35、展望①
道中、こんなに向かう足が重いのは初めてだった。
習慣、ルーティン、義務。自分の輪郭を形作るもの。日常にテニスがあること。それは、その時間だけじゃない。普段のテンション、心のあり方にも深く関わっていたのだと気づく。
その人を構成するのが一つじゃない以上、いくつもの要素が同じ一個体の中で影響し合って行動を決める。一つの物事に相対した時の判断力、瞬発力。「その瞬間瞬間のアドリブを求められる」この競技は、「枠組みの中、言い訳のきかない」この競技は、だから日常にも確実に活きていた。
休日に自ら抱え込むストレス。判断力、瞬発力に加えて、使うは体力、技術を定着させるがための、繰り返すPDCAがための、結局は体力。
始めはただテニスがしたかった。戦利品として得られるのが打球感、ただそれだけだったとしても。けれど今はそれだけじゃない。定期的に張り替えるようになったガット。まだ傷の浅いラケットは、次に得るものを待っている。
今はただテニスができればいいんじゃない。命のやり取りをするかのような緊張感の中で、昨日できなかったことができるようになりたい。昨日できたことが同じようにできるか、定着しているか知りたい。そうしてその場限りではなく、その向こうを見渡すような、目の前の一球ではなく、ゲーム全体を想定するような、そんな途方もないやりとりがしたかった。のに。
道中、こんなにも向かう足が重いのは初めてだった。
寺岡さんと小出さんは別のクラスに、赤妻姉妹は進学による退会、そして鈴汝さんも。
重たい身体を引きずるようにして、それでも向かう足が止まらないのは、惚れた弱み。結局どうあってもここを離れられない。それは明るい色をした絶望だった。いるはずの人がいない。たった二人休んだ時でさえ、あれだけ空気が変わったのだ。その変化は想像に難くない。
フロントを抜けて、相変わらず自然の明度を無視したコートに向かうと、金網の入り口を塞ぐように人影が見えた。近づく。強い光が浮かび上がらせたのは、見覚えのあるシルエット。
五十嵐さんは逆光でも分かるくらい表情を緩めると「来たな」と言った。
「よく分かったな。確かにアレがお前の言う、鈴汝の恋人『ひじきくん』。隣にいたのいとこなんだけど、これは偶然の再会。驚いた。鮫くんめっちゃ髪伸びてんだもん」
次々繰り出される情報の中、まず耳がとらえたのは珍しい呼び名。この世には随分ミネラル豊富な人間が存在するようだ。
鮫くんという名のいとこ。電車で四つも駅が離れた場所に住んでいれば、同い年でもなかなか会う機会はなかったのだろう。ただ、会えば決まってトランプの大富豪をするらしく、仲はいいようだった。
「お前、言霊って知ってるか?」
突然聞かれて戸惑う。
「コトダマ?」
「ああ」
五十嵐さんは片足に重心を乗せると、腕組みをした。
「日本には言霊っていうのがあって、古代の日本人は『言葉に宿る霊力が、言語表現した内容を実現する』と信じていた。祈りとか呪いもその力ありきで、そうでなくてもその力は個々にも分配されている」
文化の話。葦が力を持ち、今に至るまで繁栄してきた起源の一端。
「それが名前だ」
〈アキヨシ〉
帰り際、わざと彼女はそう呼んだ。〈何で言わなかったの〉と文句を垂れたその人が。
「最悪、名前だけでかけられる呪いがある。アイツはお前に災厄が降りかからないよう、わざとそう呼んだんだ」
別に知らせる必要はなかった。けれども間違った覚え方をすれば、そこに生じた負の感情は決して本人には届かない。アテの外れた呪いは行く先を持たない。
「今はどうであれ、懇意にしてる男相手にウソつかせるなんて、罪だねぇ」
言いながらコートを見る。杉田さんの姿はまだ見えない。
「……結局お前らだけになっちまったな」
新しい期が始まる。春先。新たな受講者がベンチに並んでいた。いつも寺岡さんが、小出さんが、赤妻姉妹がいた所に、知らない人達が座っている。何となく決まっていた定位置。ボクの所にも誰かが座っている。
「……」
胸が、痛い。ボクはただ、テニスをしに来ただけなのに。
〈アキラ〉
誰もボクがスマッシュ下手クソなのを知らない。誰もボクを表立ってからかったりしない。誰もボクを名前では呼ばない。そんな、それまでは当たり前だったこと。あの人達がいなくなることは、こんなにも寂しい。
まぶしい照明。野球場を照らすようなライトが、異なる方向から照らすおかげで、この時間帯、バウンドしたボールは三つの影をまとってブレ球化する。だから今まで普通に打ってきた人達も、慣れるまでは戸惑う。
それを全く外さない人がいた。いつだって機械じみたストロークを繰り返す人が。
〈アキラ〉
その黒縁メガネの奥で細まった目。
〈ありがとう〉
強い光に重なってボールをロストすることがあった。スマッシュ練習の時、ネットにかけてばかりで背後から凄まじい圧を受けていた時、踊るように打つ人がいた。流れたボールをバックハイで受ける、ただ一人騒がしい人が。
〈アキラ〉
なで肩、長い首を伸ばして笑う。
〈あれ、戻ってきたの?〉
「……入んねぇの?」
門番のごとく立っていた五十嵐さんは、既に道を開けている。ボクの手にはラケットがあり、テニスシューズを履いている。ここに入る資格あった。けれど受け入れられない何か。目の当たりにして、すぐさま飲み込めずにいるもの。
新しい人同士が始めたショートストローク。二、三本で途切れる。ネットにたまるボール。力んで振り出しが早くなる。ネットにかけまいと面を上に向ける。
同じような遺伝子を持つとは言え、面白いように小さなやりとりを繰り返す子達がいた。きちんと自分の打点で捉えて返す。フォアバック遜色なく、まるで小鳥の戯れのような会話をする子達が。
〈アキラ〉
小さくとも体中にエネルギーを溜め込んだ個体が駆けてくる。二人は顔を見合わせて笑った。
〈しょうがないから教えてあげる〉
髪の長い姉が元気よく手を挙げる。
〈あたしは『アカツマ カズハ』〉
交代で黒まりもの妹が手を挙げる。
〈私は『アカツマ コウヨウ』〉
驚く。僕自身、てっきり「イチヨウ」と「モミジ」だと思っていた。
〈あたしが訓読み〉
〈私が音読み〉
よくよく聞けば一人称も違う。二人は再び「しょうがないから教えてあげる」と言い残すと、駆けて行った。つい先日のことだった。そう。
つい先日まではあった場所。同じ照明に照らされて、同じ白帯の中で、同じように駆け回っていた。その影が濃い分、上手く現実に焦点が合わない。
〈よく見て〉
強く目をつむる。この時間になっても来ないということは、杉田さんは今日は休みだろう。おかしいことなど何一つない。これが普通の初級であり、ボクがずっと望んでいた世界だ。
だからおかしくなってしまったのはボク自身だ。この場に置いて、今のボクに見るべきものは何もないように思えた。
「目は、口ほどにものを言うんだよ」
顔を上げる。五十嵐さんはコートの方を向いたまま続けた。
「下手だなって思った? 自分の方が上手いって思った?」
息を呑む。それはここに来た時、一番最初に言われた言葉。
あの時、ボクはどう思った。
「……別にいいんだよ、それで。お前はもっと自分に自信を持った方がいい」
五十嵐さんは入り口の取っ手を引いた。
「初瀬の居場所は俺が知ってる。だから安心しろ」
見覚えのあるシルエット。けれども見たことのない格好は機能性重視。
ジャージのポケットに片手を突っ込んだまま、その人自身が入り口をくぐる。その後に続いた。
「……。……この競技好きじゃない、って」
「そんなに、な。嫌いじゃない。仕事してるといるだろ、言ってること正しいけど口だけのヤツ。言い訳が一切きかない分、本当にやった分だけの成果が目に見えるってのはいいよな。そんで自分のパフォーマンスから目を逸らせない分、人のことをとやかく言うヤツも少ないし」
そうして「基礎から学び直したいんだ。お前付き合え」と言うと、ベンチに置いてあるラケットを取った。
何が嫌いじゃない、だよ。大好きじゃん。
そのキレイなガット。堂々遅れてコートにやってきたボク達には目もくれず、いつものメニューをこなしていくコーチは、列についたボク達にも同じようにボールを出した。
パァン、トッ、パァン。
打てばあっという間に蘇る。いかにこの競技が好きか、気持ちの輪郭を思い出す。自由自在に動く手足があること。見えて、聞けること。全て当たり前じゃない。テニスをするたびかみしめる。自分は幸せである、と。