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落日の紅が映す心の意味は  作者: 月夜野桜
第三章 その髪は復讐の色に燃えて
16/21

 西からの風が吹いたのは、ほぼ正午のことだった。太陽が上昇から下降に転じた瞬間、オスマン艦隊の命運も引きずられたのだろうか。


 向かい風によって船が流されないように、オスマン艦隊は帆を畳んだ。同時に、連合艦隊のすべての船に、教皇から与えられた神聖同盟の旗が掲げられる。


 十字架に磔になったイエス・キリストの下に、四つの紋章が配置された意匠。中央に教皇ピウス五世、左にイスパニア国王フェリペ二世、右にヴェネツィア、下にドン・フアン・デ・アウストリア。神の子の下にこれらの軍が集い、その御名において戦うことを誓った旗を見て、連合艦隊から鬨の声が上がる。


 そして、進軍の合図となるトランペットが高らかに鳴り響いた。


 最初に動いたのは、ヴェネツィアのガレアス船のうちの四隻。ガリオットと呼ばれる小型ガレーを用いたオスマン側の工作を防ぐため、砲台のようにして前方に張り出して配置されていた。追い風に助けられつつ漕ぎ進むと、オスマン艦隊を射程に捉えて一方的に砲撃を開始する。


 太鼓や笛を鳴らし、戦意高揚を図っていたオスマン艦隊が、砲撃を受けてにわかに混乱し始める。しかし、すぐに立て直すと、ガレアス船の間を次々と抜け、連合艦隊本隊へと迫った。


「あ、抜かれちゃったよ? 姐御、私たちは動かなくていいの?」


 フォアマスト上でその様子を見ていたステラが問う。すぐにも各艦隊の船同士が激突し、斬り込み戦に発展しそうな状況。にもかかわらず、至極落ち着いた様子でヴィトーリアは返した。


「まだだ。まだアタシらの出番じゃない」


 鈍重なガレアス船では旋回が間に合わないのか、それとも何かの作戦なのか。左右をすり抜けていくオスマン艦船への砲撃は行いつつも、ガレアスはそのまま直進していってしまっている。砲撃を行うなら、混戦になる前にこちらも参加すべきと思えた。


「なんか消極的過ぎない? もしかして、この戦いの中で倒すつもりはないの? 決着がついた後、油断してるところを襲うつもり?」


 ステラの問いかけに、ヴィトーリアは眼を瞬かせながら意外そうに答えた。


「その発想はなかったな……。それも選択肢の一つに入れとこう」


「あ、姐御……」


 随分とお気楽に見えてしまって、ステラは肩を落として下を向いた。これから仇討ちに行く人間とはとても思えない。


「今のところアタシらは、あくまでも予備艦隊として動けばそれでいい。シャルークがいきなり最前線に出てくるわけはない。味方の援護をしつつ、機会を窺う。――ステラ、向こうを見ろ」


 ヴィトーリアが指したのは、左翼バルバリーゴ艦隊の方向。その奥には、ラグーンがあるのが見える。


「あの辺りは浅瀬が多く侵入が難しい。だがシャルークたちにとっては、ここは地元みたいなもの。地形を知り尽くしている奴らは、陸地沿いを抜けて背後を取ろうとするだろう。風向きが変わったとはいえ、敵はガレー船だ。必ず抜けてくる。それに備えてここで様子を見ている」


「速度を殺さないため。抜けてこようとしてから動き出して、出てきた船の頭を叩いて離脱ってこと?」


 ステラの問いに、ヴィトーリアは満足そうに微笑んだ。


「そうだ。狭いところを抜けてくるんだ。一隻か二隻沈めるだけで、道は無くなる。そのままバルバリーゴ艦隊に包囲させて、押しつぶせばいい」


 その後、背後に回り込んで、後方待機しているはずのシャルークを狙う。そういう算段なのだとステラは理解した。しかし、直後にヴィトーリアが舌打ちと共に手すりを叩く。


「クソっ、バルバリーゴめ、余計なことしやがって……」


 視線を戻すと、バルバリーゴ艦隊は海岸近くまで船を展開していっていた。恐らく同様の警戒をしたのであろう。浅瀬にシャルーク艦隊を釘づけにして、包囲に持ち込むつもりなのかもしれない。


 そのままバルバリーゴ艦隊とシャルーク艦隊は正面から衝突し、最初の白兵戦が始まった。互いに包囲を目指して動いたことで両軍の船が入り乱れてしまい、近距離から銃や弓を撃ち合っている。船首から突っ込み、相手の船に乗り込んでの攻撃も行われ始めた。


「当てが外れちゃったね……どうするの?」


 中央でもドン・フアン艦隊と敵の主力、話に聞いた通りならば総司令官アリ・パシャの艦隊が激突していた。味方右翼はまだ戦端が開かれず、両軍共に南へと大きく進出中。互いに敵艦隊の裏を取ろうとして、駆け引きが行われているように思える。


 バルバリーゴとシャルークの戦いは、完全に混戦の体となっている。迂闊に手を出せない状態に見えた。


 ふとメインマストの上から、見張りの声が響いた。ヴィトーリアがすぐにそれに反応する。


「カルロス! 急いで帆を開け。北東に向かって加速後、進路を真北に。シャルークの船が何隻か抜けてくるぞ!」


 この距離と混戦の中でも、目敏く相手の動きを捉えるアフリカ育ちの人間の能力には舌を巻く。ステラの眼には、両軍入り乱れた船団の塊にしか見えず、抜けてこようとする敵船の姿など見分けがつかない。


 帆を全開にしても、外洋と異なり風の弱いイオニア海では、じりじりとしか加速しない。その動きの鈍さに、ステラは苛立ちを覚えた。ヴィトーリアもそうなのだろうか。落ち着かない様子をしばし示した後、手すりを乗り越えながら口を開いた。


「ステラ、お前はここにいろ。――ドミンゴ、上がって来い」


 そう言い残すと、甲板へと下りていってしまった。下では砲撃の準備が始まっており、砲列甲板や下の船倉に対して、オスバルドが次々と指示を飛ばしているのが見えた。


 ドミンゴが上がってくるころには、最も効率の良い角度で風を受け続けた船は、次第に速度が乗ってきた。その勢いのまま北に向かって転針を始める。


「ステラ! 敵、シャルーク!」


 前方を指してドミンゴが叫ぶ。その先では確かに、緑色のオスマンの旗を掲げたガレー船が、西に頭を向けて船団の中から飛び出してきていた。


「右舷斉射用意! カルロス、取舵一杯。オスバルド、タイミングは任せる。当たらなくてもいい! 足止めをしろ!」


「ええっ!?」


 船がすぐに左に旋回を始め、ステラは思わず声を上げた。この距離から狙うというのだろうか。まだ一キロ以上はあるように見える。


「てーっ!」


 オスバルドの掛け声とともに、轟音が響いて大砲が一斉発射される。ステラは砲弾の行方を見守ったが、すぐに見失った。


「面舵。進路を戻せ!」


 着弾を待たずに船はまた舵を切って、バルバリーゴ艦隊後方を北に進み出す。


 発射後十秒くらいはしてから、完全に後背に抜けていた敵船の周囲に水柱がいくつも上がった。流石に命中はしないが、届きはするようだった。牽制としては充分かもしれない。


 その後、同様にして細かく舵を切りながら、砲撃しつつ距離を詰めていく。加速こそ出来なくなったものの、速度を殺すことなく砲撃と前進を繰り返す様は、風上に切り上がるときのビーティングに似ていると思った。


 強い貿易風が吹く地域で海賊活動を続け、どんな方向にでも自由自在に進めるよう訓練された結果なのだろう。複雑な帆の操作を巧みに、そして素早くこなし、シルヴェリオ号は肉薄していく。抜けてきた敵船たちが旋回して、バルバリーゴ艦隊後方からの攻撃をするのを妨害しつつ。


「当たった!」


 敵艦船の一隻に見事に砲弾が命中。漕ぎ手座の一部を破壊して機動力を殺ぐと、ステラの口から思わず歓声が漏れる。残り四百メートルを切ったあたりから、次々と命中させて敵の動きを鈍らせていった。


 うまく進むことの出来なくなった敵艦船に、バルバリーゴ艦隊の一部が回頭して対応し、砲撃を加えつつ接近していく。船首旋回砲が何度も火を噴いていた。殺傷目的のぶどう弾が発射されたのか、甲板上で銃や弓を構える兵士たちを薙ぎ倒している。


 距離を詰めると、イスパニアから借りた銃士たちが、自慢のアルケブス銃を放った。よく訓練を積んだ精強な兵士たちは、鉄砲自体の配備数の差もあって、オスマン艦船を圧倒していく。


 シルヴェリオ号は役目を果たし、速度を殺さぬよう気を付けながら、西回りに旋回して南へと進路を変えた。


 再び全体の様子を見るためか、ヴィトーリアがフォアマスト上の見張り台へと上がってきた。狭い場所にドミンゴと三人ひしめき合いながら、バルバリーゴ艦隊の戦闘状況を観察する。


「一体あれはどうなってる? バルバリーゴは何をやってるんだ?」


 眉をひそめてヴィトーリアが呟く。後背に回ったシャルーク艦隊の船は、ほぼ無力化出来ている。櫂を破壊され、推進力を失った敵船など放置しても構わないと思えるのに、拿捕に拘っているのか、まだ戦いを止めない。それどころか、追加で向かう船までいる。


 一方、バルバリーゴの旗艦付近では、何隻もが敵船に囲まれるような形になっている。そちらへの援護に入るか、南に回って敵艦隊を包囲すべきだということが、素人のステラの目にも明らかだった。


「バルバリーゴに何かあったのやもしれんな……。流れ弾でも命中して死んだか?」


 ありえないことではないとステラは思った。司令官死亡あるいは負傷で、指揮系統が乱れているのなら、この状況も頷ける。


「カルロス! 教皇の旗を掲げろ! すべてのマストに赤い旗もだ!」


 ヴィトーリアの指示に従って、すぐに船員がマストを上り、旗を掲げていく。本艦に続け。連合艦隊の間で、突撃の合図として周知されているはずの旗信号だった。指揮艦でもない船が掲げて効果があるのかどうかはわからない。しかし、誰かが先導して動く必要がある。


 シルヴェリオ号は進路を徐々に東に変えていき、シャルーク艦隊南側の艦船に向かって砲撃を加えた。そのまま味方左翼と中央の間に出来ている隙間を抜けていく。


 後ろを振り返ると、バルバリーゴ艦隊の一部がこれに呼応して動き出していた。シャルーク艦隊側面から砲撃しつつ前進するシルヴェリオ号に続いて、損傷した敵艦船を南から半包囲する形で攻撃を開始していく。


「姐御! あれ見て、あれ!」


 ステラが指すシルヴェリオ号前方、東の海には、ヴェネツィアのガレアス船の姿があった。戦域外まで行ってしまっていたが、回頭して戻ってきてくれたようだ。左翼にいた二隻がシャルーク艦隊の後背に回り込みつつ、激しい砲撃を加えていく。


 誰かが指揮権を引き継いだのだろうか。バルバリーゴ艦隊は、次第に統率を取り戻しつつあるように見えた。旗艦周辺に対して援護が入り、その他遊んでいた艦船は南からの半包囲陣に加わっていく。


「お頭、シャルーク! シャルーク、一番奥!」


 そう叫びながらドミンゴが指したのは、シャルーク艦隊右翼の最後方。北の浅瀬に最も近い、安全な位置だった。何隻ものオスマン艦船がバルバリーゴ艦隊との間に入り、砲撃も銃撃も届かない。しかし――


「いいところにいるじゃあないか。あの場所、逃げられまい」


 妖艶な笑みを浮かべ、ヴィトーリアが嬉しそうに呟く。その紅い髪は復讐の色に染まり、その青い瞳は情熱に燃えて。その唇からは、最期の号令が下された。


「野郎共! 準備はいいか!? これより本艦は、シャルークの旗艦目掛けて突貫する!」


「うおおおお!」


 すべての船員が天に腕を突き上げて吠えた。進路を指示するまでもなく、シルヴェリオ号はシャルーク自らが鎮座するはずの船に向かって、一直線に加速しつつ突き進み始めた。


 砲列甲板や船倉から、砲手を務めていた者たちが飛び出てくる。オスバルドの指示で、アルケブス銃をすぐにでも撃てるよう各自準備を始めた。


「ステラ、お前はカルロスの手伝いをしてやってくれ」


「わかった! 姐御、無理しないでよ? 一人で突っ込んだりしないでね?」


 共に戦いたい。ヴィトーリアの背中を守りたい。その気持ちを抑え、ステラは索具を伝って見張り台を下りていった。当然のようにドミンゴが追ってくる。


「ドミンゴ、ステラ守る!」


「頼りにしてるよ、ドミンゴさん!」


 船首楼甲板へと下り立つと、二人で主甲板下の船倉に向かった。そこではカルロスが、何人かの乗組員たちと一緒に、買い集めた武器を運ぶ準備をしていた。


「お嬢、助かりまさあ! 少しでいいから持ってくんなまし!」


 武器を詰め込んだ袋をカルロスに手渡された。ステラは背中に負うと、更に鉈を預かる。それを手に、上からの指示を待った。船首楼の上で砲撃音が響く。衝突に備えて、手近なものに掴まりながらしゃがみ込んだ。


 もう一度砲撃音が響いた直後、シルヴェリオ号全体が衝撃と共に激しく揺れた。ステラは必死にしがみ付いて、転がっていってしまうのを防いだ。ほぼ同時に耳をつんざく轟音が響く。


 木材が折れる音や、割れていく音が聞こえた。シルヴェリオ号は、速度を落とさないまま、シャルークの船に突っ込んだのだろう。


 揺れが収まるころには、射撃音が連続して起き始めた。雄叫びが主甲板へと続く穴から流れ込んでくる。そのまま激しい射撃戦が展開されたのが、上から聞こえてくる音でわかる。


「お嬢、まだですぜ……」


 カルロス他、武器を背負い、両腕にも抱えた船員たちが身を低くしてその時を待つ。しばらくして射撃音が収まるとともに、待望の声が響いた。


「野郎共! アタシに続けー!」


 ヴィトーリアの号令と共に、多数の足音が踏み鳴らされる。甲板へと上がる縄梯子を真っ先に上りながら、ステラは叫んだ。


「みんな、行くよ! 私に続いて!」


「あっしの言葉なんでやすがね、それ……」


 皺くちゃの苦笑を浮かべたカルロスに、自信ありげな笑みを向けてから、ステラは甲板へと身を乗り出した。


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