方言で歴史がわかる? 方言って面白いですよ!
方言には地域の歴史や文化が詰まっています。方言について考えてみませんか?
青森県の野辺地町と平内町の境に馬門と狩場沢という集落があります。陸奥湾に面し、国道4号線で結ばれた2つの集落の間はほぼ平坦で、障害らしい障害はありません。
ところが、2つの集落では使っている言葉が全く違うのです。これは単語、イントネーションなど相当広い範囲に及びます。なぜこのようなことが起こったのかというと、実はこの2つの集落は江戸時代に南部藩と津軽藩の境になっていたのです。
南部藩と津軽藩は大変仲が悪かったことで知られており、今でも青森県にはその影響があります(そもそも青森市が県庁所在地になったのもこの対立の影響があるらしいです)。
その対立の原因ですが、もともと津軽氏は南部氏の家臣でした。南部氏の内乱に乗じて独立したのですが、独立する過程で、当時の南部家当主の実父を攻殺しています。そして、南部家が混乱しているのをよいことに、いち早く豊臣秀吉に接近し、本領安堵の許可をもらってしまいました。天下人の言うことには逆らえませんから、南部側は謀反を起こした親の敵なのに指を咥えてみているしかありませんでした。
南部家の怒りはいかばかりか……。
戊辰戦争に関しても、南部藩が奥羽列藩同盟に加盟したのに対し、津軽藩は奥羽の藩でありながら官軍側につくなど、江戸の最後まで対立はおさまることがありませんでした。
そんなこんなで、江戸時代、両藩はお互いを最大の仮想敵として、藩境での交流を厳しく取り締まっていました。その結果、250年の長きにわたって断絶が続き、目と鼻の先にある2つの集落で全く話が通じないという事態に陥ってしまったのです。
自然の境界が方言を隔てているケースもあります。
たとえば、茨城弁や栃木弁で有名な無アクセント方言ですが、不思議なことに千葉県では全く話されていません。
今は共通語が普通に話されていますので、気にならないことも増えましたが、私が若い頃は、あやめ祭を回るため、隣接する千葉県の佐原市と茨城県の潮来町(両者とも当時)を訪れたとき、全くイントネーションが違ってびっくりしたものです。
これは、2つの街の間を利根川(江戸中期以前は香取海)が隔てていたためで、これが移動の障害となって方言に違いが現れたようです。
この話を巡って、知人のI氏とこんな話になりました。
私 「茨城に行くとさ、いきなりイントネーション変わるから驚くよね。」
I氏「いやいやいや、うちの町なんて、町の中で方言違ってたから!」
私 「え?Iさんどこの人?」
I氏「茨城の東(※現稲敷市)。」
私 「え、Iさん茨城なの? 茨城なのにイントネーション普通じゃん! 東村って茨城なのに、茨城弁じゃないの?」
I氏「村じゃなくて、町な! 東町。いや、うちの町、南側と北側でイントネーションが違うんだよ。俺は南の出だから、イントネーション変わんないけど、北側はきちんと茨城弁だったよ。俺は中学に行ったときびっくりしたけど、もう慣れたかな。」
私 「東村なのに、茨城弁に直さないんスか?」
I氏「何が悲しゅうてそんなことせにゃならんのよ! だいたい中学生にもなったら、意識しなきゃ変えられないって! あと、村じゃなくて、町な!町。」
その後、調べてみるとI氏の出身地は明治32年まで千葉県だったことがわかりました。
当時千葉県は貧乏で、利根川の両岸の堤防を作る費用をまかなえず、治水工事の費用を茨城県に負担させるため、北岸部分のいくつかの村を茨城県に編入させたらしいです。
そして、その後、昭和の大合併で、もともと茨城県に所属していた別の村と合併したため、同じ町内でありながら、旧下総国・千葉県エリアと旧常陸国・茨城県エリアでイントネーションが違うという事態に至ったようなのです。
これは、県境は変わったけれども元々の歴史上のつながりが生きている面白い例です。
柳田國男先生の蝸牛考に代表される『方言周圏論』なども有名です。
これは、カタツムリを表す言葉が 近畿地方=デデムシ 中部・中国地方=マイマイ 関東・四国地方=カタツムリ 東北・九州地方=ツブリ 東北北部・九州南部地方=ナメクジ となっていることから、方言が中心地から同心円状に伝播していくのではないかと考察したものです。
こんな風に自分の地域で使われている方言が、遠く離れた別の地域で使われていることだってあるかもしれません。もし機会がありましたら、知っている方言について考えてみてはいかがでしょうか。
※都市部だからと言って方言がないとは限りません。例えば語尾につける「じゃん」は、横浜の方言だという説がありますし、江戸っ子が「ひ」と「し」の区別がつかないのも方言です。あなたが共通語だと思って使っている言葉。実は方言かもしれませんよ。