一
「なんか、ちょっと寂しくなっちゃったね……」
恒例の毎朝の甲板掃除をしながら、ステラはそう呟いた。手分けして椰子の実の皮で磨いていくが、甲板に散らばった船員の姿は、以前よりも少ない。
あの後、アジトへと戻ると、全乗組員に加え、捕虜となっていた海賊たちも交えて、今後の予定についてヴィトーリアが明らかにした。神聖同盟の連合艦隊に参加して、バルバリア海賊と戦うと。そしてそれは、国のためなどという大義ではなく、自分と、当時の生き残りの船員たちの私怨による復讐でしかないと、すべてを正直に語った。
全員に選択権が与えられた。共に戦うか、それとも船を降りるか。去る者には、特別な手当が支払われた。半年は暮らしていけるだけの金額。ヴィトーリアと、何人かの幹部が貯め込んでいた財産を放出して賄われた。
捕虜になっていた海賊たちは、皆金だけもらって消えた。元から乗っていた者も、十人近くが去った。とはいえ、ほとんどは残ったのだから、それはとても素敵なことだとステラは思う。家族の一員として、ヴィトーリアや仲間たちのために、生命をかけて戦うというのだ。
「ステラ、泣かない。ドミンゴ、守る。家族、見捨てない」
隣で一緒に甲板を磨いていたドミンゴがそう言って、ステラを元気づけてくれる。あれから三か月ほど。ドミンゴは急速に言葉を覚え、たどたどしいながらも、意思の疎通に困る場面は減っていた。
そして彼もまた、船の家族のために残ってくれたうちの一人。
「ドミンゴさんは帰らなくてよかったの? 故郷の家族のためにお金稼ごうとして、船に残ってただけなんでしょ? 今ならまだ帰れるよ? チュニスまでそう遠くないし」
神聖同盟の連合艦隊が集結しているのは、シチリア島のメッシーナ。長靴のような形をしたイタリア半島の爪先から、狭い海峡を越えてすぐ向こう側の港町。島の反対側のシチリア海峡を越えればチュニスで、そこはもうアフリカ大陸である。
「ステラ、アフリカ知らない。歩いて帰る、無理。砂漠、海より怖い」
ステラは世界地図を頭に思い浮かべてみた。ドミンゴの故郷は、ギニア湾周辺。確かに、ここからポルトガルまで歩いていくよりも遠いような気がする。砂漠があるのなら、なおさら困難だろう。
「帰れたら帰りたい?」
「帰らない。帰るときは、ステラ一緒」
「あはははは……」
一緒とはどういう意味だろうと、ステラは曖昧な表情で笑った。以前、家族の一員として守ると言ってくれたが、もしかしたら嫁という意味だったのかもしれない。
「ステラ、それ終わったらちょっと付き合え」
声のした方を振り返ると、主甲板の上でヴィトーリアがこちらを見ていた。ステラは周囲の床を見回した。それからヴィトーリアの方を向いて声を張り上げる。
「もう終わったー!」
「お前、昼飯抜きな」
「ええー!?」
自分の担当範囲は終わったことにしようとしたのが、どうもバレてしまったらしい。しかし、すかさずドミンゴが立ち上がった。
「ドミンゴ、頑張る。ステラ、行く」
胸を叩きながらそれだけ言うと、ドミンゴはステラの足元も含め、張り切って磨き出す。気が利いて、優しくて、そして本当に頑張り屋ないい青年だと思う。
「ドミンゴに免じて許してやる。ついて来い」
やれやれといった表情でヴィトーリアが応じたのを確かめると、ステラはドミンゴの逞しい背中を叩きながら声をかけた。
「ドミンゴさん、ありがとー!」
笑顔を向けたドミンゴに、これでもかというほどの感謝の笑みで返してから、ステラはヴィトーリアの後を追う。主甲板からは小舟が下ろされており、下でオスバルドが待っていた。
ヴィトーリアは既に縄梯子を下りている途中。小舟に着くのを待って、ステラも下りていった。
「嬢ちゃん、そのまま行くのか?」
下からオスバルドの声がかかって、ステラは手足を止めて自分の格好を見た。質問の意図からすると、陸に上がるということらしい。着替えなくていいのか、ということだろう。
「街へ行くの?」
「いや、港までだ」
返事をしたヴィトーリアを見ると、彼女も船の上での格好のままである。なら特に着替える必要はないと判断し、ステラは梯子を下りるのを再開しながら答えた。
「このままでいいー」
小舟に降り立つと、三人だけで行くのか、すぐにオスバルドが漕ぎ出した。
「またコロンナさんとこ行くの?」
「いつ出陣するのか、流石に気になってな……」
ヴィトーリアの焦りは、ステラにもわかる。もうしびれを切らしていて、単艦乗り込んでしまいたいくらいだった。カナリア諸島を出たのが六月の初め。セウタで武器調達に十日ほど待たされたが、そこからさらに二か月以上が過ぎている。
一度マルタ島に立ち寄ってから、このメッシーナへと辿り着いたのが六月の終わり。そのときには、まだどこの艦隊もきていなかった。そのまま一か月近く待ちぼうけすることになった。七月二十三日になって、やっとヴェネツィア艦隊の第一陣が到着し、しばらくして教皇庁の艦隊がやってきた。
その指揮官がマーカントニオ・コロンナ。昨年キプロス救援のために結成された神聖同盟の連合艦隊では、総司令官を務めた。意見の食い違うイスパニアとヴェネツィアの間で調停に奔走したが、司令官としての決断力不足も相まって、役目を果たすことなく艦隊は解散。
調停役としての能力は買われ、今回の連合艦隊では、副司令官という立ち位置で参加している。
モナコのグリマルディ家を始め、各地の有力貴族などから、国家としてではなく、個人として派遣された軍船も多数ある。それらは各国艦隊に分散され、指揮下に入っていた。シルヴェリオ号も同様の扱いとなり、コロンナ率いる教皇庁艦隊の一員として配備されている。
「待ってるだけって、辛いよね……」
出陣してしまったら、いつどこで戦いになるかわからない。オスマン側も、当然こちらの動向に探りを入れているだろう。メッシーナ海峡を抜けてすぐのイオニア海で鉢合わせるかもしれないし、場合によってはこの港が急襲される可能性すらある。
常に船はもちろん、武器のメンテナンスも欠かせず、気が気ではない状態。周りの船は、味方に囲まれているからか、意外とのんびりして見える。しかし、不利な状況で敵に遭遇したら一目散に逃げるのが信条の海賊にとっては、この状況は逆に安心出来ない。逃亡は許されないだけでなく、そもそも密集しすぎていて、抜け出すこと自体が困難。
ヴィトーリアにとっての心配はそれだけではないようで、しきりに情報屋と連絡をとっているようだった。
「二人とも、これは誰にも言うな。ファマグスタが陥落したらしい。オスマン側の戦力が増えるかもしれない」
「ええっ!?」
「キプロス攻略に使われていた艦船が、投入される可能性がある」
オスマン帝国海軍は、近頃イオニア海沿岸で略奪を繰り返しているとの情報が入っていた。ヴェネツィアの勢力を殺ぐためである。主力はこのメッシーナに来ているため、がら空きとなっている。そこに合流されると、戦力的に厳しいことになるかもしれない。
「この話をコロンナの耳に入れるべきか、黙っているべきか……」
ヴィトーリアは、危機感を煽り、尻を叩いて出陣を促すかどうか迷っているようだった。このまま冬になって、戦闘自体が流れてしまうのを最も恐れているというのは聞いていた。
しかし、ファマグスタ陥落の報を聞いたら、この戦争の目的が一つ消失してしまう。キプロス島が完全に敵の手に落ちたとなると、兵士たちの戦意への影響も免れない。
「私は黙ってた方がいいと思う。イスパニアも今回は本気だよね? 総司令官のドン・フアンって人、王様の弟なんでしょ?」
「とはいえ、庶子だ。王族としては認められていない。捨て駒さ」
「そうなんだ……」
ドン・フアン・デ・アウストリアは、イスパニア国王フェリペ二世の異母弟。今回の連合艦隊では、コロンナに代わり、総司令官に任ぜられた。貴族の私生児は聖職者となるのが一般的であったが、軍人への道を選んだ異色の人物。
「だが、期待は出来る。まだ若いが、去年のアンダルシアでの反乱鎮圧は、奴の手柄だそうだ」
イベリア南部のアンダルシア地方は、長らくイスラム勢力の占領下にあった。レコンキスタと呼ばれる再征服活動が続いた結果、前世紀終わりになってやっと、イスパニアが奪い返した。
住んでいたイスラム教徒たちは、改宗か追放の二択が迫られた。多くの者がキリスト教への改宗を選んだが、隠れイスラム教徒となっている者が大半だった。
彼らに対しては、厳しい制限を課した法律などが制定されている。当然のように、不満の高まった住民によって反乱が起きた。それを鎮圧したのが、この連合艦隊の総司令官に抜擢された、ドン・フアン・デ・アウストリア。
「そろそろ動いてくれてもいいんだがな……」
ヴィトーリアの嘆きもわかる。すでに八月の半ばを過ぎ、二百隻以上が集結してもいる。しかし、ステラが聞いている情報とは、ヴェネツィア艦船の数が合わない。まだ到着していない艦隊があるということ。出陣までは、もう少しかかるように思える。
「姐御、焦らなくて大丈夫だよ。ヴェネツィアは、もう矛を収める気はないよ。秘密兵器も用意してるらしいしさ」
「ん、なんだ、秘密兵器とは?」
ステラの言葉に反応して、訝し気にヴィトーリアが問う。どう言おうか考えたのち、あまり期待させすぎても仕方ないと思い、曖昧に答えた。
「なんかすっごい大きい船用意してあるんだって。詳しくは知らないよ? 先に来たヴェネツィア海軍の人から、ちょっと聞いただけだし」
「大きい船……か。飛び切り大きいガレー船が来ていた気がするな。陸からなら見えるかもしれない。道中、探してみよう」
桟橋に小舟がつけられ、そこからは岸壁の上を歩いた。海の上には、かなりの広範囲にわたって各国の軍船が浮いている。
集まったのは、イスパニア帝国の他に、ヴェネツィア共和国、ジェノヴァ共和国、サヴォイア公国、トスカーナ大公国、ウルビーノ公国、パルマ公国のイタリアの各都市国家、それからマルタ騎士団。教皇領の海軍と、各地の志願兵たち。
フランス王国はオスマン帝国と協定を結び、神聖同盟には加わらなかった。神聖ローマ帝国は和平条約を維持中。ポルトガルは紅海やインド洋方面でオスマンと抗争中で、直接領土が接しているわけでもない地中海での戦いに介入する余裕も意義もなく、参戦していない。
それでも、メッシーナの港の外まで溢れ、その気になれば海峡自体を埋め尽くすかと思えるほどの大船団は、壮観というよりも、ある種の恐怖を掻き立てるものだった。
予測通り、集まっている船のほとんどはガレー船。敵も同様だろう。一体何万人の漕ぎ手が投入されているのかと想像すると、恐ろしいものがある。メッシーナの人口よりも多いのではないかとすら思える。
「あれがお前の言っていた秘密兵器か?」
ふと立ち止まってヴィトーリアがそう呟く。指し示す先の海には、巨大な要塞が浮いていた。海上要塞。その表現しか思いつかないような特殊な威容を放つ、巨大なガレー船だった。
「たぶんそう。ガレオンとガレーのいいところ組み合わせたとか言ってた気がする」
ヴェネツィアが用意したガレアス船。帆船とガレー船の中間的存在ともいえる船で、大きな三本のマストを持つ。通常のガレー船と比べると乾舷が大分高い。すなわち水面上に出ている船体の部分が多い。遠目には帆船に見えなくもない。
その理由は、櫂が設置された漕ぎ手室の上に、砲列甲板が設置してあるためだった。小型のガレオン船並みの舷側砲を備えており、独特な形状の船首楼や船尾楼も存在していて、そこに旋回砲が多数設置されていた。
「あれ、役に立つのかな?」
砲撃用の帆船と、ガレー船の両方の機能を持つが故に、かなりの大きさと重量になっているように見えた。帆で進むにしても、漕いで進むにしても、とても鈍重な動きではないのか。風と漕力両方が合わさって初めて、まともに航行出来ると思える。
「使い方と状況次第だな。風向き関係なく進めるのが、ガレー船のいいところだ。たとえ遅くとも、真向かいの風でも直進可能。帆船では進めない進路を取り、相手の死角を突いて一方的に砲撃してくれるかもしれない。風が弱く不安定な地中海に限っては、実用性があると思うぞ」
「なるほどね……」
具体的にどういう戦況で役に立つのか考えながら、六隻あるらしいガレアス船を眺めつつ、岸壁を歩いていった。
教皇庁艦隊の臨時司令部となっている建物の前で、ステラとオスバルドは留守番をすることになった。ヴィトーリアはコロンナとの面会を行ったが、結局ファマグスタの件は伝えなかったという。代わりに、ヴェネツィアの主力が今日にも到着するとの情報を持ち帰った。
予告通り、その日のうちにヴェネツィア海軍の残り、六十隻ほどのガレー船が現れた。急遽作られた新造船も多く、漕ぎ手が不足したために遅れたとのこと。ヴェネツィアは相次ぐ戦乱と領土喪失により、急激に人口を減らしている。
その一方、翳りは見られるものの、未だ世界の造船拠点の一つであり、この戦争に備えてガレー船を大量建造する能力だけはある。そのため、このような状態に陥ったのだろう。
ドン・フアンは、イスパニア軍から数千の兵士をヴェネツィア艦船に貸し出すという英断を下し、この問題を解決した。また、多数のアルケブス銃をも与え、全体の軍備を整えていった。
シルヴェリオ号にも、かねてよりコロンナを通して所望していた新式大砲、カルヴァリン砲が配備された。これまで使っていたカノン砲よりも口径が小さく威力は低いが、射程に優れた砲身の細長い大砲である。
「急げ! 夜になっちまうぞ!」
大砲の入れ替えに大わらわのシルヴェリオ号内では、責任者であるオスバルドの声が一日中響いていた。
「まあまあ、今日出るってわけじゃないんだし……」
ステラが宥めると、オスバルドは眉を吊り上げ反論する。
「ちんたらやってたら、夜になっても終わらねえ。いつまでもここ占領してるわけにはいかねえんだ。いないよりはマシだ、嬢ちゃんも手伝いやがれ!」
藪蛇だったとステラは後悔した。オスバルドの言うことも、もっとも。
何分、客将の身である。荷の積み下ろし用の岸壁を、長時間占領するわけにはいかない。かといって、小舟からロープで引き上げられるような重さでもない。そもそも小舟では沈んでしまうかもしれない。そんな重量物を、下からは手で押して、上からはロープで引いて、斜めになった渡し板を通して積み下ろししている。
仕方なく、疲れた様子の船員と代わって手を掛けてみると、ステラの顔がどんどんと紅潮していく。想像以上に重い。車輪がついているからもっと楽に動くものなのかと思ったが、気を抜いたら皆と一緒に轢き殺されてしまいそうだった。
「ふおおおおお!」
ステラの雄叫びと共に皆が気合を入れ、一気に船まで押し上げていく。一つ上げるだけでステラは力尽き、甲板に仰向けになって寝転がってしまった。
「なんだ、情けないな、お前は……」
上から覗き込みつつ声を掛けてきたのはヴィトーリア。皆が苦労することになった原因がヴィトーリアにあると思って、ステラは口を尖らせて文句を言った。
「そもそもこれ必要あるのー? 今までのだとなんで駄目なの?」
「お前、帆船でイオニア海を航海したことあるか?」
「あるわけないじゃん……」
「ここいらは風が弱く、また気まぐれだ。外洋と同じ戦い方は出来ない」
それくらいは知っている。ステラは身を起こしながら質問で返した。
「だからみんなガレー船使うんでしょ? 乗り換えるんじゃなかったの? そのために武器集めたのかと思ったのに」
「この人数で漕げる船で、戦争に行けるか?」
ヴィトーリアが周りを指して言う。数十人で扱えるガレー船では、戦闘など基本的には無理。乗員の三分の二から四分の三が漕ぎ手として必要である。つまり、動きながら戦闘に参加できるのが十数人になってしまう。接舷後は漕ぐ必要がないから全員参戦するとしても、相手は常時百人単位で戦闘可能。どう考えても無理がある。
「人雇うのかと思ってた」
「ヴェネツィア海軍が人手不足だっていうのに、どうしてうちがそんなに人を雇える? 金は誰が払う?」
「それはそうだけどさ、そもそもこの船じゃ、斬り込まれたら普通に敵わないよね?」
「無論だ。だから今回は砲撃での援護に徹する。そのためのカルヴァリン砲だ」
接舷しての斬り込み戦が得意な海賊といえども、人数の少ない小型ガレオン船では苦戦が見込まれる。ガレー船に比べ、大砲を多く積めるガレオン船の利点を生かし、アウトレンジからの砲撃で援護をするというのは合理的といえる。
また、側面に撃てることも、帆船だけの特徴である。ガレー船では、櫂があるため側面に砲台は設けられない。舷側砲には、敵船と距離を保ったまま撃てるという戦術上の大きな利点がある。しかし、それでヴィトーリアの目的が達成出来るとも思えない。
「そんなんで、シロッコ倒せるの?」
「今回は略奪が目的じゃあない。沈めてしまってもいい。風向きに気を付け、捕まらないよう速度を落とさず動き回りながら、狙い続ける。可能なら、奴の船のみを」
やけに消極的だと感じた。ヴィトーリアらしくない。自ら乗り込んで、その手で首を刎ねるのが、ヴィトーリアのやり方ではないのかと思う。
首を傾げつつ、翠の瞳で見上げながらステラは問う。
「もしかして、味方が倒してくれれば、それでいいと思ってる?」
それに対して、ヴィトーリアは不敵に笑って返した。
「なわけないだろ。最後は乗り込む。そのために、お前に武器を集めさせたんだ」
どこかで人員が合流するということなのだろうかとステラは考えた。ヴィトーリアたちの元々の活動地域は、エーゲ海やイオニア海。そこでオスマン商船を襲い、白人奴隷を解放したりしていた。
であれば、どこかにかつての仲間がいてもおかしくはない。一度船を降りた者たちを、戦場近くで拾うのかもしれない。積める物資の量を考えると、合理的ともいえる。
「ほれ、元気が出たのなら働け。アタシも手伝う。――オスバルド、お前は少し休め!」
そうして暗くなってもまだ大砲の入れ替えは続いた。ふと目が覚めると、ステラは甲板で眠っていた。星明かりの下、何人もが同じように、船室に戻ることなく、その場で力尽きていた。




