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落日の紅が映す心の意味は  作者: 月夜野桜
第一章 その瞳は情熱に染まり
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「わっぷ……」


 一際大きな波がきて、ステラは口の辺りまで飲み込まれる。手を止めて上を見ると、声を張りあげた。


「カルロスさーん、もうちょっと上にあげてー!」


 手すりに肘を掛けて見下ろしているのは、皺の寄った黒い肌の顔。唇の間から覗く歯は、対比もあって健康的に白く輝いて見える。


「駄目でさー。その辺りが一番重要なんでさー」


「ぐむむむむ……なんで私がこんなことー!?」


「軽いからに決まってるでさー」


 上から降ってきた理由は正論過ぎて、ステラには反論出来ない。不満気に頬を膨らませながら、喫水線近くの船体を椰子の実の皮でごしごしと擦った。その胴には縄が巻きつけられ、甲板から吊るされている。横への移動を考えると、人力で縄を固定するしかない。実際、上でオスバルドがやらされているはずである。


 海水に浸かる部分には、海藻や各種海の生物が付着する。増えてしまうと水の抵抗が増し、速度が下がる。定期的に陸に上げ、船底も含めて清掃する必要がある。


 特に厄介なのがフナクイムシ。その名の通り船を食べる生物である。名称と異なり実際には貝の一種だが、木材を栄養源とし、船体を食べて穴を空けてしまう。海のシロアリとでも言うべき厄介な生物。それらを除去しなくてはならない。


 甲板を海水で磨くのもその一環で、各種の菌やカビが繁殖して木材を腐らせるのを防ぐため。特に雨が降って真水に曝された後は重要な作業となる。毎日のこまめなメンテナンスこそが、木造船の寿命を決めると言っても過言ではない。


 とはいえ、航海中に船体の外側、しかも喫水線近くを清掃するなんて聞いたことがない。ステラはそこを突いて、また声を張り上げた。


「これさー、普通はおかでやるもんじゃないのー!?」


「迷惑代にやらせろって、お頭から言われてるんでさー」


 またも反論出来ないステラ。ヴィトーリアがカナリア諸島の街、ラス・パルマスに用があるということで、向かう途中だった。海に落ちたステラを回収するために引き返すことで、大分時間を無駄にしてしまった。


 しかし、よく考えてみれば、海賊に急ぎ旅などあるわけがない。そこを突いて再び反論しようと見上げると、ヴィトーリアも下を覗いていた。ステラは慌てて視線を下げて、船体掃除に集中した。これ以上仕事を増やされてはたまらない。


 少しずつ横にずらされながら、そうして二時間は掃除していただろうか。やっとお許しが出て甲板に引き上げられたステラは、もう疲労困憊だった。


 第一甲板の真ん中に寝転がり、メインマスト上の見張り台を眺める。ヴィトーリアが上って、見張りに何事か指示しているようだった。


 ふいに目の前に影が出来て、眩しい日差しが遮られる。背の高い輪郭はカルロスのもの。木のジョッキを手に、ステラの前に差し出していた。


「ほれ、お嬢。あっしからの差し入れでさ」


 中身が何かすぐにピンときたステラは、がばりと起き上がって両手で受け取る。


「ありがとー! カルロスさん!」


 ジョッキに満たされているのは、うっすらと白く濁った液体。ほんのりと、青い果実のような香りがする。口に含むと、ほのかな甘みと酸味が広がった。飲み込むと、舌に青臭い感じの苦みが残る。この癖の強い後味のせいで、最初に飲んだ時にはなんと不味い飲み物だと思ったものだった。


 しかし、今となってはすっかりお気に入り。酒は苦手なステラにとっては、ただの水を除けば、これだけしか飲むものがない。仕方なく貰っているうちに、味に慣れたのだろう。特に労働の後は格段に美味に感じ、疲れもよくとれる。


 綺麗な真水の調達しにくい航海中には、水分の多い食物が必需品。ヴェルデ以南のアフリカ沿岸では、これを簡単に見つけることが出来る。それほど保存が効くわけでもないが、中身を食べることが出来、皮の部分は繊維質でタワシのように使える、なんとも便利な実。


 今飲んでいるのは、先程掃除に使っていた椰子の実の種に入っていた胚乳。つまりはココナッツジュースである。


 ジョッキを傾け、さも美味しそうにがぶがぶと飲み込むステラを、顔が皺くちゃになるくらいの笑みを浮かべながら、カルロスが眺める。


「お嬢を見ていると、お頭を拾ったころのことを思い出しやすなあ……」


 手を止めると、ステラはジョッキを下ろしてカルロスを見上げた。


「姐御もこれ好きだったの?」


 見当違いの質問だったのか、カルロスは苦笑いに変わって隣に腰を下ろした。互いに座っていても、肩くらいまでしかないステラの頭をポンポンと叩きながら答える。


「拾ったのはエーゲ海の方でさあ。向こうじゃ椰子の実は見たことないなあ」


「じゃあ、なんで思い出すの?」


「お前さん、今年で十六だって言ってやしたろ? お頭もそうでやしてね」


 ステラはそこからヴィトーリアの年齢を計算した。二十四歳。確かに数字は合う。


「もっとも、お頭はもっと色っぽかったでやすがね」


「余計なお世話!!」


 耳元に口を寄せて、大きな声で文句を言うステラ。カルロスは両手で耳を押さえて、苦笑いしながら目を瞑った。ふくれっ面になったステラは、再びジョッキに口をつける。


「まあ、でもお嬢の成長っぷりを見てると、確かにお頭を思い出すんでやすよ。細腕を見ると、剣なんて持ったことなかったはずなのに、あっという間に頭角を現してねえ。頭も切れるし、すぐに前のお頭の右腕のようになっちまいやした」


「ふーん。……ねえ、姐御ってどうして海賊船なんかに乗ることに? エーゲ海って言ってたよね? オスマンに奴隷として売られてく途中だったの? 向こうってその……そういう目的の奴隷もいるよね?」


「お頭はなあ、海に浮いてたんでやすよ。そう、さっきのお嬢のように」


 昔を思い出すような遠い目付きで、カルロスは海の方を見つめる。地平線の向こう、遥か東のエーゲ海が見えるかのように。


「前のお頭、シルヴェリオって名乗ってたんでやすがね、自ら小舟を下ろして拾いにいったんでやすよ。随分と高価そうな服を着てやしたから、どこぞの御令嬢かもしれないって」


「ほうほう。それでそれで?」


 翠の瞳を好奇心に輝かせて、ステラは食い入るようにカルロスの顔を見つめる。それには目もくれず、相変わらず遠くを眺めたまま、カルロスは続けた。


「なんでも、イスパニアに嫁ぎに行く途中、海賊らしきものに船が襲われ、仕方なく海に飛び込んだということで。それがまあ、あっしにはよくわからない話なんでやすけど、どうも本当はナクソスに行く途中だったらしくて」


「それってどういうこと? ナクソスって、ナクソス公国のことだよね? エーゲ海の島にある」


「そうでやす。見た目の割に、意外と物知りでやすね?」


 再び耳元に口を寄せて、ステラは叫んだ。


「見た目の割にとか、意外ととか、一言も二言も余計ー! これでも商人の娘なんだから。外国の情勢くらいちゃんと知らないと、商売出来ないんだからね? 戦争してるとこに象牙持ってったって売れるわけないし、武器とか薬とか売りに行かなきゃ」


 頬を膨らませ、口を尖らせているステラの横顔を、カルロスは楽し気に見つめる。


「なら、あの辺りはオスマンの勢力下だってことも、知ってるでやしょう?」


「税金納めてるだけで、実際にはまだヴェネツィアが管理してるようなもんだって聞いたけど?」


「当時のナクソスは、まだオスマン支配下ではなかったんでやすがね、目の前にあるパロス島は大分前からオスマン領土で。ナクソスもオスマンの圧力を受けていたんでやすよ。それでどうも、お頭の父君がナクソスの重臣と一緒になって、オスマンに国を売ろうとしていたという話が流れてやしてね」


 ステラは大きな眼をパチパチと瞬きしながら首を傾げた。ヴィトーリアは元ポルトガル人だと名乗った。それが本当であれば、陸続きの隣国イスパニアに嫁ぐ途中に、地中海に入って遥か東のエーゲ海を通るのは、明らかにおかしい。その辺りにポルトガルの領土はない。


 そしてポルトガルをオスマンに売るというのも、立地的にとても厳しい。ヨーロッパの西の端と東の端である。インドやアラビア海方面での勢力争いの話なら、わからなくもないが。


「姐御ってさ、本当はどこの国の人? ポルトガルってのは嘘だよね?」


「あっしの口から言っていいことじゃあないでやす。懐かしくて、つい喋りすぎたようでやすねえ」


 カルロスは両手で自分の口を塞いで首を振った。ステラは半眼になって見上げながら問う。


「姐御のフルネームって何? ヴィトーリアとしか聞いてない」


 ステラの翠の瞳と、カルロスの濃い焦げ茶色の瞳が見つめ合った。互いに黙って、にらめっこが始まる。根負けして先に息を吐いたのは、カルロスの方だった。


「決めてないんじゃないでやすかねえ? ヴィトーリアってのは、当時乗ってた船の名前でさあ。船が嫉妬しないよう、前のお頭が同じ名前を名乗らせたようで。まあ、船にも今のお頭にもぞっこんでやしたから、理由はそれだけじゃあなかったんじゃないかと思いやすがね」


 この船の名前は、シルヴェリオ号。ヴィトーリアも、愛する者に倣って、同じ名前を付けたのかもしれない。男性名の船は珍しい。


「姐御と前のお頭ってさ、やっぱりその……愛し合ってた?」


「それこそ、あっしの口から言えることじゃないでやす。二人の本当の気持ちなんて、わかりやしやせんよ」


 それはそうだが、ずっと身近で見ていれば、ある程度は判断がつくはずのことである。何しろ海賊船に若い女一人。船長の愛人ということでもなければ、とても無事でいられるわけがない。


「ね、カルロスさん」


 更に問い詰めようとすると、頭をポンポンと叩かれた。


「いつまでも守ってやれるとは限らないから、自衛出来るように育てろって言いつかってやす。お頭のことも、最初はあっしが鍛えたんでやすよ。ほれ、たんと昼飯食ってから、少しあっしと特訓しやしょう」


 既に立ち上がってしまったカルロスにそれ以上問いかけることは出来ず、ステラは不満顔でジョッキの中身を飲み干した。


 空を見上げると、太陽はほぼ真南と思われる一番高い位置にあった。そろそろ当番が食事を用意し終えているはずなので、カルロスの後に続いて砲列甲板へと行くために主甲板へと下りる。


 突如、真上から大きな声が響いた。


「獲物を見つけたぞー! 十一時の方向」


 メインマストの上に設けられた見張り台の上で、前方やや左を指しながら乗組員の一人が叫んでいた。ステラは主甲板を駆け抜けると、そのまま船首楼甲板まで上がって前を見た。


 水平線近くに確かに船が見えるが、どの船種なのかはよくわからない。実際に獲物となるような船なのかどうか、ラス・パルマスに向かう途中の今、寄り道して襲うのかどうか、ステラには判断出来なかった。


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