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落日の紅が映す心の意味は  作者: 月夜野桜
第四章 その涙は罪を洗う
20/21

「みんな動かないで。大好きなお頭が死ぬところを見たくないなら」


 すべてを凍てつかせるような響きの言葉が、ステラの唇から漏れた。冷徹な迫力に圧されたのか、野次馬根性で見にこようとしていたオスバルドが、その場で表情ごと凍り付く。宝を見ていた他の船員たちも、振り向く途中の半端な姿勢のまま固まった。


「武器を捨てて、遠くに蹴り飛ばして。オスバルドさんは、そのまま下がって距離を取って。少しでもおかしな動きをしたら、躊躇なく殺る」


 海水に濡れる可能性もあり、安全と思っていたこの場所には、誰も大した武器は持ってきていない。汎用道具として携帯しているナイフなどが何本か床に捨てられ、入り口の方に蹴り飛ばされて、岩に擦れる金属音を立てた。


 オスバルドだけは動かず、呆然としていた顔だけ正気を取り戻して言う。


「嬢ちゃん、それだけはいけねえ。止めとけ。無理だ」


「黙って、オスバルドさん。いいから武器を捨てて下がって。止めて欲しいのなら、なおさら」


 氷のような瞳のまま睨み付けると、オスバルドは諦めたのか、溜め息を吐いた。両手を挙げて、ゆっくりと後ずさりしていく。それから腰のナイフをベルトごと外すと、入り口の方へと足で蹴飛ばした。


「姐御も動いちゃ駄目だよ。壁に叩きつけようとしても、その眼を貫いて殺すほうが早い」


 警告するまでもなく、ステラがダガーを首筋に突き付けた瞬間から、ヴィトーリアは一切の抵抗をしていなかった。それだけステラの動きが速かったということもあるが、翠の瞳に込められた殺気を感じ取り、抵抗しようとしたら躊躇なく頸動脈を斬り裂くと見抜いたのだろう。実際、少しでも気配を見せたら、殺るつもりだった。


「唇くらいは動かしてもいいか?」


「いいよ。交渉には応じる。でもあまり時間稼ぎするようなら、躊躇なく殺る。それが一番簡単だもの」


 はあっとヴィトーリアは大きく息を吐いた。それから、ひどく残念そうな声音で、弱々しく問いかける。


「お前、やはりシニョーリア・ディ・ノッテだったのか?」


 ヴェネツィアの密偵だと見抜かれていた。いつから? ステラの中に疑問が渦巻く。シニョーリア・ディ・ノッテとの連絡は、最小限しかしていない。ラス・パルマス、セウタ。その二カ所、計三回だけ。


 その先は、連合艦隊の集結地へ行くという予定が変わった場合のみ、情報を流すことになっていた。メッシーナでヴェネツィア海軍と合流したことで、以後は連絡の必要すらなくなった。


 セウタでは、口頭では何も伝えていない。リスボンに住む家族宛という名目の手紙を預けただけ。その様子はヴィトーリアも見ていたが、中身が読めるわけはない。そうすると、ラス・パルマス。ドミンゴは、本当はポルトガル語がわかるのだろうか? いや、情報はヴェネト語でやり取りした。


 ステラが押し黙ったまま答えないでいると、肯定と受け止めたのだろう。ヴィトーリアは勝手に話を続ける。


「図星のようだな。最初からこの箱が目的で近付いたのか?」


 ステラはそれにも答えず、思考を続けた。裏をかかれないためには、知る必要がある。どこから、誰に気付かれていたのか。


 ドミンゴは違う。ステラはそれだけは否定した。彼が忠義に篤いからでも、ステラを慕ってまとわりついてくるからでもない。それだけなら、むしろ逆に疑惑は強くなる。


 彼はステラと同じ奴隷交易船に、商品として乗せられていた。それがヴィトーリアの仕込みだったわけがない。初めは言葉が通じず困惑もしていた。ラス・パルマスまでの半月ほどの期間で、抱き込むことは可能だろう。しかし、あれがシニョーリア・ディ・ノッテへの連絡だと判断出来るほどに、ヴェネト語を教え込むのは不可能に近い。


 ならば、初めから疑われていて、常に監視されていたのか。あれで意外と切れるオスバルドがそうだったのだろうか? それともカルロスだろうか?


 常に自分の身を案じ、可愛がってくれた人たちを、家族を疑うのは辛かった。裏切ったのは自分の方。だからこそ、あれが演技だったとは考えたくない。ステラはその思考から逃れるために、ヴィトーリアに問う。


「いつ、どうしてわかったの? 私がシニョーリア・ディ・ノッテだって」


「確信に変わったのはカンディア。最初に不審に思ったのは、お前と出逢った時だ」


 出逢った時点から疑われていた。ならばやはり、自分の近くに常に誰かがいたのは、ヴィトーリアの指示だったのだろうか? ステラの疑心暗鬼は、逆に深まっていく。


「お前が乗せられていたのは、ポルトガルの奴隷商人の船だ。おかしいよなあ。ポルトガル人をポルトガル人に売るか? 奴隷狩りをしているのは、現地の住民だ。ポルトガル人自らが狩りにいくわけじゃあない。奴らはただ現地の商人から交易品として買うだけだ。顧客の仲間を商品に出来るわけはない。父親だけ殺され、お前は生かして売られたというのも不自然だ」


「別の目的で売り飛ばすところだったとは考えなかったの? ポルトガル人とは思わなかったのかもしれないし」


「考えたさ。お前は女だからな。売りに出すこともあるのかもしれない。だが買った側まで、お前を商品として扱い続けたというのが、どうも腑に落ちなくてねえ。お前ほどの器量なら、自分の妾にでもするだろう、普通? 女郎屋に売るとしても、一度味わってから。売り先だって新大陸じゃあない。だから、お前が無事な身体であの船に乗っていた時点でおかしいのさ」


 出逢ったときの演技に失敗したと思った。自由を約束された状態で乗りたかったためにした発言のいくつかが、ヴィトーリアにそういう印象を与えてしまったのだろう。最悪、身体は許してもいいと考えていた。余計なことは言わずにいるべきだったのかもしれない。


 しかし、すべてはもう過ぎたこと。結果的に、今こうして目的の物を手に入れる寸前となっている。


「それとな、どういうつもりだったのかは知らないが、戦いに加わろうとしたのは間違いだったな。自衛のために護身術を学ばせるよう命令したのはアタシだが、いつまで経っても出来ない振りをしておくべきだった。上達が早過ぎたんだよ。おかであっても不自然極まりない。ましてや、揺れる船上での戦いへの順応の早さは、異常としか言えなかった」


 そこは確かに、自分でもそう思う。生来の性格が邪魔をした。戦いになった時に、自分だけ隠れて見ていることなど我慢がならない。あんなに気のいい仲間たちが生命を懸けていれば、なおさら手を出さずにはいられない。


「弟や妹への手紙というのも、シニョーリア・ディ・ノッテへの報告だったのか?」


「半分はそう。でも、もう半分は、本当に弟と妹への手紙。あの宝石も、生活費に充てさせた」


「ヴェネツィアにいるのか? お前リスボンじゃなくて、ヴェネツィア育ちだろう? 話していてすぐにわかった」


 そんなわけがない。戦闘と共に、かなりの訓練を積んだ。ポルトガル人に同化出来ていたはず。その証拠に、ポルトガル生まれの船員ですら、誰も気付いた様子はなかった。


「お前はなあ、時々ヴェネト語が混じるんだよ。習っていない言葉を、無意識にヴェネト語で話してしまうのだろう。多国籍な船だから、一緒に暮らすうちに色々と言葉が混じってしまっている者が多い。だから周りの者は気付かなかったのだろうな」


 確かにそういう者が多かった。それぞれ母国語で喋っているのに、大体話が通じてしまう状態。なのに、全く違う言葉も多い。そういう時は、ジェスチャーを使ったり、別の言葉で説明したりして教え合う。故に、母国語とは異なる言葉を自然に覚えることが多々ある。実際自分も、スペイン語やフランス語をかなり学んだ。


「姐御はヴェネツィア育ちだから気付いた。初めから疑っていたから気付いた。そういうこと?」


「そうだ。リスボン育ちの奴が、たまたまヴェネト語の単語を覚えてしまったような発音ではなかった。船にヴェネツィア生まれの人間は、アタシしかいないしな。だから最後に試してみた。ここに連れてくれば、お前は本性を現すだろうと思ったから」


 それがカンディアで得た確信。いったいどこで? 酒場で皆と騒いでいた時だろうか? 酒は一口も呑んでいない。しかし、喉が枯れるほど会話した。気分が高揚して、何を話していたのかも覚えていない。無意識のうちに、致命的なことを口走ったのだろうか?


「聞いても仕方ないけど、教えて。どこでどうやって試したの?」


「ドミンゴさ。お前が知らなそうなポルトガル語を、しかし普通のポルトガル人は知っている言葉を、事前にドミンゴに教えておいた。アタシのことは警戒してるだろうからな。だから奴を利用させてもらった。お前は見事に理解せず、ヴェネト語でアタシに質問したな?」


 カタツムリの話。あの時、自分の方こそ気付くべきだったとステラは後悔した。ドミンゴが口にしたカラコイスという言葉。彼の母国語という感じの発音ではなかった。


 海にいない生物の名前を、まだ船の仕事で必要なポルトガル語を覚えきっていないドミンゴに、誰かが教えるわけはない。勝手に覚えるわけもない。


 陸に上がる機会があった時に、たまたま見かけて教わった可能性はあり得る。しかし、メッシーナで待っていた時も、ほとんどが海の上だった。仕込みだと気付くべきだった。


 自分もそうだ。船の上ではまず必要ないから、時間が限られていたシニョーリア・ディ・ノッテでの教育時に、候補から漏れていたのだろう。そして乗船後に、勝手に覚えることもなかった。もっと注意すべきだった。相手がドミンゴとはいえ、知らない単語に、下手に反応すべきではなかった。


 敗北感がステラの全身を包む。王手をかけているのは自分の方なのに、生命を握っているのは自分の方なのに、このまま騙されて丸め込まれてしまう気がした。


 オスバルドの存在も、その危機感を募らせる。わざわざ指名していたから、舟を漕いで帰るものと安心していた。この事態を見越して、腕も良く機転が利くオスバルドがこれるよう、譲れと誰かに命じていたのかもしれない。


 もう会話は終わりにして、箱を奪ってさっさと逃げた方がいい。そう思いつつも、どうしてもこれだけは聞きたかった。


「負けたよ、姐御。最後にもう一つ教えて。そこまで確信があったのに、どうして私を処分しなかったの? どうしてここに連れてきたの?」


「ふっ……ふふふ……」


 抑えきれないという感じで、ヴィトーリアが笑い声を漏らした。自虐的な響き。すぐに笑いを止めると、どこか寂し気な雰囲気を纏う声で答えた。


「さあね? お前と同じ理由じゃないか?」


 同じ理由。そう言われても、意味が理解出来ない。裏切る側と裏切られる側。正反対の行為に、同じ理由など存在するわけがない。


 考えすぎてはならない。もう第二陣が来るはずの時間。むしろ遅いくらいだ。人が多くなると、脱出しにくくなる。直接裏切らなくてはならない相手も増える。傷付けなくてはならない相手も増える。


 もう終わりにしよう。ステラはそう考えて、最後の提案をした。


「姐御個人に恨みがあるわけじゃないの。生命は要らない。箱さえ渡してもらえれば、それでいい。お宝も要らない。お願い。それを頂戴」


「意見の不一致だな。お前こそ、財宝はすべてやるから、箱だけは残してくれ」


「それじゃ、契約が果たせないの。悪いけど、この箱は貰う。姐御にはもう必要ないでしょ? だから何年も隠したままにしておいたんでしょ?」


 この箱の中身を公開するつもりなら、とっくにやっていたはず。ここに入っているのは、ヴェネツィア大評議会の老人派が仕組んだ、ヴィトーリアの父に対する陰謀の証拠。


 十人委員会が決め、ドージェ評議会で決議されたことになっている、イスパニア王への親書。ヴィトーリア、いや、マリーザ・チェントゥリオーネが、先方の希望通りイスパニア有力貴族に輿入れすることを条件に、オスマンとの戦いに協力するという盟約書。正確には、それが偽造されたもの。


 ステラの直接の雇い主であるジャンドナート家が主導し、青年派の勢力を殺ぐために画策した犯罪を告発出来る、唯一の証拠。ヴィトーリアが隠し持っている可能性のあるこれを回収するのが、ステラに課せられた使命だった。


 陰謀を暴く気があるのなら、父の名誉を回復し、元の身分を取り戻す気があるのなら、八年も隠したままにしておくわけがない。彼女にはもう要らないもののはず。


 だがヴィトーリアは頑として譲らなかった。ステラにはさっぱり理解出来ない。


「駄目だ。さっきも言った通り、これはアタシの生命よりも大事なものだ」


「なら、残念だけど、実力行使する」


「嬢ちゃん、止めろって! 俺っちたちは家族だよな? そんなことをしても何の得にもならねえ。やり直そう、もう一度。その手を下ろしてくれよ」


 両手を挙げたまま翻意するよう説得してくるオスバルドを見て、ステラは一瞬考えた。どうせ利用するなら、一番腕利きの彼を無力化した方がいい。


「オスバルドさん、姐御の手から箱を取って。他の人たちは海に飛び込んで外へ」


 指示に従うかどうかどうか迷い、目を見合わせる船員たち。一方オスバルドは、どっかとその場に座り込んだ。


「どうしてもやるってんなら、俺っちからにしてくれ。嬢ちゃんが裏切るところなんて、見たかねえ。死んだ方がマシだ」


 その眼差しは本気に見える。手の届くところに武器があったら、ヴィトーリアを助けるためにステラを攻撃するのではなく、自分の首でも掻き切りそうに思えた。


 今実行してしまったことを、ステラは深く後悔した。場所だけ覚えて、後でこっそり取りにくるという手もあった。


 最初からそうだ。皆が邪魔をしてくる。悪気もなく、ただ愛することで、ステラの決心を鈍らせてくる。奴隷船から拾った、如何にも怪し気な小娘を、何も疑うことなく可愛がってくれた。ヴィトーリア以外にも、不審に思った者がいなかったわけがない。それでも信じてくれようとした。


 ステラの心の動きが、そのまま身体に表れたのだろうか。ヴィトーリアに突き付けるダガーの切っ先が揺れ、首を絞める腕の力が緩んできた。


 別の形で終わりにしよう。すべてを話して、許してもらった上で、協力を請おう。ステラの心はそちらに傾いていった。彼らならきっと力になってくれる。この裏切りをも許してくれる。そう思えた。


 その気配を察したのだろうか。ヴィトーリアが優し気な調子に戻って口を開いた。


「ステラ、お前が欲しいものが何かは知らない。だが、恐らく勘違いしていると思うぞ。その中身はな――」


 突如として洞窟内に木霊する銃声。ヴィトーリアの言葉はそれにかき消されて、ステラの耳には届かなかった。


 時間をかけ過ぎたかと後悔した。誰かがこの状況に気付いて、銃を持ってきたのだ。ヴィトーリアを殺すより早く、ステラを無力化出来る武器を。


 しかしそれは、すぐに別の後悔に変わった。直後に響き渡った聞き慣れない声で。


「ヴェネツィア海軍のモリエーロだ。海賊ヴィトーリア、そこにいるのはわかっている。武器を捨て、大人しく出て来い。既に船も仲間も取り押さえた。逃げ場はないぞ?」


「なるほどね。すべて手配済みか。これ以上の実力行使はあるまい。ガキのくせに、用意周到なことだ」


「違う! 違うの! 私は呼んでない!」


 ヴィトーリアから身を放し、ステラは激しく首を振って否定した。本当に呼んでいないのだ。なのに勝手にここへ来た。


 その理由を考えて、自分も信用されていなかったのだと、ステラは悟った。どこかから監視していて、この証拠を回収してこないようであれば、踏み込めるよう準備していたのだ。


 カンディアの港には、ガレー船が多数入っていた。軍用の大型船はなかったが、今のシルヴェリオ号では、複数隻で迫られたら為す術はない。これがありそうな洞窟に入るのを待って、ずっと追いかけていたのだろう。


「アタシの負けだ。箱は持っていけ」


「嬢ちゃん……俺っちは信じたい。けどな、さすがにこれはねえやな……」


 心底哀し気に首を振るオスバルド。ステラは、もう取り返しがつかないとわかりつつも、叫ばざるを得なかった。


「違うの……ホントに違うの! 私は、この箱だけを持ち帰るつもりで! みんなのこと、海軍に売るつもりなんて全然なくて! だからお願い、信じて!」


 首を振るたびに、涙が雫となって飛び散った。こんな結末は、望んでいなかった。これを失っても、今のヴィトーリアに実害はない。シルヴェリオ号の皆も同様。逃げる猶予を充分に与えて、それからヴェネツィアに持って帰るつもりだった。それなのに――


「ほれ、お前が持っていけ。この裏切り者が!」


 一喝と共に、無理やり箱を押し付けられた。それを抱きかかえて蹲り、ステラは泣きじゃくる。自分だけが幸せになる結末など、納得がいかない。いや、これでは自分も幸せになれない。それでも、ヴェネツィアで待つ家族のことを考えると、これを持って帰るしか選択肢はなかった。


 ヴィトーリアの言葉は、自分を罵倒してはいたが、しかしそこには何かもっと別の感情が込められているようにも聞こえた。言葉通りではない、別の意味が。


「あーあー、嬢ちゃんがシニョーリア・ディ・ノッテだなんて知ってたら、優しくなんてするんじゃあなかったわなあ!」


 これ見よがしに大きな声で叫びながら立ち上がるオスバルド。気を遣っているのだと感じた。ステラまで海賊として処分されてしまわないよう、その存在を認知させてくれようとしているのだと。


 どこまでお人好しなのだろう、この船の家族たちは。意図したことではないとはいえ、彼らを真の意味で裏切ることになってしまったのを、ステラは後悔してもしきれない。


 再び銃声が響き、近くの壁に命中して破片が飛び散った。


「早く出てこい! こちらから乗り込んで皆殺しにしてやろうか?」


「今行くさ。抵抗しないよう、部下を説得していたところだ。お前ら、手出すなよ? 武器は捨てたな? 行くぞ」


 自ら先頭に立って、ヴィトーリアが入り口の方へと戻っていく。


 ステラは考えた。少しでも状況を改善する方法を。今助けることは不可能に思える。だが、いずれどうにか出来る方法なら、一つくらいはあるはずだと。


 見捨てられない。こんな状況でまで自分を気遣ってくれる彼らを、愛してくれる彼らを、助けなければならない。それは自分の役目だ。裏切りの後始末は、自分でする必要がある。


 今の海軍の声は、洞窟の入り口の方から聞こえてきた。見通しが悪い故、伏兵を警戒してまだ踏み込んでこないのだろう。それならば――


 奥にある財宝に一瞥をくれると、ステラは泣くのを止めて立ち上がった。ヴィトーリアたちを追い越して、下の海面が見えるところまで走る。


「私はステラ・アルベルティーニ! ジャンドナート議員の命により、シニョーリア・ディ・ノッテの密偵として、海賊ヴィトーリアの下に潜入していたの! この箱が、ジャンドナート様が探していたもの!」


 箱を高く掲げ、小舟の上からアルケブス銃をこちらに向けている海兵に向かって示す。四艘も入り込んでおり、そのうちの一つに見たことのある顔がいた。シニョーリア・ディ・ノッテの一員のはず。


「必要なのはこの箱だけでしょ? みんなのことは見逃してあげて!」


「駄目だ。お前以外は全員逮捕せよとの命令を受けている。ステラ・アルベルティーニ、それを持って下りてこい」


 流石にそんなに甘くはない。ここまでは想定済み。ならば、あとは大人しく捕まってもらうだけ。


「……わかった。みんなも抵抗しないで? こんなところで死ぬのは嫌でしょ? せめて裁判を受けよ? きっと死刑にはならない。オスマン艦隊と戦ったんだから。あのシロッコを倒したんだから。ヴェネツィアを救ったんだからー!」


 ヴィトーリアたちの方を向き、魂を振り絞るようにして叫びをあげる。誰も視線を合わせてくれなかった。それでもいい。自分が裏切ったのは、確かなのだ。許してもらおうなどとは思っていない。


「先に下りて。私は奥を見てくる。人数合ってると思うけど、念のため。お宝も全部持って来る!」


 そう言い残して、箱を抱えたまま下からは見えない位置へと移動した。ヴィトーリアたちに向かって、ジェスチャーを送る。カルロスがよくやっていた、当て舵の合図。船が曲がりすぎてしまうのを防ぐために、舵を戻すときに、一時的に反対方向へと切るためのもの。


 きっと理解してくれる。自分が針路を正しく戻すという意味だと、わかってくれる。五か月も共に過ごした仲なのだ。本物の家族なのだ。必ず助けてみせる。


 見えていたのか、見えていなかったのか。誰も何も反応しなかった。一言も発さず、粛々と下の小舟に下りていった。


 全員が下りたのを確認すると、ステラは奥へと走った。ここにこの箱しかなかったというのは不自然だ。古代の金貨を何枚か拾って、ポケットに突っ込んだ。一番目立って高価そうな宝冠を腕に通し、宝石もいくつか握ってから元の場所へと戻る。これならばかなりの金額になる。隠していたお宝はこれだけだと、勘違いしてもらえるかもしれない。


「これ、海賊のお宝! 全部持ってきた! 受け取って!」


 そう言ってから、ステラを待って真下にいる小舟へと放り投げていった。海兵たちが慌てて受け止めていく。ポケットの中の物も含め、全部渡してから、箱だけ持って縄梯子を下りた。


「あ、あーっ!!」


 縄梯子が切れて、ステラは落下していく。正確には、切った。意図的に揺らしてこすりつけたら、狙い通りに切れた。これならわざわざ奥を確認しに行かないことが期待出来る。


 しかし箱は濡らしたらまずい。海兵に向かって放り投げて、自分は海の中に落ちた。


「ぶはっ……」


 水面に顔を出すと、船の上から海兵の一人が手を差し伸べてくれた。


「大丈夫か? 古くなっていて切れたんだな……」


「良かった……全部持ち出した後で」


 ここまでのやりとりは、ヴィトーリアたちの耳にも届いているはず。まだ洞窟の入り口をくぐるのに渋滞中なのだから。先程のジェスチャーを見てくれていなかったら、逆の意味に捉えてしまうかもしれない。ステラが独り占めするための演技だと。しかし、それならそれでもいい。既に裏切り者なのだから。


 もっと早くヴィトーリアたちに出逢えていたらとステラは思う。ジャンドナートと契約して、シニョーリア・ディ・ノッテの密偵になる前であれば、恐らくこんなことをしなくても済んだ。事情を話せば、きっと助けてくれたに違いないのだから。


 それとも、ここに来る前に目的を打ち明けていれば、それだけで結果は変わっていたのだろうか。ジャンドナートの欲しがっている、陰謀の証拠の在り処だけを教えてもらい、皆が逃げた後に一人で取りに来ていたら。


 だがすべては終わったこと。もうステラにはどうしようもない。あとは自分に出来る範囲で、精一杯の当て舵をするだけ。知恵を絞り、勇気を出して、行動するだけ。


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