二
九月十五日。連合艦隊にやっと動きがあった。イスパニアの属領であるナポリ王国のチェーザレ・ダヴァロスが先発隊として出航した。タラント湾、すなわち、イタリア半島を長靴に例えた場合の、爪先とかかとの間に位置する凹んだ部分を確保するためである。
翌十六日、連合艦隊本隊がメッシーナを出立。戦力は大きく四つの艦隊に分けられた。
中央が総司令官ドン・フアン・デ・アウストリアの主力艦隊。右翼にはジェノヴァの提督、ジャナンドレア・ドーリアが位置し、左翼にヴェネツィアの提督、セバスティアーノ・ヴァニエロが配置された。後方にはイスパニアの提督、アルバロ・デ・バサンが率いる予備艦隊という陣形。
あいにくの荒天と逆風によって帆船の大半は置いていかれ、ガレー船のみが先行して、九月二十四日には主力がオトラント海峡に差しかかかった。イタリア半島のかかとに当たる部分を越え、対岸のバルカン半島へと向かい始めたのである。
連合艦隊の当面の目的地は、オトラント海峡を渡って南東、バルカン半島沿岸にあるコルフ島。十四世紀からヴェネツィア共和国の支配下にある島で、アドリア海への入り口を守る要衝地である。三十数年前に、バルバリア海賊の頭目、バルバロス・ハイレッディンに襲撃されたが、その後新しい要塞を建築し直した。
ステラたちが辿り着いたのは、本隊に遅れること四日、九月三十日になってからだった。入れ違うようにして、ドン・フアン艦隊が出航していく。
「あれ、なんで先に行っちゃったんだって?」
コロンナとの面会を終えて戻ってきたヴィトーリアに、ステラが問う。ドン・フアンは、後続の帆船を待たないどころか、コロンナを始め多数の艦船をコルフ島に置いたまま出ていってしまったようなのだ。
「イグメニツァに入港するらしい。対岸のバルカン半島にある港だ。どうもイスパニア兵士とヴェネツィア兵士の間で、いざこざがあったらしいな」
「何やってんのかな、こんな大事な時に……。すぐそこにオスマン艦隊がいたって、おかしくないのにね」
ヴィトーリアも大きく肩を竦めながら、ステラに同意する。
「まったくだ。ヴェネツィア艦隊は、アゴスティーノ・バルバリーゴが引き継ぐそうだぞ?」
「え、司令官交替?」
オスマンの支配地はもうすぐ目の前。そんなタイミングでの司令官交替など、とても考えられないことだった。
「なんでも、イスパニアから借りた兵士の長の一人を処刑したとか。イスパニア軍内では、ヴェネツィアを見限って撤退する意見も出たそうだが、バサンが説得したらしい。ドン・フアンは、ヴェネツィアとの折り合いが悪い者たちを連れて、先に出たのだろう」
「総司令官も大変だね……」
その一件は、結果的には良い方向に働いたのかもしれなかった。ドン・フアンが移動した先のイグメニツァにて、オスマン艦隊の居場所らしき情報が得られたのである。
バルカン半島とペロポネソス半島の間にある、東西に細長い形状をしたコリンティアコス湾。その入り口にあるレパントにて、越冬の準備をしているらしいとのこと。コルフ島にもすぐに報がもたらされ、統率を取り戻して出陣するよう指示があった。
あいにくの悪天候で、戦闘の準備は整えたものの、出航は十月三日の夜明けまで遅れた。同日、先行していたドン・フアン艦隊は、南東のケファロニア島に到達。北端のフィスカルド港に入った。そこで、ファマグスタ陥落の報がやっと届くことになる。
艦隊には動揺が走ったものの、敵はもう目の前。直線距離にして、百キロ強の位置である。ドン・フアンはバルカン半島沿岸まで進出すると、陸海双方から偵察をしつつ、慎重に進軍を始めた。
そして十月七日。迎撃のため出航してきたオスマン帝国艦隊を、ついに視認することとなった。
「姐御、これ西から回った方がいいんじゃないの? こんな狭いとこ通ってる間に、囲まれちゃうよ?」
フォアマスト上の見張り台から前方の様子を眺めつつ、同じく隣で見ているヴィトーリアに問う。ステラの視線の先では、バルカン半島とオキシア島の間のほんの二キロほどの狭い海を、連合艦隊の船が通り抜けていっている。
敵艦隊の位置をなるべく早く知るために、陸からの索敵も併用した結果、バルカン半島沿いに進軍することになったためである。
「心配すんな、レパントはもっと奥だ。先に抜けた船からは、もう様子が見えてるんだろう。必要があれば、指示があるさ。それにな、アタシらにとってはこれでいい」
ヴィトーリアの言うこともわかる。後ろを見ると、バサンの予備艦隊はまだ大分北西の沖合におり、必要ならそのまま島の南へと回り込める位置。そして、自分たちの目的は、あくまでもシャルーク個人を打ち倒すこと。戦争の勝利ではない。
それでもステラは気が気ではない。シャルーク打倒を果たしたとしても、連合艦隊が敗北し、ヴェネツィアが滅ぼされでもしてしまったら意味がない。最初に攻撃を受けるのは、一番東に位置し、陸からも攻め込めるヴェネツィアで間違いないのだ。
かつてフン族やランゴバルド族、マジャル人など、数々の侵攻を防いできたのは、海軍力があってこそ。ラグーナに浮かぶ島であるヴェネツィアに対しては、単純な陸戦兵力だけでは対抗出来ない。しかし、ここでオスマンに敗北するとなると、話は変わる。
だが、船の方針はもちろん、艦隊の指揮にステラが口を挟むことは出来ない。不安を胸に抱えつつ、今後の動きを見守るしかなかった。
連合艦隊はそのまま海峡を抜けていくと、コリンティアコス湾の出口にあたる、パトラ湾と呼ばれる一帯を塞ぐようにして、北から南へと一列に展開していった。
ステラの眼にパトラ湾奥の様子が入ったときには、既にオスマン艦隊も視認出来る位置に来ていて、同じく南北へと横一列に展開している途中だった。
予想通り、敵の編成はすべてがガレー船。大型の軍船は双方同じくらいの数に見える。予備艦隊および補給船として使われているのが、こちらは帆船、敵は小型のガレー船と異なっているが、総数としてもほぼ同等に見えた。
見張りの黒人船員が何事か叫んだ。すると、ジェスチャーと共にヴィトーリアが声を張り上げる。
「カルロス! 旗を揚げろ! 赤だ!」
ステラたちの所属するコロンナ率いる教皇庁艦隊は、中央と右翼の間に進出していく途中だった。赤旗は、この船は艦隊を離脱し、敵右翼を攻撃するという合図。シャルークを狙うために、事前に密約を交わしてある。つまり、敵右翼がシャルーク艦隊ということ。
シルヴェリオ号は速度を落とし、味方左翼と中央の間くらいに位置した。
東から僅かな風が吹いている。こちらにとっては向かい風。相手にとっては追い風。オスマン側有利な状況で、かつてない規模の艦隊同士が激突する大海戦が始まろうとしていた。
「なんで一気に仕掛けてこないのかな?」
双方、まだ展開の途中ではある。オスマン艦隊左翼と、こちらの右翼であるドーリア艦隊が共に南へと急いでいる。しかし、こちらの左翼バルバリーゴ艦隊と、オスマン右翼シャルーク艦隊は、既にそう遠くない距離で対峙しており、中央も同様である。
味方予備艦隊であるバサン艦隊は、まだ北のオキシア島付近。オスマンの視点で考えると、今のうちが攻め時であるように見えた。
「疲れてるのさ、奴らも。恐らくこちら以上に。このタイミングでの戦闘は、向こうにとっては想定外の戦いだろう。連合艦隊の集結に時間がかかったのが、逆に有利に働いたのかもしれんな」
オスマン艦隊は、イオニア海沿岸を略奪して回っていた。キプロス島から連戦の者たちもいるかもしれない。レパントで越冬の準備をしているらしいとの情報は、彼らはもう限界に達していた証拠と考えることも出来る。
「でも、こっちもあんまり変わらないんじゃない? うちの船は大丈夫だったけど、疫病出た船もあったらしいし、コルフでのあの出来事……」
イスパニアとヴェネツィアの思惑は根本では同じだが、具体的なところでは食い違いがある。オスマン帝国の脅威を排除したいというのは共通事項であるが、地域が異なる。
イスパニアが排除したいのは、北アフリカにおけるイスラム勢力。特にバレアレス諸島や、イスパニア支配下にあるシチリアやナポリ、そしてチュニスを襲うバルバリア海賊たちへの対処。彼らの本拠地である、アルジェからトリポリまでの一帯を制圧することが目的である。
ヴェネツィアにとっては、それらよりも東、イオニア海東岸やエーゲ海、更にはキプロス島などにおける覇権の奪還が目的である。
毎年四月までには集結し、北アフリカはもちろん、最終的には聖地エルサレムの奪還も視野に入れて活動を続ける、海の十字軍的な役割を持った同盟となってはいる。
それでもイスパニアとしては、先にバルバリア一帯からオスマンを追い出したいところだろう。東地中海を確保するとしても、そのまま陸地沿いに北アフリカを攻める方が妥当、と考えてもおかしくはない。
また、イスパニアにとっては、既に国策は新大陸を始め外洋に移っていて、地中海の覇権に興味はないということもある。
その辺りの意識の違いが、司令官はもとより末端の兵士たちにも存在していて、どうしてもいざこざが起きてしまうのだろう。ステラとしては、イスパニア軍の士気が心配なところである。
「あまり心配するな。長期戦になればこちらが有利。敵には逃げ場がない。後退してもコリンティアコス湾奥に追いつめられるだけだ」
「こっちは逃げる気になればいつでも逃げれる。しかも逃げるときは追い風。だからこっちから先に仕掛けないのはわかるんだけど……」
「だからこそ向こうは機会を待っている。こちらを一網打尽にし、短期決戦で壊滅させられるタイミングをな」
急速に南に展開していく敵左翼が、その証拠なのかもしれない。こちらの右翼ドーリア艦隊は展開が追いつかず、湾の封鎖は完成していない。このままでは、後背に回られる危険もあるように見えた。
ふと、ステラの視界の端に、小舟が近づいてくるのが映った。どこから来たのかはわからない。立派な身なりの軍人が乗っている。シルヴェリオ号の近くまで来ると、大声が響いた。
「我はフアン・デ・アウストリアである! 神は、我らの主は、必ずやこの神聖なる戦いへのご助力を下さるだろう! そなたたちに神の祝福あれ!」
それだけ言うと、すぐに小舟は向きを変え、中央ドン・フアン艦隊の方へと進んでいった。呆然とその後ろ姿を追いながら、ステラが問う。
「ねえ姐御、あれ本物? え、総司令官本人!?」
「アタシに聞くな。流石に会ったことはない。だがこの戦い、アタシらの勝ちかもしれない。――見ろ、すべての船に声を掛けて回っているようだ」
確かに、ドン・フアン艦隊へと戻ると、また同じように激励して回っているようだった。少し離れたところにいたこの船にも、わざわざ声を掛けにきてくれたらしい。
「庶子とはいえ、流石にイスパニア王の弟だな。若齢にしてこの大艦隊の総司令官を任されるだけはある。人心を掌握することの大切さというものを心得ているようだ」
ヴィトーリアはそう褒めるが、敵船がいつ動くやもしれぬというのに、ステラには少々無責任と思えなくもない。とはいえ、開戦のタイミングを見切った上での行動なのだろう。万全の状態で戦闘を開始する。そのために今必要なのが、味方の戦意向上。そういうことなのだとステラは理解した。
総司令官自らによる祈りが天に通じたのだろうか。それとも単なる偶然なのだろうか。
それから間もなく、太陽が南中する頃になって、突如として変化が起きた。東からの風が止み、代わりに西から吹き始めたのだ。その追い風に乗って、一気に状況が動き始めた。
後の世に語り継がれるレパントの海戦が今ここに、幕を開けたのである。




