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落日の紅が映す心の意味は  作者: 月夜野桜
第二章 その唇は愛を語る
9/21

 ギシっ。暗闇の中、板の上に重量がかかる小さな音がした。ギシっ……ギシっ……と規則的かつゆっくりと鳴り、徐々に近づいてくる。


 ステラはベッドから起き上がり、足元に置いてあったスカートを丸めると、ブランケット代わりの麻生地の下に押し込んだ。そして部屋の隅へと、足音を立てないように移動する。


 忍び足で床板を踏む音らしきものは、予想通り部屋の扉の前で止まった。蝶番が小さく鳴って、ゆっくりと扉が開かれていっている様子。僅かな月明かりが隙間から差し込んでいた。


 人影がするりと忍び込んできて、そっと扉を閉じる。暗闇の中でうごめく誰かは、ベッドの上のふくらみに手を伸ばした。


 ガっという音とともに、その手元にダガーが突き刺さって、振動で上下に揺れる。


「何日も船の上で欲求不満なのはわかるけど、普通こんな子供襲うかな?」


 半眼で睨み付けるステラの方を振り向いたのは、案の定オスバルド。顔を引き攣らせながら、両目を見開いている。人差し指を立てて、口に当てながら囁いた。


「しっ、静かに」


 静かにするどころか、大きな悲鳴を上げたい。そう思いながらも声は出さず、もう一本のダガーを手に、ゆっくりとテーブルの方に回り込んでいく。


 火打ち石に鋼鉄片を打ち付けて火花を飛ばし、簡易的なオイルランプに火を灯す。オレンジ色の明かりで照らしながら、オスバルドの無精ひげが生えた顎先にダガーの先端を突き付けた。


「寝込みを襲うなんて、どう考えても裏切りだよね? 姐御に言いつけたらどうなるかなー?」


 囁くように、それでいて恐ろしい響きの声でステラは言う。下から睨め上げるその視線には、明らかな軽蔑の色が浮かんでいる。


 オスバルドはしばらく視線を泳がせた後、意を決したようにまっすぐ見返して口を開いた。


「は、半分はそのつもりだった。だが半分は違う」


 もぞもぞと動くと、オスバルドは懐から何かを取り出した。ステラに向かって差し出されたのは、イスパニアの八レアル銀貨が四枚。下流階級の月収に相当するくらいの金額である。


「お金で私を買うって言うの? 見くびらないで!」


 そういう女だと思われていたことに、無性に腹が立った。大きな声を出す代わりに、ダガーの切っ先をオスバルドの顎に突き刺す。朱い雫が刃を伝ったが、オスバルドは避けることもなく真面目な顔で言ってのけた。


「いや、その、そっちは、もし嬢ちゃんが良かったら、というつもりだった。嫌ならそっちはいい」


 言っている意味がよくわからない。ステラは眉をひそめてオスバルドを見上げ続けた。


「これは別だ。受け取っておいてくれ」


 なおも銀貨を差し出し続けるオスバルド。両手がふさがっていて受け取ることが出来ないと判断したのか、テーブルの上にそっと放り投げた。銀貨が転がる高い音が、夜の静寂に響き渡る。


「拾って。先払いされたって、嫌だからね?」


「それはもういいんだ。嬢ちゃんにその気があったらとしか考えてなかった。……その、あれで宝石が買えるのかどうかは、俺っちにはわからねえ。けど、ラス・パルマスまで行けば、手紙と一緒に入れられるもの、何か買えるだろ?」


 ステラは先程オスバルドが立ち去った時の質問を思い出した。どれくらいの重さ、あるいは大きさの宝石ならば、手紙に入れて送ることが出来るのかという趣旨のもの。


 自分で送るという意味ではなかったのだ。そもそも、文字も読めないと言っていた。書けないということでもある。きっとステラの手紙に、一緒に入れさせようと思っていたのだろう。


 オスバルドの優しさに、目頭が熱くなってくるのを感じる。父親を失ったことで、家族はさぞや苦労するだろうと思っての、無償の支援。


 性的なことの方は、むしろ口実だったのかもしれない。明日にはラス・パルマスへと行くのだ。三十二レアルもあれば、高級娼婦を買ってもお釣りがくるだろう。たった一日早く満たすだけのために、こんな金額の無駄遣いをするはずもない。


 しかし、ステラにはその気持ちを受け入れることは出来ない。身体を要求されないとなれば、なおさら。もう二度とこんなことをしてこないよう、敢えてけんもほろろに拒絶した。


「そうやって私を買収して、自分の女にするつもりだったんだ? だから、やたら優しくしてくれてたんだね? 見損なったよ。……今回は黙っててあげるから、それ持って帰って! 次そういうことしたら、みんなに言うからね!?」


 最後は誰かが起き出してくるのではないかと思えるほど、声を荒げて言った。それくらいでちょうどいい。実際に来てしまったら、適当に喧嘩の理由をでっち上げれば済む話。


「わ、わかった。そう大きな声を出すな……」


 オスバルドは両手を挙げて降参のポーズを取りながら言った。その顔は本気の恐怖と困惑に染まっているように見えて、ステラは思惑通りにいったと確信した。


 ダガーを下ろすと、オスバルドは慌ててテーブルの側に行き、先程放り投げた銀貨を四枚とも拾った。それをステラに見せながら言う。


「か、金が必要だったら……いや、やっぱりいい。もう二度と来ない。他の奴らも近づかせない。済まねえ、夜遅くに」


 冷たい視線を向けたままのステラの顔色を窺うようにしながら、ゆっくりと後ずさりして、オスバルドは扉の前に行く。後ろ手で開くと、するりと隙間を抜けて外へと消えていった。


 しばらく扉を睨み付けたままでいた後、ステラは大きく肩を落とし、溜め息を吐いた。そのまま床にへたり込む。


 下を見ると、床板に染みが出来ていた。ぽつぽつと数を増やしていく。もう少しうまいやり方がなかったものかと考えてしまう。オスバルドの――心優しき家族の気持ちを、無碍にしない方法。今は、思いつかなかった。


 涙を拭うと、立ち上がってテーブルの側へと行った。手紙といくつかの貴重品を収めた小袋を懐にしまうと、そっと扉を開けて外に出た。


 洞窟内の陸地部分への渡し板は掛けたままになっており、甲板経由で渡っていく。


 ヴィトーリアの部屋に行って寝ようと思った。今まではずっと一緒だったので、こういうことはなかった。


 一人で眠るのが怖いというわけではない。実際、無理やり襲われるということはまずないだろう。どう考えてもすぐに発覚する。仮にその時は見つからなくても、事後に騒ぎ立てるのを防ぐことは出来ない。


 だが金で買おうと思う者はいるかもしれないし、それで揉めて船に問題が起きるのも今はまだ困る。特に最近乗り込んだばかりで、まだしきたりに馴染んでいない者は、トラブルの元になりやすい。一昨日戦った海賊船の捕虜も、この先船員として残るかもしれない。


 海賊船に女性を乗せるのが御法度なのは、それによって団結が崩れることを恐れるから。海賊ではない船でも女性を乗せるのを敬遠するのには、同様の理由があるのだろう。長い船旅の中では、無法者でなくても、暴走してしまう危険がある。


 だからこそ海の女神や精霊の祟りなどの話が生み出され、女性を乗せない理由が作られていった。本当の理屈を語ると、それ自体が問題の種となってしまうから、神話や伝説という形を借りて、教訓をぼかして伝えたのである。


 洞窟の奥には、板壁を設置していくつかの部屋を作ってある場所がある。ステラはそこに向かって歩いていった。途中、見張りが一人いて、小さな声で挨拶をして通り過ぎる。


 地面の上に直接簡易ベッドがいくつか置いてあり、何人もが眠っていた。起こさないようになるべく静かに通り過ぎて、奥へと進む。


 ヴィトーリアがいるはずの部屋の前まで行き、扉をコンコンと叩くと、すぐに返事があった。


「誰だ?」


「私、ステラ」


 椅子を引くような音がした後、中から扉が開けられた。出てきたヴィトーリアは珍しく髪を下ろしており、別人のように女らしく見えた。


「どうした?」


「えっと……こっちで寝てもいいかな?」


 溜め息と共に肩を竦め、ヴィトーリアは無言で中へと誘う。ステラがベッドの端に腰かけると、扉を閉めてから目の前に立った。


「なんだ、ママのおっぱいでも恋しくなったか?」


 ヴィトーリアの冗談に、ステラは悪戯っぽく瞳を輝かせた。飛び上がるようにして抱き付きながら、元気な声を出す。


「恋しくなったー!」


 豊満な胸に顔を埋めながら、頬を摺り寄せる。呆れた顔で見下ろしながら、ヴィトーリアはステラの頭を撫でた。そのステラの顔が、ふと見上げて首を傾げる。


「ね、そもそもおっぱい出るの?」


 頬をピクピクと痙攣させ、露骨に不機嫌な感情を顔に出しながら、ヴィトーリアが言う。


「アタシャ、どう見ても女だろう?」


 ステラはあっけらかんとした表情で身を放し、ベッドへと座り直しながら、正論で返す。


「だって、いつでも出るわけじゃないでしょ? 私、出ないもん。子供産んだことあるのかなって思ってさ」


「海賊が産めるわけないだろう」


 不機嫌な表情のまま隣に座りながら、ヴィトーリアは言う。ステラは顔を寄せて見上げつつ、当たり前の質問をした。


「海賊だって、女なら産めるでしょ?」


「あのなあ――」


 呆れた顔に変わって何か言おうとするヴィトーリアに先んじて、ステラが問う。


「船の上では産めないし育てられないっていう話なら、降りればよかっただけじゃないの? 前の船長とはさ、恋仲だったんでしょ? 船が嫉妬しないように同じ名前を付けてもらったって聞いた。今の船も、前の船長の名前だよね?」


 はあっと溜め息を吐いて、ヴィトーリアは恨めし気に言う。


「誰だ、そんな余計なこと喋った奴は……」


「えへへへへ」


 ステラは笑って誤魔化した。カルロスがお仕置きされても困る。あの時のカルロスは、どこか嬉し気だった。当時のことは、きっと楽しい思い出なのだろう。


「お前みたいなガキに興味持つ奴はいないと思うが、船の上で男作ろうなんて思うなよ?」


「あー! ヒドいこと言わないでよ! 私だってこれでも――」


 先程のオスバルドのことを思い出す。少なくとも一人には需要がある。陸にいたころも、それなりには街の男子たちに人気だった。


 そう思いながら口を尖らせて抗議したが、ヴィトーリアの手によって物理的に阻まれた。至極真面目な、どちらかというとやや哀し気な表情で、きっぱりと切り捨てられる。


「アタシは真面目な話をしてるんだ」


 海賊たちの団結の話だと思った。女である以前に船長として有能で、もはやそういう対象として見る人間はいなそうなヴィトーリアとは違う。自分は和を乱す存在だと言いたいのかもしれない。ステラはそう考えて、元気なく俯いた。


 その頭を、ヴィトーリアが優しく撫でる。


「お前の将来のことを考えてるんだ。男を作るなら、おかで作れ。海賊船なんて降りてからな」


 言わんとしていることは少々違うのかもしれないと思って、ステラは上目遣いで様子を探る。ヴィトーリアは、何故だか母親のような微笑みを浮かべているように見えた。


「姐御はその……もしかして……」


 後悔しているのか、と問いたかった。自分がそうしていれば良かったと思っているのかと。しかし、それを訊くと、今のヴィトーリアを否定することになる。幸せならば、後悔などしないのだから。


「アタシは後悔なんてしていない。自分で言うのも何だが、才能はあるし、やりたいことはやれている。アイツの遺志を継いでな」


 勝手に出てきた答えは、慰めでも、自分への言い訳でもなさそうだった。自信と、そして決意に満ちたような眼差し。やるべきことをしっかりと決め、それを見据えてまっすぐに向かっている人間の表情だった。


「自分で選んだことだ。アタシには選択権が与えられた。船に残って海賊を続けるか、降りてアイツの子供を産むか。アタシは残る方を選んだ。アイツのためにも、アタシ自身のためにも、船の家族たちのためにも、それが一番いいと思った」


 話の内容からして、シルヴェリオがまだ健在だったころの決断。男女の愛よりも、別の愛をヴィトーリアは選んだ。そういうことなのだろう。


「お前は今のうちにしっかり考えておけ。誰かに惚れちまってからじゃあ遅い」


 自分は愛されている。ステラはまたそう思った。この船に拾われてから、まだほんの半月ほど。なのにもう皆、古くからの家族のように、自分を大切にしてくれる。そのことがとても嬉しくて、そして哀しくもあった。


「姐御……」


 ステラは再びヴィトーリアの胸に顔を埋めた。温かくて柔らかいその感触は、母のものに似ていた。遠い地で自分の帰りを待っているだろう、両親と弟や妹の顔が浮かんだ。


「ねえ、もしかして、海賊になる前、もう子供いた?」


 母性溢れるヴィトーリアの感触と対応に、思わずそんな言葉が漏れた。返ってきたのは、当然呆れた様子の声。


「あのなあ、カルロスから聞かなかったのか? アタシが拾われたのは、お前と同い年の時だぞ? ガキなんかいるわけないだろ」


「でも、それくらいで結婚する人なんて、たくさんいるし……」


「どこまで話聞いたのか知らんが、アタシは嫁に出されるところだったんだ。ガキいるどころか、結婚してたわけもないだろ」


 そう言われればそうだった。政略結婚であれば、離婚させて他へ嫁がせるということは珍しくないが、格上の相手が強く希望したときのみ。ヴィトーリアの場合、それはない。


「でも、好きな人くらいはいたんじゃないの? どんな人? なんて名前? 何してた人?」


 好奇心に輝く瞳で、ステラが食い入るようにヴィトーリアを見つめる。いかにも面倒くさそうに視線を逸らすと、ヴィトーリアはステラを押し倒した。


「いいから、寝ろ。一人で眠るのは不安でこっちに来たんだろ?」


 そう言ってステラに背を向けて、ベッドに横たわる。そのヴィトーリアの背に抱き付くようにして、ステラはなおも食い下がった。


「ねえねえ、いたんでしょ、好きな人? 今何してるのか知ってる? まだ結婚してないかもよ? 今度会いに行ってみない?」


 ゴツンと音がして、ステラの眼に涙が浮かぶ。痛みが頭蓋骨を伝わって響き、殴られた部分が早くも熱くなってくる。視線の先では、身を起こしたヴィトーリアが、怒りの炎を瞳に宿して見下ろしていた。


「うるさい。船の上だったら、海に突き落としてるところだ! 明日は朝早いんだから、さっさと寝ろ!」


「はーい」


 ステラは殴られた部分を摩りながら、狭いベッドの上で寝返りを打った。どうやらヴィトーリアには、昔のことを話す気は余りないらしい。そのうち自然と耳にするのを待とうと思った。


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