読んでないの??
「どう、大丈夫そう?」
流石に何時間もコーヒーを一杯買っただけで喫茶店に居座る訳にもいかないので、お代わりを買いに行った碧が戻って来た。
ついでにマフィンも2つほどお皿に乗っていた。ラッキ〜! 今朝は朝が早かったから朝食はおにぎり一個ずつだったんで、そろそろお腹が空いてきたんだよね。
「ありがと〜!
荏原莉里に関しては、バレてクビなのが余程のショックだったのか、特に抵抗することなくあっさり退職関係の書類に署名捺印しているっぽい」
魅了を使って会社側の気を変えさせようともしなかった。そこまで力を使いこなしていないのかな?
基本的に男性社員に凄く人気があって可愛がられている人だって母は言っていたからね。
元々魅了って好意を感じている相手じゃないと効きにくいのだ。男性にチヤホヤされている可愛い女性は周囲の女性から敬遠されがちだから、女性から好かれる事は少なくて、同性相手に魅了を使って成功した経験もあまりなく、それを使おうとすら思いつかなかったにかも。
「まあ、刑事告発出来るようなやらかしをしたのに、自己都合で大人しく辞めれば少ないながらも退職金まで払うって言われたら諦めもつくよね。
訴えないんだったら、それこそ次の職場を探す際に前の職場に問い合わせをしても変な事は言わずにありきたりな言葉で適当に誤魔化してくれるだろうし」
碧が言った。
あ〜。そっか、下手に次の職場から問い合わせがあった時に悪評を流すと恨まれて悪評返しをされかねないし、場合によっては名誉毀損とかで訴えられる可能性もあるのか。
まあ、今回は流石に名誉毀損で訴えっていうのは無いだろうけど、人事としての基本方針は当人が会社で働いていた事のみを認め、あとは当たり障りない事を適当に返すんだろうな。
まだ若いからなんとかなるでしょう。
魅了であっさりやりたいようにやっていけた今まで程は楽ができないとは思うが。
「お、出てきそう」
マフィンを食べ終わり、コーヒーも終わって丁度いいタイミングでターゲットが会社の建物から出てきた。
私物を総務からもらった段ボール箱に詰め始めたところでもうそろそろかと思ったんだけど、同じ部署の人にお別れとかを言って回っているから遅くなって、ちょっとヒヤヒヤしたがやっと出てきた。
何やら業務用のノートっぽいのを引き継ぎの資料として渡していたが、あれで引き継ぎが十分なのかね?
突然居なくなったら仕事に穴ができて周囲に迷惑が掛かりそうなもんだけど。
まあ、ライバル社の研究者に情報漏洩している人間を引き継ぎのために社内に残したりしたら、引き継ぎついでに社内ネットワークの情報を根こそぎ持っていかれるか、もしくは危険なウィルスでも仕込まれかねないからね。
リスク管理的には引き継ぎにどれだけ穴が開こうと、即日解雇が正しそうだ。
「あの、」
ちょっとフラフラとしながらゆっくり歩いている荏原莉里に向かって、碧が斜め前の微妙に進路を防ぐような場所から声を掛ける。
考えてみたら両手に荷物を持っている人に道を聞くのっておかしいけどね。
荷物を持っている人間に後ろからぶつかるのも無いかな。
箱を避けて追い越そうとしてうっかりぶつかる感じが一番自然かな?
「あ、すいません!」
碧に声を掛けられて足を止めた彼女の横をすり抜けようとして箱にぶつかる感じでちょっと荏原莉里を碧の方に押したら、いい感じに碧が彼女を支える感じに手を触れた。
ふっと足の力が抜けてふらついた彼女の手から段ボール箱が落ちる前に私がキャッチして、その間に碧がすぐ側にあったベンチへ彼女を誘導した。
貧血になった人に良くやるようにちょっと座って頭を下げさせて、道を歩く人から顔の表情が見えないようにしておく。
「大丈夫ですか?
急に暑くなってきたから、最近は水分補給とかしっかりしないと危険ですよね〜」
碧が声を掛けながら荏原莉里の背中を摩る。
私もベンチの横に座り込み、そっと肩に手を置いた。
急いで記憶を読み取る。
どうやら魅了の力はほぼ無意識に使っているだけみたいだ。『目に力を込める感じでお願いしたら、男性が言う事を聞いてくれやすい』程度の認識しかない。
つうか、その程度の魅了に引っ掛かるって男性誌君、可愛い女性に対して弱過ぎるぞ!
会社の企業秘密情報を取り出して他社の人間に渡すことが悪いと言う認識も殆ど無かったっぽい。
最近だったら新聞とかでも情報漏洩で起訴されている人の記事なんかも見かけるのに、読んでないの??
更に受け取る相手の方に関しても記憶を辿る。
もしかしてこっちが悪女を良いように転がす凄腕なジゴロもどきなのかと思ったのだが。
記憶にあるのはボサボサ頭でシャツも皺だらけな朴念仁だった。荏原莉里が裏切っていた職場の研究者と似たり寄ったりじゃん。彼氏には尽くし、同僚は裏切る心境が分からない。
それはさておき。
彼氏の方はどうも浮世離れした研究バカらしく、他社の情報を善意で提供してもらっていると思っているっぽい?
比較対象が欲しいから貰えないかな〜と荏原莉里に軽くダメ元で聞いてみたら、彼女が職場で『お願い』して情報をゲットしていたらしい。
母の職場の研究開発の足を引っ張っていたのは、彼氏に一番に開発に成功させて花を持たせたいと言う余計な親切心(?)だったようだ。
マジか。
二人とも、情報漏洩とか、企業秘密とかに関する考えが甘過ぎる!
しかも荏原莉里が彼氏に惚れた理由が、彼女のことを可愛いと言わなかったからなようだ。なんか屈折してるね。
まあ、そこそこ発現に近い状態の黒魔術の適性があったから相対している男の下心とかがいつも感じ取れて、嫌な思いをする事が多かったんだろうけど。
近所のスーパーで値引き販売していたお惣菜の取り合いから親しくなった仲なんて、あまりにもロマンス成分が無さ過ぎるぞ。
それでも一応荏原莉里的には自分が男の彼女な自覚はあるらしく、そろそろライバル社の職場の女たちが彼氏の良さに気付くかもとヤキモキしていたようだから、この際もうそっちに転職したらどうかね?
ライバル社からの人間を直ぐに雇って貰えるかどうか、不明だが。
取り敢えず。
能力を封じても大して自覚出来るような影響は無さげだし、思っていたほどの悪女でも無いみたいだから、これで終わりでいいかな?
他者へ働きかけられる黒魔術の適性をしっかり封じ、私と碧の記憶をあやふやなものに薄め、ついでに次は同じ会社じゃなくても取り敢えず彼氏のそばで働いたら?と言う考えをそっと脳裏に入れて、私はベンチから立ち上がった。
「ではお大事に〜」
軽く声をかけ、碧に合図をしながらベンチから離れる。
「どうだった?」
家に帰るまで適当な話題を振っていた碧が、玄関の扉が閉まった途端に尋ねてきた。
「『目に力を込めてお願いすると皆助けてくれる』程度の自覚しか無かったから、封じるだけで今後も特に問題はなさそう?
本人も、情報をもらっていた彼氏も、情報管理に関して考えが甘過ぎるね〜。でも悪意はさほど無かったみたい」
まあ、今後は今までほど何でもかんでも楽には思う通りにいかないだろうけど、可愛い顔があるのだ。
にっこり笑いかければ、これからもそれなりに男性からは優先的な対処をして貰えるでしょう。
これでこの話は終わりにします。
明日はお休みしますが、また明後日から宜しく!