プロローグ
クレイコート:土のコート。日本では粘土質の地面に間砂土を敷いたものが一般的。天候の影響を受けやすく、メンテナンス状況によってはイレギュラーバウンドを量産しがち。基本球足が遅く、長期戦になりがち。
ヨネックス:テニスの他、バドミントン、卓球、ゴルフなどの商品を取り扱う日本のメーカー。
表示をよく見ないと、バドミントン用のグリップや卓球のウェアを購入してしまうことがあるため、注意が必要。
バックハンド:返球技術の一種。利き手と逆側に来たボールに対して使用する。
片手打ちと両手打ちがある。
世界がキラキラして見えたのはいつまでだっただろう。
舞い散る桜も、芽吹く緑も、揺れるすすきも、冴えわたる月も、いつの間にか視界から消え去っていた。いや、消え去っていた、というのは語弊がある。実際の所、それら全ては変わらず存在する。視界から消したのは、だから自分の方だ。
世界は、色を無くして久しい。
走り去るテールランプ。上司を乗せた車が左折するのを音で確認してから頭を上げると、膝から崩れ落ちそうになった。
仕事で大きなミスをやらかした後のことだった。間違った翻訳が、そのまま三百部のポスターに使用されてしまった。出来上がりを見て気づいた時、全身の感覚が無くなるのを感じた。
まだ肌寒さを感じる 四月半ばの夜。頭上から降りしきる桜の花びら。例えばしゃがみ込む時、この小石を敷き詰めたような壁と肩がすれることで発火して、この花びらにそっと触れたなら。全部燃やしてしまえば、あるいはこの地獄から抜け出せるのだろうか。
鉛のような身体を引きずるようにして、それでも何とか大通りまで出ると、スマホを取り出す。結局こすれた程度で発火なんてするはずもなく、単にジャケットの肩が汚れて傷ついただけだった。
タクシーに乗り込んで行き先を告げると、訳の分からない所から笑い声が漏れた。
迷惑をかけているのは自分だ。迷惑かけられた側ならまだしも、加害者が被害者ぶるなんて、とんと都合のいい脳みそしてる。分かってる。でもそうとでも思わなきゃ、今自分の足で立っていることさえできない。
山場の一つは越えたのだ。失態に気づいてからの三時間を考えたら、今自分がいる所なんて、青とまでは言わなくてもレッドゾーンではない。次の瞬間殺されるような可能性がないだけマシじゃないか。そう自分に言い聞かせる。
流れる外の景色。
いや、殺された方がマシなのか。無抵抗な状態で誰かの「ムシャクシャしたからやった。誰でも良かった」に巻き込まれれば、不幸な被害者として少しは惜しまれる存在になれるのか。それならば「巻き込まれれば」ではなく「巻き込んでいただければ」何だソレ。何だ「巻き込んでいただければ」って。浮き彫りになるのは他力に依った生き物。もはや大人とも言いがたい。
負の無限ループ。ぼうっとしていると、本来右折するはずの大通りを突っ切るのが見えた。重たい身体をわずかに起こして声をかける。今時珍しくナビのない車。目の前でハンドルを握る男は「いえ、こちらが最短ルートです」と言うと、次の大通りも直進した。
訳が分からない。降ろしてもらおうと、声をかけようとしたその時だった。
くぐもった音が聞こえた。
パァン、トッ、パァン。
イレギュラー。日常で久しく耳にすることのなかった音。
「お兄さん、テニスする人でしょう?」
対向車がすれ違えない狭さの道を抜けた先、視界はまぶしい。目を突くライト。
広がる緑。四面並んだ灰色のクレイコート。規則的に届く、くぐもった音。その正体は、コート上を弾んで行き来するボール。
パァン。トッ、パァン。
停車。エンジンの音がなくなり、その音だけが入ってくる。
パァン。トッ、パァン。
鼓動を刻む。まぶしい緑。コントラストで浮かび上がる運転手の帽子。
「好きなものってのはにじむんですよねぇ。その靴下、ヨネックスでしょう。お召し物とまるで合ってない」
上だけ羽織ったジャケット。靴下自体、別に好んではいていた訳じゃない。それでも別のものを選ぶ気にはならなかった。ふと昨日見かけたツイートを思い出す。無意識下の前提、人はそれを習慣と呼ぶらしい。
黙っていると運転手は続けた。
「実は僕も好きでしてねぇ。何度助けられたか分からない。辛い時、この音を聞くだけで救われました。心が在るべき場所に落ち着くんですよ。ただただ気持ちが上を向く」
パァン。トッ、パァン。
「言っても健康維持目的のウィークエンドプレイヤーですけどね。年を取るとどうしても気になるもので」
話す口調は変わらない。変わらない落ち着いたトーンであるにも関わらず、ボールのバウンドに合わせて、どこか弾むようにも聞こえる。あるいはそれは聞く側の問題でもあるのかもしれない。自分はと言うと、手元だけ黒ずんだラケットをバッグに入れたまま眠らせてある。
「そうですか。……ここはこうしてコートを貸し出す他、スクールも開講しています。興味があれば入るといい」
「興味」と釣り合うのは「見てみる」「試してみる」だろう。間違ってもいきなり入会とは結びつけない。ここと提携しているのか? と生まれた不信感に、すかさず男は続けた。
「いえ、今日は僕がこの音を聞きたかっただけです。……ただ『一度でもテニスにはまったことのある人は、この音を聞いてテニスをせずにはいられない』というのが持論でしてね」
もう一度、ラケットをとってみては? と言うと、再びエンジンをかける。バック。まぶしいコートが遠ざかる。今の今までいた光から遠ざかる、あの音から遠ざかる。
貴重な休みに、とつぶやくと、聞こえたようだ。返事があった。
「……全く疲れない、というとウソになるかも知れません。まだ小学生の息子と娘がいましてね、妻には『自由でいいわね』なんてあきれられています。代わりに土曜は洗濯、洗い物、食事の支度全部やります」
うわぁ、と思った。絶対嫌だそんな生活。そもそも結婚なんてするもんじゃない。ただ息をするだけでも苦行になりそうな未知の他人と、意思疎通の叶わない幼児との共同生活なんて、罰ゲーム以外の何ものでもない。
そもそも女性の社会進出なんて、害でしかない。働き手が足りないって大義名分はあったとして、仕事を理由にロクに料理もせず、掃除洗濯も手つかずの荒れた家に帰った所で、かえって疲れがたまる位だ。だったら一人分の処理をした方が、把握出来ている方がずっとラクに違いない。そこにきてキャンキャンわめかれた日にはもう、はっ倒してしまうかもしれない。しかしそんな男を選ぶ女がいないのもまた事実なのだから、この平行線は未来永劫交わることはないのだろう。
そんな現実を、何故だか男は幸せそうに話した。
「大変だと思いますか?」
光るテールランプ。バックを続ける車。進んだ分だけ遠のく光。狭い道は両脇すれすれ。やっとのことで広い通りに出ると、左のウインカーが点滅した。
「……僕はね、大変だとは思わない。日曜が終わるとね、終わった直後なのにもう次の日曜のことを考えてる。たった一時間半のために『あと何日』という風にカウントを始めるんです」
その、子供のように無邪気な口調。その後「おっと失礼、つい気持ちが緩んでしまいました」と続けたのは、間違いなく五十オーバーのおじさんだった。まくった袖、非利き手であるにも関わらず、その手首から肘にかけて入った筋。
「ええ。去年右の手首を痛めましてね、この機会にバックハンドは両手打ちにかえました。が、未だに安定しません。やっぱり長年の感覚というのは染みついたらなかなかとれないものですね」
自分で言って自分で笑うと、優先道路を突っ切る。思ったよりもずっと早く家に着いた。その後、代金分払ったにも関わらず返された五百円玉に顔を上げると、その人は眉を下げて言った。
「……遠回りしてしまった分です。どうにもまだここの地理になじまないもので、何度通っても間違えてしまう。貴重なお時間を頂戴しました」
脱帽して低頭したその頭髪は、ツヤのあるロマンスグレー。白々しい申し出は、けれども意味のあるものだった。
「これは完全な余談ですけど、あそこのスクール、体験が可能です。コーチがつく分料金は発生しますが、」
かぶり直した帽子。その手首に浮いた血管は太く、左以上に肘下の筋肉の輪郭がはっきりしていた。
「一回五百円。安いものでしょう。是非一度行ってみて下さい」
目尻にできる笑いジワ。裏でキックバックもらってる可能性を感じながらも、思い出したのは、自分で言って自分で笑うその姿だった。走り去るタクシー。そのテールランプを見ながら、さっき聞いた音を思い出す。
パァン。トッ、パァン。
心地良いリズム。飽きることなくくり返されるやりとり。
〈……ただ、一度でもテニスにはまったことのある人は、この音を聞いて〉
上手いことハメられた感はある。けれども。
その持論はあながち間違っていないとも思う。