1話 奴隷のプロ ラーズ・クラーセン
薄汚れた灰色のコートを纏った吟遊詩人が、濡れた土道を牛歩する。そして、彼が何者であるかを示すように歌う。木製の楽器に張られた弦で、快活に音を奏でながら。
「吸血鬼が動きだす。
革命を背負い動き出す。
奴らはこの世の人を喰い。
世界を紅く染め上げる。
助かりたければドゥーロンへ。
この街には歴史なし。
奴らの目には止まらぬが。
それでも死は身近なれ。
不審な死を遂げ貴族朽ち。
奴隷たちが歯を見せる」
大陸東方に伝わる念仏だったか。類ずるリズムで吟遊詩人は歌う。
時に人の不安を煽り。時に人を落ち着かせる。
今日の歌は吸血鬼か。最近多い気がするな。ネタ切れか?
俺は赤茶に錆びた鉄柵に手をかけ、週刊新聞に目を通すハゲオヤジに声をかけた。
「なぁあの歌に合う紅茶を淹れてくれないか。喉が渇いた」
「紅茶だぁ?」
ハゲオヤジは驚いたように顔を上げ、プルプルの頬肉を揺らした。次いでその辺に溜まった雨水を手に掬い、俺の顔面にぶちまけた。
「テメェなんてこれで十分なんだよ新入り!」
「へへっ、水サンキュな」
「あっ」
僥倖。一日に一回しか飲めない水を簡単に恵んでくれるとは。
ドゥーロンの街は昨日まで降り続いた雨が今しがた止んだところだった。ここドゥーロン奴隷市場も湿度が高く、不快な気候に苛まれているところだ。
「変な新入りだぜ。さっさと売れちまえお前なんて」
「売り急ぐなよ。俺はプロだぜ」
「何を馬鹿なこと言っていやがる」
赤茶に錆びた鉄柵から手を離す。手のひらには赤茶色の粉末が点々としていた。
舌を出し、手のひらを這いずらせた。鉄分も必要な栄養素だ。
ハゲオヤジはそんな俺に気色悪いだの、死ねだのと罵倒を浴びせてくる。吟遊詩人の歌は、もう聴こえてこない。
この世で最も手軽な労働力はただ一つ。それは、俺たち奴隷だ。
奴隷には人権などなく、働けなくなったら捨ててしまえばいい。死んでも同様。要は使い捨てが効くのだ。
この時代、奴隷として生まれ育ったものは、その境遇に甘んじる他ない。この世に革命などありはしないのだから。
何も嘆くことではないのだ。奴隷は理想の主人さえ見つかれば、後は敷かれたレールを歩くだけなのだから。ある意味で最も簡単な生き方といえる。
普通に生きて、普通に働いて、普通に死ぬ。
俺は嫌だね。そんな人生。
毎日自分で頭を使って考えて、毎日せこせこ見合わぬ働きをして、半日以上を社会の歯車になりながら、得られる金は端金。そんでいつのまにか老いて死ぬ? 反吐が出そうだ。
ギィと鉄柵が開いた。ハゲオヤジが哄笑している様は気持ち悪いことこの上ない。
「おい新入り。働け。今日は便所掃除だ。もちろん素手でな」
もうさっきの憂さ晴らしか。早いな。
「おっけーハゲオヤジ。ピカピカにしてやるよ」
「ハ……ゲェ? 待てこら新入り!」
「はははっ、今近づいてきたらうんこ付きの手であんたの顔を触ってやるぞ」
「こんのクソガキがぁ!」
クソガキ。
二十歳の俺をガキと言ってくれる人間が、あとどれだけいるだろうか。
急がねばならない。焦らねばならない。
これまで百人以上の主人に仕えてきた俺も、奴隷としての賞味期限を過ぎてしまう。
だがまだだ。ギリギリではあるが、まだ俺は胸を張って奴隷でいられる。人生を捧げるに相応しい主人を選ぶ立場にある。
なぜなら俺は、奴隷のプロフェッショナルなのだから。
◆
糞臭い手を振りながら濡れた土に座る。ハゲオヤジが有無も言えぬほど、トイレは新品同然になった。
俺の名はラーズ・クラーセン。歳は二十。職業は奴隷。
俺はこれまで百人を超える主人に仕えてきた。その分、たくさんの労働を経験している。
家事奴隷、炭鉱奴隷、漁船奴隷、老人介護、憂さ晴らしのサンドバッグは当たり前。時には剣闘士やスパイ、コロシアムでの戦闘員も経験してきた。
経験してきた奴隷業を羅列すると、やはり自分がプロフェッショナルであると再確認できる。自己肯定感が上がる。
直近の主人は壮年の貴族だった。彼は仕事のストレスを奴隷にぶつけるありきたりな人間であった。
時に性奴隷に。時にサンドバッグ用の奴隷に。己の悶々とした気持ちをぶつける。ちなみに俺は後者だった。
殴られ、叩かれ、蹴られ、骨を折られ、髪を抜かれた。それでも俺はサンドバッグである自分を誇った。なぜなら奴隷であるうちは、飯が食えたから。究極、何も考えなくとも生きていられるから。
ハゲオヤジこと奴隷市場の主人は、週刊新聞を食い入るように読んでいた。記事の内容は遠目からでもわかる。最近発生するようになった不審死の記事だろう。なんでもとある貴族の屋敷で奴隷含めて全員死体で発見されたらしい。
「ご主人、少しいいかしら」
「へいまいど!」
客か。声的に女。それも若いな。
「っ!」
思わず、赤茶に錆びた鉄柵に飛びつき、息を飲んだ。
それをひと言で表すなら、瀟洒な女。
俗っぽく言えば、見惚れるほど美しい女。
煌めく銀色の川を頭部から腰まで流し、抱きしめれば折れそうな肩から先の川は蒼色に染まっている。そんな不可思議で超現実的な階調に夢ではないかと無意識のうちに頬をつねった。痛い。現実だ。
ならば紅蓮に燃える、ガーネットの瞳。炎のような力強さと、血のような暗面さを内包するその宝石は、俺の目を焼くよう錯覚させるほどに紅い。これも現実だというのか。
しかし俺が、なによりも目を引かれたのはそれらの何でもない。
彼女が身に纏うこれまた階調のドレス。青と黒のフリルが織りなされたドレスだ。そこから香るのは金の匂い。
俺の中で、加点ポイントが積み上がった。
「ここに家事が得意な奴隷はいないかしら?」
「家事ですかい。家事でしたら……」
「俺だ!」
思わず、叫んだ。
赤茶に錆びた鉄柵を揺らす。俺はここにいるぞというアピールだ。買われるためのコツ、といえば利口に聞こえるだろう。
紅蓮の瞳がこちらを向いた。
「あなたは家事が得意なの?」
「炊事・洗濯・掃除から老人介護までこなす奴隷のプロとはこの俺ラーズ・クラーセぶっ!?」
「バカかテメェは! こんな上等なお嬢さんにお前みたいな小汚いガキを勧めるわけないだろーがっ!」
痛ってぇ……このハゲオヤジ。思いっきり頭を殴りやがって。これからゲンコツハゲオヤジに改名だ。
ゲンコツハゲオヤジは腕を振り上げた。再度殴るつもりなのだ。
ぐっと歯を噛み締めたが、ゲンコツはやってこない。ゆっくり目を開くと蒼銀少女の細指が、ゲンコツハゲオヤジの巨腕を絡めていた。
「ダメよご主人。彼の綺麗な赤い髪が傷んでしまうわ」
「へ、へぇ? ずいぶんお優しいこって」
ゲンコツハゲオヤジが困惑するのも当然だった。なぜなら奴隷とは使い捨てるものであり、殴る蹴るは当たり前だから。優しくするなんて稀有なことだし、奴隷を褒めるなんてもってのほか。少なくとも奴隷市場で褒められたのは、俺も二十年生きて初めてのことだ。
これはまたとないチャンスだ。俺を褒めるということは、それだけ俺に価値を見出しているということ。つけ入るなら今だ。
「そうだ、見た目もそこそこいいし、何より奴隷業はプロだぜ」
蒼銀の少女は悪戯っぽく笑った。
「ふふっ、奴隷のプロって変な感じね」
「そうなんですよ。こいつは変なやつなんですよ本当に」
ゲンコツハゲオヤジめ、余計なことを。
「そうね。変な人だしおまけにちょっと臭いわ」
「まさにクソガキですよ。こんなやつオススメできません」
バカめゲンコツハゲオヤジ。俺に塩を送ったな。
「なぜ臭いか……そこの扉を開ければわかるぞ」
「またお前は勝手な!」
「ここはお手洗いかしら」
言うより早く、蒼銀の少女は俺が指差す扉を開けた。
俺に蒼銀の川を向けている以上、彼女の表情を拝むことはできない。しかし俺は奴隷のプロだ。俺の仕事を見たものがどんな顔をしているかなんて、見なくてもわかる。
蒼銀の少女は黒いハンドバッグを落とした。踵を返し、赤茶に錆びた鉄柵の前まで素早く足を動かす。
「あなたの言うことに嘘はないわね?」
「家事なら任せてくれ。他の仕事もできる」
「料理は? できる?」
「もちろんだ。俺にできない奴隷業務はない」
「スイーツは作れるかしら」
「当然。甘味を作るのも奴隷の仕事だからな」
「季節のフルーツも使った、上等なものよ?」
「っ!」
蒼銀の少女の大接近に、俺は再び息を飲んだ。
紅蓮に燃える瞳は真実を問う火炙りのようで、生きた心地がしない。心臓も高鳴る。加えてこの蒼銀の少女は、あまりに美しい。
だからこそ俺は滔々と答えた。
「俺がケーキを作れば、その辺のパティスリーはみな潰れるぜ」
「気に入ったわ。ご主人、この人を買います」
「いいんですかい!? 私が言うのも何ですがおかしなやつですよコイツは」
「いいのよ。私にとっては最善の奴隷だといま確信したわ」
「そうですかい。なら……」
ゲンコツハゲオヤジは俺の鉄柵の鍵を開けた。
「おら手を洗わんかい!」
勝手なものだ。この手を汚させたのは他でもないお前だというのに。
「ラーズという名前だったわね?」
「ラーズ・クラーセンです。よろしくお願いいたします。我が主人よ」
「あら、敬語?」
当然だ。自らの主人に敬語を使えないものは、奴隷のプロとはいえない。
まぁいいわ、とポツリ呟いた蒼銀の少女は手を差し出した。
「リオン。リオン・ウォルコットよ。よろしくねラーズ」
「はい。どこまでもあなたと共に。我が主人よ」
蒼銀の少女……リオンは、金貨五枚を俺の元飼い主に渡した。
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