36、展望②
一通り球出しが終わり、ボール拾いの合間、近くまで来たコーチが「結局お前らだけになっちまったな」と言った。確かに、今はまだ同じ場所だから物足りなく、寂しく感じてしまうけれど、時が経てばまた同じように楽しめるようになる気がした。何しろこの競技のためにここに来てる。練習メニューがラリーに変わった。
パァン、トッ、パァン。
夢中になって打ち返していると、聞こえるはずのない音が聞こえた気がした。それは金属の擦れ合う音。それはその人が動く時のみ、発する音。
シャリ。
打っている最中だ。入り口を背にしたボクには見えない。渇望するあまり聞こえるは幻聴。五十嵐さんの打球は、もう白くなって返っては来ない。
シャリ。
時計を見る。ちょうど19時になる頃だった。開始から30分。30分、いつも遅れて現れた。次の瞬間、
ボールが訳の分からない音を立てて吹っ飛んだ。
「何デ……」
何らいつもと変わらない緩慢な足取りで現れた彼女は、バッグを置くと二の腕を伸ばした。すぐ様「鈴汝早く入れー」という声が聞こえてくる。もちろん彼女が自分のペースを崩すことはない。きちんと準備運動を済ませてからラインの内側に足を踏み入れる。
「……何幽霊でも見たような顔してんのよ」
「イヤイヤイヤイヤ、何で、エッ、東京……」
動揺のあまり、2020年のオリンピック開催地を発表したジャック、ロゲ会長と同じ口調で「トーキョー」と言ってしまう。クラス内の一人がこっちを見た。
「鈴汝さん、東京……」
「私は首都じゃないわ」
ボクだって知ってる。それは終わらないラリーが始まりもしない場所。
未だ状況飲み込めずにいるボクに、彼女は手短に言った。
「自分の幸せぐらい自分で決めるわ」
そして飛んできたボールを打ち返す。両手打ちのストローク。その変わらず美しいフォーム。
ふいに思い出す。
〈結局お前らだけになっちまったな〉
五十嵐さんが言うのは分かる。杉田さんもボクも比較的近しい関係だから。でも。
〈結局お前らだけになっちまったな〉
コーチはたぶん、杉田さんのことを「お前」とは呼ばない。元いたイカツイ野郎三人に関しては、個別に呼び分ける気がした。だからコーチの言う「お前ら」がボクと鈴汝さんのことだとしたら納得がいく。だとすればさっき五十嵐さんが「初瀬の居場所は俺が知ってる」と言ったのは「杉田さんはここにはもう来ないけど」という意味なのだろう。そう合点した途端、
「……ッ!」
全身の細胞が潤うのを感じた。神様仏様、そうでなくても叶えてくれた何かに心から感謝する。この人がいる。ただそれだけでゼロがイチになる。
「鈴汝さんッ……!」
「何なのさっきの。全然打点合ってないじゃない。ボールに合わせてんじゃないわよ。崩れるわよ」
どこまでも平常運転。まるで変わらない鋭い指摘は、今日に限っていっそ気持ちよさを覚えかねない。「ハイ」と答えると「キモ」と返された。これがクセになってしまったら、人として本当にヤバいと思う。
見ているものは変わらない。それなのに目に映るすべてがまぶしい。彼女がいる。それだけで、こんなにも麗しい。
これからどうしよう。
それは目の前の一球ではなく、ゲーム全体を想定するような。叶うなら、互いの都合の良い時間帯、別のクラスに顔出してみるのもいい。それこそ寺岡さんや小出さんのいるクラスでも、どこでも一緒に。
一緒に。
内側からふっくらする。うれしくて、いつもより大きく振れる気がする。たまらず苦笑いする五十嵐さんが、ラケットの向こうに見えた。
「俺は知ってたぜ?」
メンバーが変わって、ラリーに飢えた輩衆から解放されると、きちんとした休憩が設けられるようになった。その合間、五十嵐さんが見せたのは一枚の写真。指先で拡大縮小を繰り返し、画面を占める割合を調整すると「これ」と言う。
「お前、何に見える?」
鈴汝さんはうれしそうに近寄ってくるコーチを上手にあしらっている。赤妻姉妹がいなくなった今、娘恋しいのかもしれない。
五十嵐さんが見せてきたのは、あの日、無茶振りとも思えた「ここを狙って」の印。勢いの良いマルと、バツと、それを区切る縦線。
「違う。よく見ろ」
〈よく見て〉
あの時、彼女もまたそう言った。
勢いのあるマル。まず最初に違和感を覚えたのはその飛び出た尻尾。いくら次のバツに続くとはいえ、これではまるでアルファベットの、小文字のaのような。
ドクン、と身体の奥が鳴った。
〈よく見て〉
これは、マルとバツじゃない。区切られてもいない。
それは、メッセージだった。
x.I.a.x.I.a.x.I.
〈……お前、来期来いよ〉
「気づいたか?」
喉が鳴った。それは本来ボクにしか分からないメッセージ。
「……悪いな。前も言ったが、俺も多少は分かっちまうんだ。大方そろそろ現れる男には知らせたくなかったんだろう」
その場には描かれない続きが自分の中で補完される。
xiaxiaxing〈再来週〉
五十嵐さんは再びラケットを持ちながら言った。
「よかったな、終わりじゃなくて」
打ちっぱなしのサーブ、軽めのボレーストロークを終えるとゲームに移る。
コーチはじゃんけんでペア決めをすると言っておきながら、ボク達二人を顎で押しやった。
〈お前らいいから先コート入ってろ〉
ボクはネットを越えると、肩を回す彼女に声をかける。
「久しぶりノ試合ね」
「パフォーマンス落ちてたら後頭部狙うから、気を引き締めてね」
「オウ……ボクは三人と戦うってコトね」
好きなことだけに忠実な彼女の意にそぐう答えだったのだろう。珍しく頬を緩ませると「そうね。一対一対一対一よ。向いてる方向が違うだけで」と言って、相手ペアにラケットをかざした。
「ウィッチ」
間違ってはいない。間違ってはいないのだろうけど、
〈自分の幸せぐらい自分で決めるわ〉
いい女か? とも思う。ここまでくればもう好きにすればいい。
ここにいる。それだけで幸せなのだから。せめて初心だけは忘れずにいよう。
「ラフだって。サーブからでいい? ひじ」
振り返る。一瞬、時が止まった。
〈確かにアレがお前の言う〉
その口角が上がる。
「ひ……肘、痛めてないわよね。打ち過ぎると急に来たりするから。怖いのよ、テニス肘。何もないならサーブから行きましょう」
一人で勝手に納得すると、そのままベースラインに向かう。
彼女がいる幸せ。
神様仏様、そうでなくても叶えてくれた何かは、とても耳が良いようだ。
あの時ボクは、確かに願った。他に何も望まない。どうあってもここにいてくれるなら、それだけでいいから、と。
ボクにとっての彼女。思えば不思議な関係性。それは「結婚したいとは思わないけど、懇意にする相手がいると何となく面白くない」感情であり、同時にボクの中で「彼女にとって大きいかも分からない一面」の占める割合が異常値を叩き出している事実に基づく。
だからボク自身「それ以上」は望まない。けれど「それ」は、規定の枠組み内での最高値は望む。何しろ出会ったことのない、特別でかけがえのない存在なのだから。
「鈴汝サン」
振り返る。その頬は固い。
「ダブルフォルトだけはしないデね」
心躍る。
これからどうしよう。
ボク達はまだ始まったばかりだ。
【この作品は「halflovers」「先生あのね」に続く、全4部作中の3部に当たります】