一
翌昼頃。船首の応急処置を済ませたシルヴェリオ号は、連合艦隊に先立ってパトラ湾を離れた。
戦場だった場所を、名残惜しそうに船尾から眺めるヴィトーリア。風に靡く紅い髪は散り散りに揺れ、彼女の心境を表しているようにも思える。眠るとき以外に船上で髪を下ろしているのは、初めて見た。
しばらくその後ろ姿を見つめていた後、身を寄り添うようにして並んで立った。皆の前では口に出来なかったことを、ステラは訊ねる。
「なんで御褒美断っちゃったの?」
コロンナより約束されていた褒美を、ヴィトーリアが断ってしまったと聞いた。そのことに誰も文句は言っていなかった。理由を訊ねる者すらいなかった。しかしステラは、どうしても気になった。あれだけの戦いを乗り越えたのにただ働きでは、皆があまりにも可哀想だ。
ヴィトーリアは遠い眼をしたまま、しんみりとした調子で答える。
「……生き残ったアタシらには、必要ないだろ」
その言葉で、本当は断ってなどいないのだとステラは理解した。生き残れなかった者には、必要だと言っているように聞こえるから。シルヴェリオ号の人員は、半分近くまで減っている。船を動かすだけなら困らないが、もう一度軍船や海賊とやりあうのは難しい。
それら死んでしまった者たちの遺族に分け与えられるよう、手配してきたのだろう。生きてこの船に乗っている者には、ヴィトーリアが私財を投げ打って褒美を与える。そういうことなのだと思った。何しろ、行き先はエーゲ海だと言っていたのだから。
「ねえ姐御、エーゲ海に何しに行くの?」
一応、訊ねてみた。自分が思っている目的と違っていても困る。もしそうだったら、何とかして誘導しなくてはならない。
「オスマンとの戦争は、別にこれで終わりってわけじゃあない。ただ艦隊を全滅させただけ。コンスタンティノープルやエルサレムを奪い返すどころか、ギリシアさえ手つかずだ」
「まだ制海権を取り戻しただけってこと?」
「版図のごく一部のな。それすら、長く続くかどうかわからない。国力を考えると、遠からず艦隊は再建されて、また大きな戦いが起こる。イングランドやフランスがどう動くかもわからない。だから今のうちに、エーゲ海に残していった物を回収したい」
どうやら望んでいたものが見られるかもしれないと知って、ステラの眼が輝く。
「ねえねえ、もしかして、お宝? 前言ってた、お宝の洞窟に行くの? どんなのがあるの? いっぱいあるの? 隠してあるのは何カ所?」
ヴィトーリアは苦笑を浮かべつつ、興奮して早口でまくし立てるステラの頭をポンポンと叩いて宥める。
「そうがっつくな。お前の分け前も、一生暮らしていけるくらいはあるさ。アタシの取り分も持っていけ。何人家族か知らんが、弟や妹もいるんだろう?」
「ホントに? ホントにいいの?」
「皆にも教えてやれ。古株はわかってるだろうが、知らない奴もいるだろう」
そう言ってヴィトーリアが背中を叩く。押し出されるようにして、ステラは甲板に駆け出した。
「みんなー! お宝だよー! お宝の洞窟行くんだって! 御褒美は姐御がくれるんだって!」
手を振りながら飛び跳ねて、大声で叫ぶ。しかし、返ってきた言葉を聞いて、ステラはがっかりして下を向いた。
「それより酒だー! 酒場のある街に寄れー!」
「いや、女だ! 俺は大人しい女が好みだ!」
ここにいるのが荒くれ海賊たちだということを、すっかり忘れていた。欲しいのは財宝でも金でもない。酒と女と、美味い飯があればそれで満足。財宝も金も、それらを得るための道具でしかないのだ。
「ここにいい女が二人もいるのに、何言ってるのさー!」
ステラがふくれっ面で叫ぶと、大きな笑い声と共に野次が飛んだ。
「抱いてる間に首を切られちゃ敵わねえや。お前さん、お宝独り占めする作戦だな?」
「お、俺っちは……その……出来れば、その、な……嬢ちゃんが……」
「ステラ、嫁。ドミンゴ、一緒に帰る!」
聞き捨てならない台詞がいくつも耳に飛び込んできた気がするが、ステラは聞こえなかった振りをして、船尾のヴィトーリアの元へとぼとぼと戻った。
それからは、イオニア海もエーゲ海も順調に航海出来た。オスマン艦隊敗北の報は、少なくとも近辺の街には届いているのだろう。軍船や海賊はおろか、商船ですら、オスマンの旗を掲げているものは見かけなかった。
まずは英気を養うため、ヴェネツィア領であるクレタ島の、カンディア港へと向かった。教皇領の客将という扱いになっているため、武装した船であっても、入港手続きはすんなりと済んだ。
上陸した船員たちの何人かが、勢いよく駆けていく。以前はこの港をよく利用していたのだろう。行きつけの酒場へと向かったのだ。オスバルドが情けない声を上げながら追いかけていく。
「待ってくれー。俺っちを置いて行かないでくれー。――おい、てめーら、助けてやった恩、忘れやがってー!」
「あはははは」
腹を抱えて笑いながら見送るステラの腕を、誰かが引っ張る。見上げると、ドミンゴだった。
「ステラ、芋虫、探す! 疲れ、とれる!」
「そ、それはもう要らないからー!!」
尚も腕を引くドミンゴ。後ろで面白そうに見ていたヴィトーリアが何事か言っている。ステラにはごく一部しかわからないが、捕まえるなどと言った単語が聞き取れた。何かクレタ島ならではの昆虫でも教えているように思える。ドミンゴが目を輝かせて、更に強くステラの腕を引き出した。
「カラコイス! ステラ、カラコイス、食べる!」
「カラコイス?」
聞いたことのない名前だった。ステラが首を傾げて見上げていると、ドミンゴは指先をくるくると回した。それから自分の左右のこめかみのところに人差し指を立てて当てて、伸ばしたり縮めたりを繰り返す。カタツムリのことを言っているのかと思い、ヴィトーリアに訊いた。
「もしかして、ボーヴォロのこと?」
ヴィトーリアが頷いているのを見て、ステラはカタツムリ料理のことだと確信した。
「それいいね! 食べようよ! ……あ、でも、その辺で捕まえたやつはやだな……。お店で食べよ! 私、サガナキも食べたい! あと、デザートにバクラヴァも!」
ギリシア周辺の名物料理をいくつも思い浮かべると、口の中に唾液が溢れてきた。自然と頬が緩んで笑顔になる。
「あいつらを追いかけていけば全部食えるさ。頼めば大抵のものは出してくれる」
既に坂の上の大分遠いところまで行ってしまったオスバルドたちを、ヴィトーリアが指差す。
「ドミンゴさん! 行くよ! ふおおおおお!」
全速力で駆け上がっていくステラ。それを追ってドミンゴが楽々とついていく。
その日食べた料理は、これまでの人生でも五本の指には入る美味しさだった。愛すべき船の家族たちと一緒だったからだろう。今まで生きてきて、一番大きな出来事を成し遂げたあとだからだろう。夜遅くまで皆と笑い、歌い、騒ぎまくって、一生分楽しんだ気がする。
自分は愛されている。瞼が勝手に下りてきて、テーブルの上に突っ伏したまま眠りに落ちる前に、またそう感じた。




