14話 甘味、迫る影
表の看板に「喫茶ゼーゲン」と記されたここは、歴史の浅いドゥーロンでは比較的老舗なカフェだ。
レンガ調のタイルが積み重なった外観は、老舗ならではの温かな雰囲気を醸し出している。また天井に吊り下げられたシャンデリアから発せられる光が外まで漏れており、「祝福」と名付けられたこのカフェに相応しい店構えを生み出していた。
「あら、綺麗なお花まで生けられているのね」
荘厳に咲く薄桃色のピオニーに釘付けになって、リオンは無邪気に呟いた。
チリンチリンというドアベルに迎えられ、俺たちは喫茶ゼーゲンの敷居をまたぐ。
「いらっしゃいませお客様。お好きな席にどうぞ」
そっけない態度に思えるかもしれないが、これがいいのだ。最近の飲食店は店員が客に干渉し過ぎるきらいがある。こういうお店では近過ぎず離れ過ぎずの距離がベスト。俺はそう思う。
店内には熟年の夫婦やそわそわとした様子の初々しい男女、それから身なりのいい貴婦人までもがアンティーク調の椅子に腰掛け、丸テーブルでコーヒーと軽食を楽しんでいた。
「ここがいいわ! ラーズ、ここにしましょう!」
「はいはい」
リオンは店内でも一番入り口から離れた席に腰掛けた。よくよく店内を見渡すと、壁面に飾られた中世の名画が一番よく見える席と気がついた。なるほどリオンらしい行動だと納得する。
「おすすめは何かしら」
「口の気分は?」
「もちろん甘味よ」
「知ってる」
「もう、いじわるねラーズは」
リオンは頬を膨らませた。俺は店員を呼び、おすすめの甘味をいくつかオーダーする。俺が蠱惑的な商品名を口に出すたび興奮した様子の可愛らしい主人は、店員が去ると待ちきれないと主張するように体を揺らした。
「時にラーズ、最近どうかしら?」
「……なんだよ、その娘との距離を迷った父親みたいな質問は」
「楽しいとか嬉しいとか。私はラーズにもアイリスにも幸せになってもらいたいから」
「なぜ奴隷にそんなに優しくする。それも吸血鬼革命とやらのためか?」
吸血鬼革命。リオンが持つ野望だというが、俺はその詳細をいっさい知らされていない。
俺の問いに、リオンは紅蓮の瞳に陰を落とした。
「私は吸血鬼革命のために生きている。そのために、あなたたちを利用する。その見返りにあなたたちを幸せにする」
「奴隷に幸せを与えるなど常軌を逸している。それほどまでに吸血鬼革命とやらは過酷なものなのか?」
「ええ、本当に険しい道だと思う。でもアイリスとラーズがいれば叶えられる。私はそう信じているわ」
「……教えてくれ。吸血鬼革命とはなんだ」
「ずっと先に起こることよ。まだあなたが知ることじゃない」
またはぐらかされた。沸々と怒りが込み上げてくるが、俺はただの奴隷。利用されるのは当然のことで、真意を伝えなくても問題はないのだ。それを理解しているのに、たしかに怒りの感情が湧いている。奴隷のプロとして、あってはならないことだった。
「信じて欲しいことが一つある。それはアイリスとラーズを利用するけど、必ず幸せにするということ。それだけは約束するわ」
「……信じるよ」
「へっ?」
紅蓮の視線が無邪気な疑問を孕んで、俺の視線とぶつかった。
「リオンの俺たちに対する態度や言動、それらを鑑みたら信じるのは当然だ。俺たちの幸せを願っているのが真実だと、確信できる」
「よかった。本当によかったわ」
リオンは柔らかな笑顔を俺に向けてきた。柔和な彼女の顔に不意にドキッと心臓が跳ねた。それを隠すように、俺は話題を逸らす。
「念押しするけど、まだ経過観察期間だからな。リオンに生涯を捧げるか否かは、まだ決めていない」
「なかなか一筋縄ではいかない奴隷ね」
「当たり前だろ。俺は奴隷のプロだ。こんな洒落たカフェにもエスコートできるほどの、プロフェッショナルだぞ」
「ふふ、攻略しがいがあるというものよ」
リオンがはにかんだその瞬間、物静かな店員がコトッと注文の品をアンティーク調の丸テーブルに置いた。
「ふわぁぁ!」
瞬間、リオンはおもちゃを与えられた子供のように目を輝かせた。
「ショコラ・タルト・シティでございます」
「どうも」
一品目。ショコラ・タルト・シティ。
バニラの香りが広がるサクサクのタルト生地の上に、チョコレートムースが球体になって乗った一皿。加えてその球体を取り囲むように、チョコレートの薄壁がタルト生地の上を一周している。その様はまるでチョコレートで作られた街そのものだ。
「芸術的だわ! こんなのお店でしか食べられないものね!」
「失礼な。俺だって作ろうと思えば作れるぞ」
「こういうのはお店との調和も大事なのよ。自宅でこれが出てきてもこれほどテンションが上がらないもの」
わがまま吸血鬼め。
抗議したが、言わんとしていることは理解できる。豪奢な料理を食べるのに、場所が自宅のリビングだと特別感を味わえないのと似た感覚だろう。
「んー!」
ショコラ・タルト・シティを三等分にして口に運んだリオンが、声にならない歓声を漏らした。
その笑顔は、ずるい。奴隷のプロである俺の飯に飽きるなど、なんとわがままな主人だと辟易していたがすべてを許してしまう。
「お待たせいたしました。シュー・ブレスト・ストロベリーです」
二品目。シュー・ブレスト・ストロベリー。
アイリスの髪よろしく、薄桃色のイチゴジャムを小さなシュー生地でハンバーガーのように挟んだ一皿。芳醇な果物の香りとバニラビーンズの香りが甘酸っぱいハーモニーを生み出し、見るものの視線を釘付けにする。リオンもまたその一人だ。
「エクセレント! こんなお店、ラーズはどうやって知ったの?」
「いつかの主人が糖尿予備軍の甘党でな。その時この街一番のパティスリーを探せと命じてきたんだ」
「え? でもこのお店はパティスリーじゃないわよね」
「贈答品としてパティスリーで菓子を買うことはそれまでに何回も経験していたんだが、この街のパティスリーは俺の腕以下の店ばかりだ。だからカフェに狙いを定めたわけだ。そうしたらここと出会った」
「……ごめんなさい。謝罪するわ」
「ど、どうした急に」
リオンは輝銀の頭を下げた。あまりに唐突な出来事に困惑が止まらない。
しばらくして、彼女は頭を上げて言った。
「正直言ってね、私はラーズのいう奴隷のプロのことを少し小馬鹿にしていたの。珍妙なことを言う、おかしな人だって」
「まぁ、そう思われることは多いな」
「でも違った。ラーズは本当に奴隷の中の奴隷だった。与えられた仕事を完遂するだけじゃなく、知識や経験からそれ以上の結果を残す。あなたは最高の奴隷だった」
「リオン……」
奴隷のプロを自称する俺が、主人に受け入れられることは一度もなかった。散々馬鹿にされ続け、下に見られ、仕事も正当な評価が得られない。そんな毎日だった。それこそ自分が何者であるのか見失いそうになる時すらあるほどに。
しかしリオンは違った。この主人も例に漏れず俺も小馬鹿にしていたが、今までの主人と違い考えを改めたのだ。そして俺の仕事ぶりを正当に評価しようとしている。俺が奴隷のプロであることを認めてくれる。ひょっとしたら、俺の生涯は……。
「お待たせいたしました。最後のお品物でございます」
「っ! あ、どうも」
俺の思考はウェイトレスによって遮られた。
……危ない危ない。あまりにもちょろすぎるぞ、俺。
気を取り直して、洒落た甘味メドレーの最後の一品に目を向けた。リオンが銀色のフォークを手に取り、待ちきれないと言わんばかりに紅蓮の瞳を燦然と輝かせた。
その時だった。けたたましいドアベルの金属音と、ドアそのものを破壊する木が軋む音。二つの異音が耳をつんざいた。敷居をまたいだ長身の男が、ゆらりゆらりと不気味に横揺れしている。
祝福と名付けられた喫茶店の和やかな空気は一変し、張り詰めた糸のような緊張感が生まれた。熟年夫婦も初々しい男女も貴婦人も、みないっせいに入り口を一瞥した。
「不敬な」
不気味なほどに低い、洞窟の奥から呻く炭鉱奴隷のような声が静まり返った店内にこだまする。
細身の身体にまとわりつく筋肉に、カラスのような闇色のコートを被せた男。黒で上塗りするような純黒の長髪の下、無機質な水色の目がぎょろりと動いた。
「下等な人間が、俺を視界に入れるな」
その男の声に抑揚はない。まるで大根役者のように、その男は怒りを込み上げる。
俺は探偵ではない。しかしわかってしまう。この男の声色と、目つきから発せられる凄みの奥に、幾重にも積み重ねてきた死体の山があることが。
なぜならそれと似た感覚を、最近味わっていたからだ。
「嘘……なんで……」
隣で狼狽する、俺の主人と同じものを。
人ならざるものの、凄みを。




