序章
アドリア海に夕陽が沈む。濃い朱に染まった西の空は、血の色とも炎の色とも見える不吉さを漂わせていた。
ここはヴェネツィア。かつてはアドリア海の女王と呼ばれ、東地中海を支配した海軍国家の成れの果て。オスマン帝国との大海戦に勝利し、海洋国家としての復権成るかと沸くこの街で、もう一つの出来事が終わろうとしていた。
ラグーナ・ヴェネタ。アドリア海最奥部に存在する潟はそう呼ばれ、ヴェネツィアの街はその中に建てられている。西を向いた魚のような形をした孤島。その腹部に当たる場所に、数多くの人々が集まっていた。
サン・マルコ寺院やドゥカーレ宮殿の建ち並ぶ、ヴェネツィア随一の広場であるサン・マルコ広場。そこでは群衆が皆、海の方を眺めている。
彼らの見つめる先には、聖マルコを象徴する有翼の獅子像と、聖テオドーロ像が載せられた二つの円柱。間に設けられた処刑台と、吊るされた一人の女性に視線が集中していた。
その髪は、燃えるような紅。情熱と、復讐と、愛情の色が入り混じり、夕陽を浴びて更に輝きを増していた。薄汚れてはいるものの、端正な顔立ちの中央にある青い瞳は、まだ力強い光を失っていない。両手両足を縛られ、首に縄が掛けられているにもかかわらず。
上半身はボディスと呼ばれる女性用の短い上着であったが、下半身は男性のようにズボンを穿いていた。その素材は帆布。名前の通り、船の帆としても使われる麻生地である。それらが示すのは、この時代としては異例なことに、彼女は船の乗組員であるということだった。
「只今より、海賊ヴィットーリアの罪を検証し、裁きを下す会合を執り行う」
ヴェネツィアにおいて法を司る四十人委員会。その判事の一人の宣告と共に、裁判が開始された。否、裁判とは名ばかりのただの死刑執行。司法府でもあるドゥカーレ宮殿の中ではなく、外のサン・マルコ広場で開始され、そして被告はもう首に縄を掛けられている。絞首台の上で。
「この者は多数のヴェネツィア商船、および同盟国のイスパニア、ジェノヴァなどの商船を襲い、乗員を殺して積み荷を奪った、悪逆非道な海賊の頭目である。以下に、シニョーリア・ディ・ノッテの調べ上げた、詳しい罪状を挙げる」
シニョーリア・ディ・ノッテ。夜の支配者という意味を持つ、ヴェネツィアの警察組織。治安維持や国家安全保障の役目を負う十人委員会の下部組織で、ヴェネツィア市内はもちろん、海外にも密かに人員を配置しており、諜報組織としての一面も持つ。
判事は具体的な商船の名前やその持ち主、被害に遭った人物名や品目、損失額などを、次々と読み上げていく。
ドゥカーレ宮殿の軒下に立ち、その様子を見守る少女が一人。翠の瞳が不安気に震え、アドリア海から吹き込む潮風によって、彼女の亜麻色の髪もまた揺れていた。
「……現時点で判明している罪状は、以上である」
大分長いこと読み上げていた後、判事はそう言って締める。書状を収めつつ、紅毛の女海賊を見上げて訊ねた。
「事実に相違ないか?」
女海賊は表情一つ変えずに、驚くべきことを、そして同時に当たり前でもあることを言ってのける。
「すべて真っ赤な嘘」
「罪状に偽証罪を付け加える」
判事は書状を取り出し直すと、末尾に何事か書き込み始めた。それを眺め遣りながら、女海賊は告げる。
「偽証はしていない。ヴィットーリアなんて海賊はいないと言っているんだ」
何度か瞬きした後、判事は書状を見直して、自身の発言を訂正した。
「失礼。海賊ヴィトーリアだった」
名前としては同じ。イタリア風にヴィットーリアと読むか、ポルトガル風にヴィトーリアと読むかの違い。判事はそう解釈したのだろうが、女海賊は再度否定する。
「発音の問題じゃあない。アタシはヴィトーリアなんて名前じゃないんだ。マリーザ・チェントゥリオーネ。それがアタシの名前だ」
女海賊の発言を聞いて、静かに成り行きを見守っていた群衆がどよめき出す。その名に覚えがある者が多いのだろう。周囲の反応に満足気に微笑むと、見物人たちの方を向いて女海賊は続けた。
「思い出してもらえたとは光栄だ。そうさ、八年前、国家反逆罪で処刑された、あのダニエーレ・チェントゥリオーネの娘さ」
はっきりと告げたことで、喧騒は更に増す。無理もない、当時としては一大事件だった。
チェントゥリオーネ家は、ヴェネツィアの政治を司る大評議会において、世襲の議員資格をもつ門閥家系の一つだった。評議会の重職を寡占し続ける老人派と呼ばれる有力貴族たちに対抗する、青年派と呼ばれる派閥の中で頭角を現していたのがダニエーレ。それが反逆を企てたとして、処刑された。
群衆が騒ぎ出した一方で、判事や補佐官たちは顔色一つ変えない。彼らにとっては既知の事実ということなのだろう。
女海賊は続けて語る。自らの本当の出自について。
「生きていたのさ、アタシは。オスマンと誼を通じるため、ナクソスに嫁ぐ途中で海の藻屑となったとされているようだが、偶然海賊に拾われてなあ。名前を隠して今まで生き延びてきた」
再び書状に何か書いていた判事が顔を上げ、女海賊の発言を遮るようにして強く言う。
「名前が異なったとしても罪状は変わらない。海賊マリーザ・チェントゥリオーネとして裁判を続ける」
「まあ、待て待て。そう焦らなくてもいいだろう。この通り、あとは足場を外されるのを待つだけの身だ。少し、昔話を聞いちゃくれないか?」
判事が口を開きかけたが、その前に群衆からいくつもの声が飛ぶ。
「話させてやれ!」
「聞いてみたいな。かつての貴族、しかも女の身で海賊になんてなった理由を」
「これは裁判だ! 反論の自由がある!」
次々と飛び交う要望に、致し方なくという様子で判事は先を促した。
「この国でどういうことになっているのかは知らない。だが、アタシは父からこう聞かされていた。オスマンとの戦いへの協力を取り付けるため、イスパニア貴族の元へ嫁ぐことになったと。十人委員会が決め、ドージェ評議会で決議されて、先方の了解も得ていると」
「そのような事実はない!」
強い口調で判事が割り込むも、女海賊は涼しい表情でそれをなだめる。
「まあまあ。アタシはそう聞かされたって話をしてるだけさ。事実かどうかは知らない」
「以後、不要な憶測を生む発言は控えるように」
仏頂面で判事が応じると、女海賊は満足そうに微笑みながら言葉を続けた。
「あの日、父の手の者が、何故か夜更けになってからアタシを迎えにきた。見知った奴だったし、アタシもまだガキだったから、特に疑うこともなくついていった。侍女と共にゴンドラに乗せられ、街を巡る水路を抜けて辿り付いた先は、アドリア海に浮かぶ商船だった」
女海賊は身を捻って背後を見る。サン・マルコ広場の前に広がる海を。そこから商船に乗り込んだのかもしれない。今も、何隻か大きな船が停泊している。
「船は夜明け前に出航し、アドリア海を抜けてイオニア海に出た。そこで何故か東に進路を取ったんだ。イスパニアは西だってのに。アタシは船長を呼びつけて理由を尋ねた。すると、同様の使命を帯びた女を、クレタで拾うためだという。女を乗せると縁起が悪いと言って敬遠する船もあるから、少々遠回りだが迎えにいくと」
女性を乗せると、海の女神や精霊が嫉妬して、船を沈めるという迷信がある。また、船自体が嫉妬すると言い張る者もいる。船は女性名詞として扱われ、女性の名前を付けることも多い。わざわざ遠回りする理由としては、それほど不思議なことではない。
「それからしばらくすると、後ろから軍船が追いかけてきた。ヴェネツィアの旗を掲げた船だ。停船命令が出され、仕方なく碇を下ろした。横に並んだ軍船には、確かにヴェネツィア海軍のような恰好をした者たちが乗り込んでいた。そいつらは、船に乗っている反逆者の娘を引き渡せと言う。アタシは訳がわからず、船長たちも同じなのか、捜索を許すか揉め始めた」
広場の群衆の方に視線を戻し、女海賊は寂しげに問う。
「父はここで処刑されたのか? その時にはもう、この世にはいなかったんだろう?」
誰も何も答えず、ただ俯いた。その通りだったのだろう。女海賊は彼らの様子を確かめてから、先を続けた。
「侍女は逃げろとアタシに勧めた。オスマンの支配下にあるエーゲ海まで、ヴェネツィア軍船が単独で出張ってくるのはおかしい。海軍に偽装した海賊ではないかと。強制的に乗り込まれて起きた混乱を利用して、アタシは海に飛び込んだ。その後気が付いたら、別の船の上にいた」
更に赤みを増した夕陽は、水平線に差し掛かった。朱に塗りつぶされた景色は、徐々に色を変えつつ、藍色に染まった東の空へと続く。太陽と入れ替わるようにして、やや赤みを帯びた大きな月が昇ってきていた。
紅毛の女海賊は、月を見遣りながら語り続ける。自分の波乱に満ちた半生について。
柱の陰に隠れた少女は、翠の瞳でじっと見つめながら、その話に耳を傾けていた。