二
主甲板に設置された格子蓋を挟んで、やけに小柄な海賊と、その二倍は体重がありそうな無精髭の男が睨み合う。
小柄な方は、亜麻色の長い髪を後頭部で捻ってまとめ上げ、大きな翠の瞳を不敵に輝かせていた。ヴィトーリアに倣い、スカートの代わりに帆布のズボンを穿いたその姿はステラ。ダガーを模して彫り込んだ木切れを逆手に持って左右に構え、波を乗り越える度に揺れる甲板に立って、じっと相手の隙を窺う。
対する男の方は、右手にカットラスと同程度の長さの木切れを持っていた。琥珀色の瞳を狩人のように鋭く光らせつつ、何度も放り投げては回転させる。
「どうした、嬢ちゃん? 早く決着をつけないと日が暮れちまうぜ?」
余裕の笑みで挑発する男に対して、ステラは不敵な表情を崩さずに返す。
「あと五秒」
「俺っちごときを倒すには、五秒もあれば充分ってか? ちっと腕上がったからって、舐めんのもいい加減に――」
男が言い終わる前に、船首が大きく跳ねる。大波に乗り上げて傾いた状態のまま、ステラは動いた。揺り戻っていく不安定な足場をものともせず、格子の上へと踏み出す。足元も見ずに、揺れる船上で正確に格子の角材を踏んで、男へと迫る。
バランスを失っていた男は慌てて立て直すと、木切れで横薙ぎにして迎え撃った。鋭く反応して身を沈めたステラに対して、踏み込みながら切り返す。ぽーんと後ろに宙返りをするようにして逃げるステラを追い、男はさらに突っ込んだ。
――と、その身が突然下へと落ちた。悲鳴も出せずに硬直し、顔が引き攣って今にも白眼を剥きそうな様子。順手に握り直した木製ダガーをその眼前に突き付けて、ステラは宣う。
「はい、これで私の三連勝ー!」
明らかに勝負あり。周りで見守っていた海賊たちが、ステラをはやし立てる。
「やるな、ステラ。もうお頭の次くらいに強いんじゃねーか?」
「まだ船に乗って半月くらいだよな? ガキは成長が早いもんだ」
荒くれたちに手を振りつつ、ステラはにこやかに応じた。
「えへへへへ、どーもー! どーもー!」
それから対戦相手の方に向き直して、偉そうに講釈を垂れる。
「駄目だよ、オスバルドさん。進行方向の波くらい、ちゃんと見てなきゃ。落ちたのが海じゃなくて良かったね」
オスバルドと呼ばれた男は、やっとの様子で声を絞り出した。
「海の方が……マシだった……」
「そうなの?」
大きく首を傾げつつオスバルドの顔を覗き込むステラ。彼の顔はステラの胸よりも下に来ている。格子の間に両足がきれいに滑り落ちて、嵌まっている状態。
「タマぁぶつけたんだよ、ステラ。お前だって、それくらい知ってるだろ?」
見物していた海賊の一人がオスバルドに何が起きたのか説明すると、ステラは腕組みをして何度も頷きつつ呟いた。
「ほうほう。そういうことか。これ、実戦でも使えるかな……? 男の人って、大変だねー」
次の戦いで実際に試してみようと思い、その時の光景を想像してステラは悪戯っぽく笑った。オスバルドは格子に両足が落ちたままの姿勢で、恨めし気にステラを見上げている。
「オスバルドさん、約束通り、私の分も甲板掃除やっといてねー」
ひらひらと背中越しに手を振ってオスバルドに別れを告げると、一つ上の第一甲板から見物していたヴィトーリアを見上げた。ダガーを突き付けつつステラは宣う。
「姐御、今日こそ私が勝つよ!」
「自信過剰だよ。昨日と大して変わるわけないだろ」
「ぐむむむむ……」
コテンパンに伸された記憶がステラの脳裏に蘇る。そしてその後の重労働。
しかし、あれは波が読めていなかったため。揺れを正確に予測出来ていれば、あの攻撃は避けられていた。今日の自分は一味違う。
そう思い直すと、再度ダガーを突き付けて宣戦布告した。
「問答無用。勝ったら私が一日船長。リスボンまで帰ってもらうからね!」
「帰れるわけねーだろ、一日で……」
呆れた様子で肩を竦めつつ呟くヴィトーリアに、台詞通り問答無用でステラが襲い掛かる。第一甲板へと続く階段を身軽に駆け上った。船縁を蹴って急角度に進行方向を変えて、武器を構えられる前に一気に懐に飛び込む。
――はずだったが、その姿は忽然と消えた。
「ひえええええ!」
ステラの悲鳴が手すりの向こうに落ちていく。ヴィトーリアが下を覗き込む頃には、大きな水柱が上がっていた。
「成長するどころか、退化してないか?」
その呟きはステラの耳には届かず、必死に手足を動かして海面へと顔を出した。
「待ってー! 置いてかないでー!」
船は既に先へと進んでしまっており、ステラは慌てて手を振り大声で叫んだ。やれやれといった様子で、船尾楼甲板から何人もの海賊たちが眺めている。
すぐに横帆が巻き上げられ、最後尾のミズンマストにつけたラテンセイルだけになる。その後急旋回を始めたのを見て、ステラはほっと胸を撫でおろした。
置いていかれたら確実に助からない。何しろ三百六十度どちらを見ても水平線。一番近くのカナリア諸島からも、アフリカ大陸からも、数百キロは離れた大西洋の上。
船がどのあたりに戻ってこようとしているのか見極めると、ステラはそちらへ向かってゆっくりと泳ぎ出した。服が濡れて纏わりつき、動きにくいことこの上ないが、少しでも早く回収してもらう必要がある。鮫がきたらまずい。
カナリア諸島近辺には鮫が多い。まだ島は見えず、かなり水深がありそうなこの付近では滅多に出ないだろうが、それでも怖い。ヴィトーリアよりも怖い。水中では武器があってもまず敵わない。
焦る気持ちを必死に抑え、あまり音を立てないよう慎重に、体力が奪われ過ぎない程度にのんびりと進んでいった。鮫は獲物が暴れる水音に引き寄せられてくるという。
ステラの不安を感じ取ってくれたわけではないだろうが、思ったよりも早く船の方が戻ってきてくれた。小舟が下ろされるまでの時間がもどかしく、波に呑まれて海水を飲み込みながらも近づいていく。
「おーい、嬢ちゃん。大丈夫かー?」
小舟を漕いでいるのはオスバルド。先程の恨みで何をされるかわからない。引き攣った笑みで手を振ったが、甲板の縁から覗く黒い顔を見て安心した。前船長時代からのベテラン航海士にして、今は副長を務めるカルロスの姿。普段は優しいが、怒るとヴィトーリアよりも怖い。
彼が見張っているのなら、オスバルドも悪さは出来ない。鮫対策くらいは当然している。そう考えると、ステラはほっと一息吐いてから、力を抜いて仰向けに海に浮かんだ。
遮るものが一切ないこの場所では、瞼を閉じても初夏の強い陽差しが容赦なく突き抜けてくる。赤く染まった視界の中、頬を撫でる風の感触と、鼻腔をくすぐる強い潮の香りを楽しみながら、櫂を漕ぐ音が近づいてくるのを待つ。口の中が塩辛いのだけが不快だった。
「嬢ちゃん? 嬢ちゃん?」
オスバルドの声が大分近付いてきた。穏やかになってきた波に揺られて、ステラは心地よく身体を休める。ふいに櫂が水を掻く音が激しくなった。
「待ってろ、嬢ちゃん。今助けに行く! 死ぬなよ、生き延びろよ!」
眼を開けると、溺れたと勘違いしたのか、必死で漕ぎ始めたオスバルドの背中が見えた。ヴィトーリアは、船の皆は家族だと言った。確かにその通りだとステラも思う。自分は愛されていると感じ、自然と顔が綻びた。
「オスバルドさーん、溺れてないから大丈夫だよー!」
ステラが叫ぶと、ばんっと櫂で水面が叩かれた。オスバルドが肩を怒らせて立ち上がり、こちらを睨み付けている。
「てめー、騙しやがって! そのまま鮫の餌になっちまえ!」
「それもいいかもね。そうしたら楽になれる」
意味深なステラの発言に、オスバルドは眼を瞬きながら首を捻った。それから再び座って漕ぎ出し、すぐ隣まで来ると遠慮がちに問う。
「……お前、なんか嫌なことでもあったのか?」
再び仰向けになって、眼を閉じて波に揺られていたステラは、微笑みを浮かべながら答える。
「ううん。幸せだからだよ、今」
脈絡のないステラの答えに、更に首を捻るオスバルド。考えても仕方ないと思ったのか、ステラに向かって手を差し出して言った。
「ほれ、早くこっちに乗れ。俺っちまで置いていかれちまう」
瞼を開けて見上げると、いつになく優し気な表情のオスバルドの顔があった。
「ありがと、拾いに来てくれて」
ステラが手を伸ばすと、オスバルドが掴んで船に引き上げて――はくれない。途中で放されてしまい、再びステラは海へと沈む。不意のことで態勢を崩してしまい、ガボガボと水を飲みながら、ステラはなんとか海面に顔を出すと叫んだ。
「何すんのさー! 姐御とカルロスさんに言いつけちゃうぞ!」
意地悪な笑みを浮かべているかと思ったオスバルドは、意外にも優しげな表情のままだった。きょとんとするステラの前で、オスバルドは再び手を差し伸べながら言う。
「少しは元気が出たか? 嬢ちゃんはそれくらいでちょうどいいんだよ。跳ねっ返り娘じゃなきゃ、俺っちたちの船じゃあ生きていけない。ほれ、乗れよ。明日は負けねーぞ」
「オスバルドさん……」
目を潤ませながらステラが手を取ろうとすると、すいっと引かれる。引っ込めるとまた伸ばされ、何度か駆け引きが続いた。隙を見て小舟の縁を掴み、ステラは転がるようにして勝手に上がり込もうとするも、転覆して二人とも海に落ちた。
シルヴェリオ号の上では、そんな二人を見ていた海賊たちが、やれやれとばかりに揃って肩を竦めていた。