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デュアル!  作者: 速水詩穂
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1、洗礼

ショートラリー:コート外枠とネットの中間に引かれたライン内でやり取りする打ち合い。

ボールとの距離感、力の入れ具合を確認するため、アップをかねてするもの。


グリップ:①ラケットの柄の部分。右利き左利きでテープの巻き方が異なる。

②ラケットを振る時の握り方。人によってインパクト時の面の向きが異なり、下を向いている程スピンがかかる。正面を向いている程まっすぐ飛ぶ。


ガット:ラケットの面を構成するあみあみの部分で、ストリングの一種。

日本ではガットという呼び方が定着しているため、ガットで話を進める。


ストローク:身体の横からラケットを振り出す打ち方で、基本下から上にスイングする。


ラリー:乱打。ボールを打ち合うこと全般だが、基本的にストロークを指す。ボレーを挟む場合はボレーストロークというメニューが別にあり、ショートボールに対して前に出てボレーに切り替えるはアリ。


ベースライン:コートを形成する外枠で、ネットと並行に引かれたライン。

サービスライン:ベースラインとネットの間に並行に引かれたライン。


トップスピン:縦回転を加えられたボール。山なりにゆっくり進むが、バウンドと同時に急加速する。打球感が重い。






 人には共感能力が備わっている。嫌な言い方をすれば「同調圧力」。そうしてその発展形、自分だったらどうかという立場置換の能力も備わっている。備わっているというか、備える。備わる。成長に伴い己の活かし方を取得する、能力の一つ。だから映画を見て、ドキュメンタリーを見て泣いたり笑ったりする。

 それは、オバマ大統領がこの国を含むアジア四カ国を回る初日に当たる。細い道を抜けてまぶしいライトの下に戻ってくると、何ら特別ではない自然の香りに洗われるかのような心地がした。大通りを一本入ったこの場所は、クレイのテニスコート四面を金網で囲い、周りを常緑樹で覆うことで完全に喧噪から隔離されている。

 パァン。トッ、パァン。

 並んだコート。右側二面は貸し出し用で、左側二面はスクール用だという。マンツーマンで教えてくれるというコーチは、全身良い具合に焼けた、ガタイの良い男性だった。

 これは勝手なイメージだが、テニスプレイヤーは、どちらかというと細身の人間が多い。柔道やラグビーのように物理的な接触はなく、どちらかというとコートをカバーするだけの脚力が必要だからだ。

「初めまして。君が土戸秋良くん?」

 しかしそんなイメージを大きく覆すコーチは、続けて「だいぶ久しぶりみたいだね。そのラケット何年もの?」と聞くと、取り出したラケットを化石でも見るかのような目つきで凝視した。笑い混じりの中にも見える敬意は、まるで歴代戦隊ものヒーローに相対したかのよう。その目だけでこの人がどれだけテニスを好きなのかが分かる。

 隣のコートでは、六人の男女がショートラリーをしていた。

 人に備わった共感能力。立場置換の能力。その発露の仕方によって、愛情ははかれるものなのかもしれない。タクシーで連れて来られた時、こうして現在進行形でボールの弾む音を聞いている今、自分を占めるのはただ一つ「自分ならもっと上手く打てる」という思いだった。

 グリップを巻き直したラケット。ラケットにも寿命があるというが、それでも目的はテニスをすることであり、何より全盛期をともにした相棒はまだいけると信じていた。


 風がなく、涼しい。運動するには丁度いいくらいの気温。

 軽く打ち出されたボール。五年以上張り替えていないままのガットがつかむ感触。それは「固い」「やわらかい」以上に、圧倒的な何かを伝えた。

〈……ただ、一度でもテニスにはまったことのある人は〉

 全細胞が覚醒する。全神経が伝達する。圧倒的な、それは快感。

 手を伝って、腕から肩へ。背中から腰へ。大腿から足先へ。首から頭へ。

 ガットがボールをとらえる感覚。それを全身が共有しようとする。奪い取るかのように我先にと手を伸ばす。手も足も頭も同様。この間一秒にも満たない。

 気づいてしまう。叩き起こされた、引きずり出されたは、とてつもない魔物。

〈大変だと思いますか?〉

 逆だ。よくテニスなしでいられた。学生の頃、その日の出来で機嫌が変わるほど影響されていた競技だというのに。あの頃は若かったからと、ただ遠巻きに懐かしんでいた自分は、間違いなく同じ生命体で、そう簡単に変われるはずがないのに。

 思い通り飛ばないボール。それでもガットがボールを捉える、その音を間近で聞けるだけで、享受した脳みそがとろけるようだった。

「じゃあある程度打てるみたいだから、ラリーをしよう」

 そう言ってコーチはベースラインまで下がると、軽いタッチで浮き球を出した。それはサービスライン上で弾む。


 トッ。


 引いたラケットを振り出す。そのタイミングが、

「……ッ!」

 合わない。ゆるやかな弧を描いて落ちる球。バウンド後急加速するこれはトップスピン。思わずネットの向こうを見やる。

 何がラリーをしよう、だ。

 続け様に打ち出される次の一球。ふんわり高い軌道を辿るボールは、再びサービスライン付近に落ちる。

 待て。ここじゃ近い。早い。振り遅れる。

 頭で分かっていても、身体が上手く反応できない。これは純粋に筋力の問題。振り遅れたラケットがはじく。目一杯縦回転を含んだボールは、面を押し上げる。回転に対抗するだけの力が必要になる。

 ふと学生の頃、よく走ったことを思い出す。脚力。地に足をつけて、踏ん張り、身体の回転で打つ。あるいは踏み込んで、前後運動で打つ。押されないだけの腕力、ラケットを振り抜く正しい角度。面の中心でとらえるための距離感覚。そのどれもが足りない。再び打ち出されるボール。ベースラインからもう一歩下がってインパクトする。

 何がラリーをしよう、だ。純粋に実力を知りたいならそう言えよ。

 何とか返ったボールを見て、コーチは「じゃあ二十本続けよう」と言った。

「続いたら終わりね。いくよー」


 全身がざわつく。

 待て。今二十って言ったか? 今のボールを十回も返すのか?

 半円の弾道。ふっくら理想的な曲線は、仮にベースラインを着弾点にすれば、確実にこの倍以上の大きさにまで膨れ上がる。

 トッ、パァン。

 肩というか、歯にまで響く打球感。

 重すぎる。とてもじゃない。これを

「はい、にー」

「……ッ、ウ」

 思わず情けない声が漏れた。カウントがおかしい。今二って言ったか? ってことは二十本続いたらじゃなくて、俺が二十本打ち返せたらってことか?

 バウンド。動揺に振り遅れる。はじかれたボールは、コートを囲う金網に当たって乾いた音を立てた。

「はい、いーち」

 待ってくれ。今二本打っただけでもう肩と膝が不穏な感じになってるんだよ。五年ご無沙汰で、いきなりAV男優相手なんて、自分でも止めに入る。いや、慣れてるからこそ、そこは合わせてくれるのか? でも、

「はい、いーち」

 息が上がる。

 このコーチは合わせる気なんて無い。片胸をつかんだと思ったら、ムリヤリ突っ込んでガンガン突いてきやがる鬼畜生だ。しかも長い。被害妄想が行き過ぎて、自分自身散々ケツをもて遊ばれているように錯覚する。屈辱で奥歯が鳴った。

 好きでやるのと、やらされるのは違う。

 ついさっき全細胞全神経が目覚めて、感度抜群の状態で、いきなりこの仕打ちはないだろう。テニスはこんな鬼の遊びじゃない。そんなことよりも、何より、自分、

 体力なさすぎだろう。ただ返すだけ。半径一メートル程度しか動かされない球出しに、息が上がる。分かっていて動けない。正確な打点で打ち返せない。走りたいのに走れない。腹の底から沸き上がる思い。


 情けない。


 気持ちだけが先行して、まるで見合わない。

 いいから、動けよ、足。明日のこととかどうでもいいから。バウンドしただろう。お前の番だ。いいから走れよ。


「はーい、じゃあ今日はここまでー」

 その後何度か失敗をくり返しながらも、何とか二十、クリアすると、比喩でも何でもなく膝から崩れ落ちた。コート内とか構っていられなかった。全身が悲鳴を上げていた。ただ、肝心の喉だけは酸素を取り込むのに必死で、吸って吸ってをくり返すばかりだ。

「お疲れ様。五年ぶりにしては上出来だね」

 息一つ乱していない強姦魔は、至極楽しそうな調子でそう言うと、持っているラケットで肩を叩いた。すっきり満足なんてしていない。この男はまだ実力の半分も出していない。その差が堪えた。

「どう? 続けられそう?」

 ヒュッと喉が鳴った。

 この状態を見て二回戦とか、この人訴えられたりしないのだろうか。本物の鬼は笑顔を崩さない。

「違うよ。次回も来る? ってことだよ」

 時計を見る。いつの間にか体験時間の一時間が経とうとしていた。それと同時に安堵する心。ようやくまともに呼吸ができるようになる。取り込んだ酸素が巡って、頭が冷静さを取り戻す。

 次。

 確かにテニス自体は好きだ。でも二十四になってこんな動き方したら、絶対次の日響くし、もっと俺は楽しく……

「目は、口ほどにものを言うんだよ」

 顔を上げる。にこやかな表情はそのまま、まなざしだけが温度を変える。

「見てたでしょ? 隣のコート。下手だなって思った? 自分の方が上手いって思った?」

 息を呑む。沸騰する身体。その背中を冷たい汗が伝った。

「確かに上手くはないかもしれない。君みたいに学生からやってる人ばかりじゃないんだ。でも彼らは一時間半、走りきるよ」

 体験は一時間。正規のクラスは一時間半が規定の時間だった。

「もしまたやりたくなったらおいで。この体験クラスはクラス入構審査も兼ねてるから、ここでどのクラスに入ってもらうかも決めてるんだよ。君は、そうだなぁ」

 初級かなぁ、と言うと、ラケットを左手に持ち替えて、再び肩を叩く。息も絶え絶えだった身体が吹き返す。反応したのはただ純粋な嫉妬心。

「自分ならもっと上手く打てる」確かにそう思った。いいか、自分は。

 自分の方がもっと上手く愛せると思ったんだよ。他の誰よりも。

 触るな。入るな。ここは聖域だ。

 虚栄。自分を全く客観視できない訳じゃない。それでも駄々をこねる思いは、つまる所形を変えたただの愛情。この競技に対して噴き出した思いだった。

 来週も来る旨を伝える。

 コーチが白い歯を見せて笑う。

〈日曜が終わるとね、終わった直後なのにもう次の日曜のことを考えてる〉

 あの運転手の笑いジワを思い出す。その考えもまた、あながち間違ってはいない。











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