのなら安いものだ。
再生した俺は無意識にリオンに飛びついてしまった。慌てて彼女から離れるが、女体の柔らかさと甘い香り、そしてゼロ距離で見る彼女の美しさに脳が支配された。それは死と隣り合わせだったことに起因する男の本能か。それとも。
リオンは不敬な奴隷にも柔らかな笑顔を向けてくれた。紅蓮の瞳を鮮やかな赤で輝かせ、また蒼銀の髪をゆっくりと靡かせて立ち上がった。
刹那。膨れた水風船が破裂するような、熱々のシチューパイを崩すような、水音を伴う轟音が祝福と名付けられた喫茶店に響いた。
「えっ……」
漏れ出る情けない声。歪む視界と混濁する意識。受け入れたくない、目の前に広がる世界。
血に塗れたカラス色の男が、我が主人の腹を後ろから突き刺していた。闇色に染まる、風の剣で。